文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

◆この秋のセンチメントよいつまでも続いてほしい。

2008年09月28日 21時27分54秒 | 詩作品

えっちらおっちらと休日なのに
事務所のAVアンプとCDプレーヤーを自宅に持ち帰った。
どうしても事務所の音環境が不満だったから
ヤフーオークションで、マランツのアンプを購入。
それで余った、デノンのアンプを持ち帰った。
このアンプ、29キロ。重かった。
それで、昼間ブックオフで買った
ゴンサロ・ルバルカバのCDをかける。
快調である。
ドラムは、いまのところ最も好きな、デニチェンこと
デニス・チェンバース。
キャラバンを聴く。

枕もとと言うか、手元にこの重たいアンプがやってきた。
めでたい。

で、中日巨人戦をラジオで聴く。
荒木、ホームラン。
快勝と言える。
中日球場最終戦。
落合監督が挨拶している。

阪神にマジック再点灯。

そこで、
秋の憂い。

メンデルスゾーンの交響曲3番をかける。
コンヴィチュニー指揮、ライプチヒ・ゲヴァントハウスO

この曲の初演をメンデルスゾーンの指揮でやった
オケですね。

秋の夜長が長いことの幸せよ。

ブックオフで買った「メルロ・ポンティ入門」を読みながら。

船木亨 という人の本。

「人間の身体は、内臓と骨格と筋肉が、異臭のある粘液によって絡み
あわされて、のたうちまわっている物体である。それにまた、そこに
一枚の薄皮がかぶさって、動植物の干からびた屍骸を、皮膚が見える
ように、あるいは見えないようにと微妙に纏いつけ、くねくね動いて
いる肉である。そのようなものこそ、われわれが他の身体に感じとっ
ている人間の他者性、つまり身近なだれかの背後に隠されている「お
ぞましさ」と「いろっぽさ」とである」

ああ、自然の多元。
無限という刹那と無情=恋情をよくもたやすく言い当てるものだ。

この秋の野球がらみのセンチメントよ、
いつまでも続いてほしい。




●神巨戦とテンシュテットと車谷長吉と、底なしの無常と。

2008年09月27日 21時31分52秒 | 日録雑感


白熱の神巨戦をラジオで聴きながら、
アイポッドでは、クラウス・テンシュテットが
91年にLPOと録音した「ベートーベンの合唱」を聴いている。
途中では、車谷長吉の自伝的私小説「贋世捨人」の
終盤を読んでいる。
小説「白痴群」を何度も何度も書き換えているところ。
テンシュテットは、宿阿の病いを押して
まさに燃焼し、さらに燃えつくしている。

表現とは、結局、作品という成果物に帰結することのみにおいて
はじめて「有」に転嫁するが、これは
作者の表現行為の本質とは、どこまでいっても交差しない。

表現行為は、物に還元されないからだ。
あるいは、表現者は、還元されてなるものかと思う。
しかるに、表現物は残る。
これは、浪漫かもしれないが
この文脈など、知ったことではない。

テンシュテットにおいてもそうだろう。
ベートーベンにおいても、
新井選手においても
車谷においても。

表現行為が表現物になるのは、「営業」においてであり
もっとも恥ずべき、しかも尊い営みで成される。
詩人の場合、これを表現者が
プレイングマネージャーとして成さざるを得ない。

表現行為は、無の文脈ではなく独我論の文脈で
はかなく「有」となり
表現物は、自然の文脈で「無」となる。

音楽のことを考えれば、このことは、すぐにわかる。

エリック・ドルフィがかつて言ったね。

「音楽は、演奏されればそこで消え去る」と。

詩もそうだと思う。

自然の文脈で、やっと存在が猶予され
自然の文脈で、齟齬としての「無」が保障される。






■阪神タイガースの優勝という大輪。きっと咲くだろうね。

2008年09月12日 17時11分12秒 | 日録雑感


きょうの、写真。
こちらの朝顔は、ノラではありません。
昨年、思いがけなくもある人からいただいた
江戸の朝顔市の由緒正しき大輪。
去年、しっかり種を獲り
事務所に植えて育てました。
絞り模様があでやかで、うれしい。
その横で、小さな鉢に座っているのが
京都の町中で粒々の種を拾って育てている菫。
今年の春には、可憐で直向きな花をつけました。
大きくなった葉をちょきちょきやってやると
花をつけやすくなるようです。

タイガース、優勝かなあ。
やっと思えるようになってきました。
連続サヨナラ勝ち。
イライラする展開だったが、
甲子園という地元球場の「地の利」が
そうさせているのでしょう。

●秋風といっしょに、ノラアサガオの青いとぼりが、ぽつぽつぽつと

2008年09月10日 13時24分09秒 | 日録雑感

 写真は今朝の、事務所のベランダ。

6月ぐらいに種を植えた
事務所の朝顔が、このごろ激しく咲きだした。
4、5年前だろうか
自宅近くの田畑の端で、ノラ状態のまま
咲いていたものを、晩秋のころに
種を拾ってきた。
この可憐な“青”は、透き通る。
しぼめば、紅に変わる。
涼風の吹く、毎朝に
ぽっぽっと、青い灯りがともる。