文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

◆マイルスのこと、ふたたび

2012年05月01日 22時14分29秒 | 音楽
マイルス・デヴィスは、アルバム「ジャック・ジョンソン」で
スライ&ファミリーストーンの「シング・ア・シンプル・ソング」を引用挿入している。
具体的には、同アルバムの「ライト・オフ」の後半で、スライの曲中におけるギターとベースによるリフを、ジョン・マクラフリンに再現して繰り返すように指示したようだ。ただ、このアルバムは、何度かの“遊びのセッション”の模様をたっぷり収録しておいて、そのテープをプロデューサーのテオ・マセロがほとんどマイルスが関わることはなく、勝手に編集したようなも...の。
だから、ある意味で、テオの翻案であり、半創作物ともいえる。
ただ、この1970年頃のマイルスは、スライの音楽にかなり影響を受けていたと思われる。
それで、このアルバム「J.J」の挿入部分と、スライ&ファミリーストーンのオリジナル音が収録されている「スタンド」を聴き比べてみた。
じっくり聴いて、ひきこまれてしまったのは、久しぶりに聴いたスライ&ファミリーストーンの音楽だった。なんと、混沌として、濃厚な“ブラックネス”なんだとどっぷりはまりこんでしまった。CDよりもアナログLPで聴きたいとも思った。この液状であるのに“ザラザラした”触感は、どうだ。あきらかにマイルスよりも時代性に身投げして潔い。
マイルスにしてこの混沌ならば、「オン・ザ・コーナー」の横溢する破調とはくらべようもないほどに、「J.J」の密度は、すかすかしている。
「液状の」といって、そうだよなあマイルスにもたらりと垂れる液状の地平があったはずなんだけど、これは、スライの音楽にあふれていたんだ。
このアルバム「スタンド」の7曲目に収録された「セックスマシーン」のヴォイシングなど、マイルスは即座にいかれたのだろうな。
むだなく、清廉として邪悪な前衛が鳴っている。

       ●

相当以前に読んだのでうろ覚えなんだけど、マイルスは自伝で「ヴォイシング」ということを語っていて後年、ジミヘンが使っていた、「ワウ・ペダル」に強く興味をもち自分でも多用するようになる。それで、トランペットでギターのような人声のような、獣のような「音=ノイズ」を混在させる。その自伝で語っていたことで、とても
驚いたのは、ずっと昔のことだけど「フランク・シナトラのオール・ザ・シングス・ユー・アーの歌唱をヴォイシングした」という発言があった。
その音源は、はるか50年代なんだけど、7...0年代になって、もちろん推測だけど、
彼は、ジミ・ヘンのギターをトランペットで人声に似たものに翻案したのではないか。
そういうふうに「オール・ザ・シングス・ユー・アー」のフレージングと「間」を聴くと、確かにシナトラの歌声がかすかに聴こえる。思い過ごしか。ただ、この「似たもの」という発想がすごいと思う。
似たものを追求することで、つねに典型からはぐれ、破れていく。「なにやってんだ」と思われる。
確かに、70年代のマイルスは、リアルタイムに聴いていて、ジャズ喫茶でもどこでも
「なにやってんだ」と苦笑されていたなあ。でも、彼はそこに「想像できないもの」をどこかにとらえ一点突破しようともがいていたようにも思う。あの時代、ジャズの世界で一番「もがいていた」のはマイルスだった。コルトレーンがもちろん外に出ようとしていただろうが、圧倒的に「内面=スピリチュアル」に走っていたとき、
マイルスは、いつも外出だけを考えていたのだ。

       ●

あれは、高3の秋。文化祭で、「黒人差別とジャズ」というブースをつくって文化祭でがんばった。
受験間近で当初いっしょにやろうとしていた仲間は、みんな去ってしまって、一人でプロデュース
してなにもかもやった。黒人の人種差別の問題とジャズ音楽との関わりを考えるというテーマで
別にクラブ活動でもなく、楽しく作った。校長がやってきて、一応ぼくが説明すると「よく考えてるね」
と言った。「まあね」。受験なんてどうでもよかった。それで、隅っこにジャズ喫茶の空間をつくった。
香をたいてコーヒーを出した。さすがウィスキーは出さなかった。
ブレイヤーに当時のエレキギター用のアンプ+スピーカーをつないで
マイルスの「マイルス・イン・ザ・スカイ」を大音量でかけた。卒業した先輩は、大学で闘争にあけくれていて
、ぼくのマイルスを思い切りけなした。「コルトレーンかけろよ」と。
その当時、確かに「マイルス・イン・ザ・スカイ」がいいなんて、誰も評価していなかった。
文化祭のブースで、みんないなくなったとき、ぼくは、さらに大音響で、そのアルバムをかけた。
とてもいい気持ちだった。でもマイルスの音楽はそのとき、「本質的ではないな」と思った。
先輩たちは、しきりに「マイルスのジャズはノンラディカルだ」とかなんとか言っていた。
今となってはどうでもいいことだが。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

■パーヴォ・ヤルヴィのブルックナー9番、「さようなら」が消えていく。

2012年03月09日 18時35分27秒 | 音楽
パーヴォ・ヤルヴィ指揮、フランクフルト放送響で、ブルックナーの交響曲9番を聴く。ブルックナー、最後の未完交響曲。未完であるのに、完全に、閉じていく。全3楽章、65分39秒。彼の曲はだいたい80分くらいあるのが多いが、確かに短く感じられる。この9番を聴くといつも、「ああ終わってしまった」と思ってしまう。ずっと聴いていたいと思う。彼の他の交響曲とは、なにかが違う。諧謔や、楽想や小さな躍動がまったくない。企画がないといってもいい。それだけ自然に全楽章が流れていく。美しい諦観といったらいいか、はじまりから終わりまで、「さようなら」が繰り返される。墨絵のように淡彩で、それが、さっと書かれて「消えてもいいよ」と言っている。
第一楽章の最後に、この「さようなら」が喉に満ちて、息が詰まって、全休止で音が止まる。ここで、いつも感興が高まって、目前の絵が一瞬で、消え去る。
長谷川等伯が書いた、あの松林図のように、淡く空白と酷似してくる。この部分、指揮者や楽団、ホールトーンなどいろんな条件によって異なってくる。
ギュンター・ヴァント指揮ベルリンフィルの演奏では、平面の絵が空白に変わるというよりも、立体的な目前の世界が、一気に瓦解していく様が見える。その意味で、淡彩ではなく、あるいは掠れているのではなく、デジタルなスイッチを発動させて、建物がざあーっと崩れていくのである。世界が面ではなく、造形されたなにかに感じられる。
パーヴォ・ヤルヴィの当盤は、この響きがやわらかなフランクフルトの「アルテオパー」のその空間に楽団の音を、ざざざあと摩耗させるように消している。美しい。
もともと、ヤルヴィは、ヴァントが来日して北ドイツ響とともにこの9番を演奏したのを聴き、強く影響を受けたと言明していたそうである。ヤルヴィは、その意味でも、自らの解釈を具現化しようとしたのだろう。ヴァントに比べて、全体に、ゆったりとしている。

きょうは、京都も一日雨降り。春を呼ぶ、慈雨だろう。でも終日、夜のように暗かった。
65分39秒があっという間に過ぎた。そして、もう一度一から、65分39秒を繰り返し聴いている。ブルックナーがまた、「さようなら」を繰り返している。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

◆カンチェリとペルトの癒し

2012年02月12日 18時18分04秒 | 音楽
エストニアのアルヴォ・ペルトやグルジアのギア・カンチェリの
音楽を一時期、よく聴いた。ロシアとドイツの大国にはさまれた
東欧の小国であるが、激情に根差したパルスや、鬱積した寂寥は
ヨーロッパの正統とは違っている。
どちらも、20世紀の音楽だが、現代音楽の前衛性の底を衝いた
その先の、擬古的な静謐さに至っている。つまりは、現代性を
一周して、なにかにたどりついている感じ。
この安堵感を、「癒し」や「安息」などといって、一種の環境音楽のように
語るのは、少し違うように思われる。
たとえば、バッハやベートーベンやモーツァルトにないものが
これらの音楽にはある。
さきに聴いた、ニールセンのデンマークや、シベリウスのフィンランドなども
そうだが、そこには、民族的な怒りの衝動がある。
このパルスが瞬発していく、褶曲が、いってみれば
ジャズに似ていなくもない。まあ、その類似については語っても
意味がないが、ジャズを聴いたあとにカンチェリやペルトを聴いても
なんの違和感もない。
角度を変えれば、彼らの音楽を発信するECMレーベルの眼目も
そんなところにあるのだろう。
根底にあるのは、民や国土や日常への信があり
その代弁者としての誇りもあるのだろう。
ニールセンという名が日本ではどちらかといえばマイナーであるが
彼らは、紙幣に肖像が描かれるほどの、国民的な創造者であること
にもそうしたことは表れている。
もちろん、私たち、私にはそれを心底理解することはできない。
だからこそ、「癒し」の音楽として受容されるのだろうが
それはしょうがないし、作曲者の意図と違って、どう受け取られようが
音楽自体の魅力は変わらないだろう。

カンチェリの音楽は、寂しく、悲しい。その悲しみの審級は、聴く主体である
己の感性の芯にとどき、深いなにかをもたらす。
そうした「私よりも悲しく寂しい」という理解が
つまりは、「癒し」の正体なのかもしれない。

それとも、今を生きる私たちにとっての「癒し」は、ただ静謐であるだけでなく
どこかに、歪んだ衝動がないともう満足しなくなっているのだろうか。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

●ヤナーチェクの呼吸。

2012年02月05日 19時15分53秒 | 音楽


ぼくは、ヤナーチェクの悲しみがわかるような気がする。
そして、それは、彼の部屋を撮影した、写真家
ヨセフ・スデックと重なる。その重なり方が
自分では気にいっている。
ヨセフ・スデックは、彼の父親がヤナーチェクと親交があったと
... いう縁で、作曲家の残された室内を撮影する。
スデックはそのときすでに、戦争によって片腕を失っていた。

ヤナーチェクの呼吸。
彼が、最後の弦楽四重奏「ないしょの手紙」を創作した部屋。
そこに、どんな空気が充満していたか。
どんな凍てる悲しみがたゆたっていたか。
音楽を聴くと、清い湧水のように満ちてくる。

「ないしょの手紙」という、俗っぽい副題がついているが
作曲家が死ぬ目前に書いた、渾身の一曲である。
生きているときの記憶の集約。凍結。
それは、38歳も年のひらいた人妻へのラブレターとして
作られている。

西洋音楽の正統とはかけ離れた、奇妙な旋律。
震えるような不安定な抑揚。
まるで、発語のような、そう言葉を朗詠するような
声の翻案。

あえてソナタ形式を無視し、あふれだす恋情に
身投げしていく。
しかし、そうした挿話を知らずとも、切々とした
弦楽四重奏のたたずまいは、時代を超えて
わたしにとどく。
この音は、ヤナーチェクの愛と生とを交換した音なのだ。

それから、数年たち、主のいないこの部屋へ踏み込んだ
写真家。第二次世界大戦では、ナチスによって
撮影対象を制限させられ、自らの身辺をずっと撮り続けた人。

その人が、ヤナーチェクの息が潜む空間を撮った。
日常への愛。ファインダーが、空気に迫っている。

ヤナーチェクの「in the mists」、「霧の中で」を聴く。
悲しみは清澄であっていい。
1912年の作。不幸な祖国、チェコスロヴァキアは当時
母国語を奪われ、ドイツ語が公用語となっていた。
忍び寄る、暗雲。
... そして、作曲家は音楽界からはほとんど認められることはなく
60歳になろうとしていた。

生涯のほとんどを、一地方都市であるブルーノで
作曲をつづけた。その光景を
ヨセフ・スデックは、撮っている。

同時期に作られた、ピアノによる小品
「草陰の小径にて」にも通じる
霧がふる、個的な場所。その場所は
思いが充満する、霧まみれの袋。

ピアノは、その袋から嘆息を漏れいだす。

少しの歌謡、旋律。それが、民の歌を代弁する。

三人のピアニストによって、聴く。

◆アンスネス
◆バーレニーチェク
そして、ヤナーチェクの化身のような
◆ルドルフ・フィルクスニー

2012年2月4日の朝、霧に洗われる


ピアニスト、ルドルフ・フィルクスニーは、5歳のときに、ヤナーチェクに出会い、以後ずっと師事した。
彼の述懐によると、ピアノの教え方は、特異で、いきなり
小品の作曲をさせたという。
技巧の鍛練には厳しく、同時にイマジネーションの飛躍ももとめたようだ。
幼いころ、その宿命から孤児として育てられたヤナーチェクが、ただ、様式にのみ埋没する固苦しい、アルチザンであろうとするならそれは理解できるが、どうもそうでもないらしい。
... 相当に、変わりものであったであろうことが、うかがえる。

フィルクスニーで
「草陰の小径にて」を聴く。

組曲第一集には、それぞれ文学的なタイトルが付されている。

1私たちの夕べ
2風に散った木の葉
3一緒においで
4フリーデクの聖母マリア
5彼らは燕のようにしゃべる
6言葉もなく
7おやすみなさい
8こんなにひどく怯えて
9涙ながらに
10フクロウはとびさらなかった

小さな声で語られる、内面の秘話(悲話)。
楽譜どうりに曲をたどっても
その内面は、見えない。
まるで、親子のように生きた
このピアニストだけが弾ききる、静かな述懐。
弱音の美が際立つ。

似たような、関係は
ディーリアスとフェンビー
にも感じられる。

曲想は、まったく違うが
ヤナーチェクとディーリアス
何か、通じる。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

◆あらためて、セシリア・エボラのことと音楽について

2012年02月05日 17時33分08秒 | 音楽
昨年の暮れに70歳で亡くなった、セシリア・エヴォラのことが
ずっと気になってしょうがない。
セザリアという表記もあるが、10年ぐらい前に買ったCDに書かれていた
表記のまま、ぼくの頭の中では、「セシリア」で記憶している。
そのときのCDには「大西洋のビリー・ホリデイ」と謳われていた。
まあ、ビリー・ホリデイと似ているかどうかは別にして
歌が心に沁みた。解説の中に彼女の肖像がのっていて
ウィスキーの入ったコップを手にした、酔っぱらった老女だった。

そのとき、ぼくは彼女の音楽もそうだが、住んでいる島が
気にかかった。その島、「カーボ・ヴェルデ」を地図で確かめると、
ポルトガルにあった。(公用語もポルトガル語)
ポルトガルといっても、ヨーロッパの圏域内でもなく
どちらかといえば、アフリカの圏域にも近く、ちょうどその中間の
大西洋に浮かぶ、孤島群であった。

少しこの島のことを調べた。あまりなかったが、この島の音楽を
集めた2枚組のCDも購入して聴いてみた。
どうもこの島は、ヨーロッパと新大陸アメリカを結ぶ要衝であったようだ。
なんのための拠点であったかというとアフリカ大陸の
黒人たちを運ぶための継地としての島であった。
要するに、当時の西欧人たちの搾取と収奪のための島であったとも
言える。
もう少し調べてみると、黒人たちは、この島からアフリカ大陸の
象牙海岸を経て、ブラジルや南米諸国に運ばれていた。
そういう歴史がある。

彼女の唄う歌は、「どこかの歌」であり、「どこでもない歌」に聴こえた。

ぼくは、このCDを聴いていた当時、ジャズ関連の仕事で
ニューヨークに行った。ジャズを聴きに行って、そこで南米音楽の
魅力にとらえられてしまった。

たとえば、トライベッカのSOBsで聴いた、カリ。
ヴィレッジゲイトで聴いた、グルーポ・ニチェなどの演奏に接した
衝撃は、同時に聴いた、ジャンポール・ブレリーやデビッド・マレイを
凌駕した。それからは、一時期はずっとラテン音楽にどっぷり。

コロンビアの弦楽がからむ、ダンス音楽。気品が香るブラジルのショーロ。
マルチニークのビギン。プエルトリコの労働歌。ハイチやチリなど。
そしてとくに40、50年代のキューバ音楽に深く魅了された。

アンソニオ・ロドリゲス、カチャーオ、コルティーホ、マチート
タブー・コンボ、ラファエル・フェルナンデス、
そしてトロンボーンのモン・リベーラ、ピシンギーニャなど、
好きな音楽家をあげればきりがない。

セシリアの歌は、ポルトガル語という言葉のニュアンスもあるが
ファドのようでもあり、ブラジルの古謡のようでもあり、
確かに、ビリー・ホリデイのジャズのようでもあった。
さらには、彼女がキューバで人気があるように、キューバ音楽
のようでもあった。「どこでもない歌」は、ただ、「クレオール」
といえばそうでもあるが、ひょっとして、いや多分
アフロリズムの混在した、その根の芯の部分に
はるか昔の、クープランなどの小唄などがまざっているのではないかと
夢想した。

たとえば、マルチニークという南米の島に「ビギン」など、西洋風の
優雅が混ざったか、そしてその優雅にシドニー・ベシェやチャーリー・パーカー
たちジャズメンが魅せられたか、
カリブ音楽圏の、ポルトガル語、フランス語、スペイン語、英語など
多様な言語による多種多様な音楽が、ニューオリンズのストーリービルに
吹きだまるがごとく集積したか、そのはるかな道を思った。

また、マルチニークに育った医師でもあった、フランツ・ファノンのことを
思い出し、第二次世界大戦の疎開で、レヴィ・ストロースとアンドレ・ブルトンが
島へ向かう船上で出会った逸話なども想起した。

つまりは、セシリアが70年、心の錘のように胎に澱ませてきた「唄」こそが
ジャズの根ではないかと考えた。



そうしてある日、ホレス・シルバーに「カーボ・ベルデ」という曲があることを
思い出した。なぜか。よく調べてみたら、このファンキージャズの創始者でもある
ピアニストの父は、セシリアと同じこの島の出身者だった。

よくよく地図を眺めてみれば、ポルトガルのカーポ・ベルデ島と
ニューヨークは、地理的にも近しいことを知った。



たとえば、これを「大西洋の道」として、「太平洋の道」を考えれば
マダガスカル島で独自に熟成されたポピュラー音楽のことも重要だ。
タリフ・サミーというグループが唄う、あの喜納昌吉の「花」。
伴奏に加わっているのは、デビット・リンドレイやヘンリー・カイザーら
西洋人だ。

それから、「大陸の道」もあろう。去年、ジョルデイ・サヴァールが
スペインから日本まで、東へ東へ伸びる音楽の道をたどった実験的な
CDがあった。その果てにあったのは、日本の「新内」や「清元」「常磐津」など。
もちろん、日本はとだされた国ではあったが
河内音頭と鉄砲伝来との関連だとか、とても面白い話もある。

マダガスカルからインドネシアまで、船で漂えば、想像以上に
短い時間で着くという。



まだまだいっぱい知りたいことや学びたいことがある。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

マイルス、コルトレーン、オーネットそれぞれの前衛

2012年01月17日 21時37分53秒 | 音楽
このマイルスのブートレグが収録されたのが、1969年。「ビッチェス・ブリュー」
のでたすぐあと。
ぼくは、高校3年生。その頃は、まあとにかく蝶ばかり追いかけて、全国の山々を歩いていた。
それで、家へ帰れば、ジャズだった。街へでてもジャズだった。
いま、この頃のマイルスを聴いて思うのは、「当時の高校生が聴いて、わかるわけないだろ」
ということ。
コルトレーンが死んだのは、この2年前の67年。あの当時のことを顧みてみれば、
みんな、コルトレーンをある種神格化して聴いていた。レコードが日本で、発売されるのも
いまみたいにリアルタイムではなかった。
ジャズ喫茶でも、その頃は、コルトレーンのインパルス盤なんかが「ラディカル」などと
いわれてよくかかっていた。それで、客たちは、変な瞑想をしていた。
マイルスはその頃の日本では、はぐれていた印象がある。まあ、せいぜいひねもす、
「カインド・オブ・ブルー」であったか。
... 「前衛」なんてあてにならないよなあ。いま聴くと、こんなにぶっとんで、状況からはぐれ
て孤高なんだから。
ぼくはその頃、最も先端をいっている音楽をオーネット・コールマンだと思っていた。
それでいま、いまだよ、彼の「ニューヨーク・イズ・ナウ」というアルバムを久しぶりに
聴いてみた。
このなかの、「ブロードウェイ・ブルース」という曲が大好きなんだけど、この収録年が1968年。
当時、ブルーノートの直輸入盤は日本上陸が、割りと早かった。それで高価だった。
あのとき、おもいきって3000円ぐらいしたかなあ、よくおぼえている。
見開きのレコードジャケットの、ジミー・ギャリソンのセーターの格好よかったこと。
でこのオーネットのアルバムは、43年も聴いているわけだ。



オーネット・コールマンの「ブロードウェイ・ブルース」をはじめて聴いたときの印象は
(それは高校生の頃ですが)、疾走感が「格好いいなあ」といった素朴なものです。
その頃は、オーネットが、R&Bに帰ったとは、思いませんでした。
元々、オーネットは、テキサスのフォートワースという、ブルース土着の地で生まれた人
でしたね。それが、まるで、ブルースやジャズの都市化(北上)といった、過去のアメリカ
音楽の迂回伝播ルートと同じように、ニューヨークに定着する。
フォートワースでは、キング・カーティスみたいなブローをやっていたというのをどこかで
読んだ気がする。だから「帰ってきた」と書いたのだけど、いま聴くと、R&Bというより
ロック音楽の剽窃のようで、一時期の「デカショー」だったかがやってた「24000のキス」の
カバーみたいに聴こえてきた。でも剽窃ではないか。
剽窃でこんなにも格好よくやれるわけがない。ちなみにこの大好きな「ブロードウェイ・ブルース」、
あまり他のジャズマンがカバーしてないんですね。とずっと思っていたら、
大西順子が演奏しているCDを最近、聴いた。大西順子の男性的な「ピアノ圧」は、相当好み。
だから、オーネットは、自然に「ラララ、」と胸の内から湧き出てきたんだと思う。

1967年にジョン・コルトレーンが死んで、ジャズは、「さて、どうしようか」となった。
オーネットは、アトランティックでの「ジャズ来るべきもの」や「世紀の転換」などで
「ノンシャランな前衛」を突き進んだ。というのは、オーネットにとって、前衛なんて
「自分の歌を好き勝手にやればいいんだ」という決意でもあって、さしたる構えは必要なかった。
そして、この70年代の手前では、小休止していた。

ちょっと横道それるけど、最近岩波新書ででた「コルトレーン」という本で、彼の来日時のインタビュー
がでていて、コルトレーンが「尊敬する音楽家」としてオーネットの名を挙げていることを知った。
コルトレーンが来日したのは、うろおぼえだけど、亡くなる前年だったか、1966年だから
オーネットのアトランティック時代のことをたたえているわけです。
それとも、「ノンシャランな前衛」をたたえ、羨望しているのかもしれない。

ジャズを聴きながら、ちょこっとだけ今日、ジョン・ケージの「セヴンティ・フォー」を聴いたのだけど、
これは、日本の「声明」だよと思った。
さて、70年代を前に「ジャズをどうしよう」とある限られた人たちは考えた。
このように、内面の宇宙をたどるいわゆるスピリチュアルへと向かうか。
このスピリチュアルとかコズミック音楽というのは、つまりは、宇宙といっておきながら、
ある種、異郷という極所を憧憬することでもあるのですね。その証拠に、
さっきのコルトレーンの来日インタビューで、尊敬する音楽家として、
彼は、ラヴィ・シャンカールの名前を挙げています。今の、ノラ・ジョーンズのお父さんですね。
ジョン・ケージの中の楽天的に抜けた、ある肯定的に突破する前衛の中に異郷
への無抵抗な賛嘆があります。たとえば、彼のトイピアノを使用した曲などは、
ひょっとしたらこの「異郷への憧憬」と相似であるともいえます。
それから、ジ...ャズの脱皮として、後衛を選んだ人もいました。
この本題から逸れますが、ソニー・ロリンズです。後衛というのは、ぼくは、ジャズにおいて、
あるいは、音楽においても肯定はするのですが、つまりは、職人的にさらに成熟していこうとする姿勢です。最近の、ロイ・ハーグローブや、クリスチャン・マクブライトやデヴィッド・マレイなんかも、
どちらかといえば後衛だと思う。クラシックではたとえば、ロリオなんかは、
この後衛性を暴力的に引きちぎって反転させたりしていますが、、、、。
ジャズが「現代音楽のように」と模倣のような前衛を志向しましたが、これは長くは続きませんでした。
それはなんでかというと、退屈で面白くなく、演奏者は、「食っていけなかった」からです。
というのは、クラシックでは、デュティユーでもノーノでも曲をつくれば、曲自体は、残り記され
繰り返して演奏されます。ジャズの場合、その刹那で、一回性だけが求められて、奏者は消えてしまいます。そのあたりへの反発としてかどうかわかりませんが、マイルスは、
このころ、同じ曲ばかりを繰り返して演奏しています。
「じゃあ、ロックへ」って走ったジャズマンもいましたね。
この場合、成熟したロック市場のマーケティングに、ジャズはまったくついていけなかった。
圧倒的に後追いで後発だったのだ。しかも、ジミヘンでもジャニス・ジョプリンなども、
疾走したら即座に死んでいくというその速度感にもついていけなかった。

で、本題の本題、マイルスです。
マイルスは、ジャズの出口を、どう選んだのか。
彼は、徹底的にアナーキーです。ぼくは、音楽の出口に立って
あれこれと、イデオロギーをかざすのを好みません。
そうしたポーズがそこにあったとしても、ポーズを
... 音楽として聴く気はしない。たとえば、ミンガスなどが
ある意味で黒人の人権問題に言及したというような
キャンディッド盤の一連のアルバムでも、ぼくにとって
音楽は、彼らの政治性になんら関わりはない。
ただ、そこに怒りや、その怒りによるパルスの先鋭はあるだろう。
でも、そうしたポーズのような、「音楽の衝立」には興味はない。
マイルスは、そうした「衝立」とは無縁だった。

音楽に、芸術的美観と職人的美観があるとして、
その岐路をマイルスは破った。
あるいは、それは、マイルスに先行したであろう
スライ・アンド・ファミリーストーンなどの
能天気が、素早く鋭く破調した。

マイルスは、彼自身は、この「ビッチェス・ブリュー」の
後でも、職人的美観に拘泥していた。それは、曲全体の
一連の流れの中で、まったく異質だ。
突然、ペットが奏でる
「ラウンドミッドナイト」のフレージングそれは、
頑固の塊のようでもある。ある一定の、つまりこの晴れの瞬間に
彼は、ただただ様式的である。

その意味で、「ビッチェス・ブリュー以後」のマイルスにとっては
トランペッター、マイルス・デイヴィス個人よりも
ひとしきりのパフォーミングを「作曲する」音楽家としての姿勢が
際立ってくる。アナーキーといって、ぼくが肯定したいのは、
この点なのだ。



コメント (3) |  トラックバック (0) | 

ラモーからミヨー、横道から、エリック・ドルフィ。

2012年01月06日 22時01分11秒 | 音楽
きょは、ジャン・フィリップ・ラモーを聴いていた。
フランスの作曲家で、1764年に没している。
フランスは、ラヴェルやドビュッシーが出現するまで
音楽不毛の国などと言われた。
ラモーがいるじゃないか。驚くべき前衛。
... 甘い旋律であるのに、それをパルスで散らかして
こわしていく。クラヴサン曲集の中には、現代に
通じるアヴァンギャルドが胎動している。
ぼくは、マルク・ミンコフスキーが管弦楽でやった
CDで、ラモーを再発見した。それを
クラヴサンで聴き直したり、好きなピアニスト
ニコライ・ペトロフの鍵盤音で聴き直したりした。
これは、音楽の正統が未分化であったころの
暴く音楽なのではないかと、驚いた。
そのあと、試みに、ダリウス・ミヨーのチェロ協奏曲
を聴いてみた。ラモーから径庭一世紀以上。
ラモーの伝えに忠実でもあった。ミヨーもまた
エリック・ドルフィーの甘美な浪漫に似て
アヴァンギャルドでもある。泣きなのに泣かずに
暴いていく。爆、していく。そんなフランスの
やくざな音楽なのだなあと感じた。
そして、ラモーの肖像画を見る。
なるほど、ちょっとパンク。

ああ、ちょっとだけ、、ドルフィのヨーロッパライブを挿んで聴いていました。
冒頭、甘美なフルート。彼のバスクラ奏法の根本は、フルートの奏法に培われていたと思った。
アルトは、割と正統でもある。バスクラ(バスクラリネットね)では、現代音楽を意識したのだろうけど、見事のジャズの傘を着ていた。その意味でも、パーカーの嫡子。




西洋の歴史音楽を傍観したときに、
バッハ、モーツァルトそしてベートーベン、ブルックナー、マーラーの山脈は巨大です。
その山脈の頂には、ベートーベンのラストソナタが、びりびり鳴り響いているように思えます。


ベートーベンの交響曲でよく思うのは、1番から8番まで完璧な、ポップ性を追求して、ある程度彼の中で満足していたようなのです。
それが9番合唱で、破たんします。「やっちゃった」て感じで。
その分、彼の近代いや、現代は、後期弦楽四重奏や
ピアノソナタの狂気で補完されていたのですね。
すごいマッケッターでありマネジャーです。この優れた点は、ブラームスにいたっては、ただコンサバティブ、つまり真面目にふりもどされていい加減に溶解してしまいます。
ブルックナーもマーラーもシェーンベルクもだめでした。
案外、ひたひたとベートーベン的に行使していたのは、メシアンなのかもしれません。
その意味では、フランスで、ある種気骨として出現してきたのは、
メシアンといってもいいかもしれません。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ハイドンからジミー・スミスそして今道友信の「美について」まで。

2011年12月31日 00時57分59秒 | 音楽
今年最後に買ったCD2枚。
リリー・クラウスの「ハイドンピアノ三重奏」。
一曲目の26番。第二楽章に陶然。生きていることを忘れる。
これがほんとの忘年か。嬰ヘ短調という珍しい調性。
バイオリンは、シモン・ゴールドベルク。モーツァルトではなく
... ハイドンの地味(滋味)深い音撫で、平地を熱を冷ますように聴く。
もう一枚は、ジャズオルガンのジミー・スミス。
ゲストのボーカルがいいなあ。
ドクター・ジョン、BBキング、タジマハール、
ジミー・スミスのオルガンは、弛緩というかルードなダウン音が
いい。有名なビックバンド絡みよりも、
ブルースの室内楽のように、密室で絡む感じがいい。
タジマハールが逆にジャズ側にもたれてきているのが、ぴったり。
ブックオフで、ほかに今道友信の本(「美について」)を105円でゲット。
その中で、ブルックナーの交響曲5番について書かれていた。
今道氏が、ブルックナーを!
1973年に第一刷がでているが、あの時代にブルックナー
などほとんど誰も見向きもしなかったのではないか。
それも、5番の楽譜まで掲載されている。

この本のなかで、「創造とは、生命が別の生命を生むこと」
という小さな表題がある。

「新しい命を生むために古い命を捧げるのである。創造とは
制作とは異なって、一つの大きな違いを持っている。制作
とは、相異なれる多くのものから、一つのまとまったものを
まとめ上げてゆくことである。それに対して、創造とは、
ベルグソンも言っているように、多くの異なったものを生み
出すことのできるような、そういう一つのものをつくり出す
ことである。したがって、制作は構成である。これに対し、
創造とは生むことなのである。」と述べている。

別の生を生むための、生産的なセルフマネジメント。

そう考えてみれば、あのレディ・ガガならばどうだろう。
もちろん、彼女の周辺にはマーケティングの意図は
介在しているだろうが、彼女は、あくまで
身体的な喩をトランスさせている。オルタナの巫女?
まあ、とても面白い。独創的なプレイング・マネジャーである。

★ フェイスブックにアップしたけど、便宜上記録として
  こちらにもペーストします。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

■ブックオフ、おそるべしと今日も今日とて痛感してしまった。

2011年09月23日 20時28分16秒 | 音楽
なんとなくいつものブックオフ宝が池店へ。
すごく混んでいた。

それでいつもの500円のCD棚へ。

まあ、そんなに期待していなかったけど、
あまりにうれしい収穫だったので、書きたくなりました。

この宝が池店の500円棚は、驚く品がよく見つかる。

■リー・モーガン「コーン・ブレッド」

65年の録音。ジャズはもうこの時代には、青息吐息だが、それはそれで
楽しい散らばり方。逃げ道を探しているかのようだが、アルバムとしては
一定の定着をみせている。こういうジャズがぼくの学生時代の定番みたいなもの。
あの時代、70年代初めの梅田界隈の「ファンキー」などのジャズ喫茶を
思い出す。ジャズ喫茶の闇から出てきて、そこに射す昼間の太陽、陽光の暴力。
なんだか、漂流している青春のBGMみたいで、軽いなあ。

■ジョニー・グリフィン「リトル・ジャイアンツ」

多分、アナログ盤でも持っていたように思う。聞き直して、ちょっと驚いた。
最近、クレモンティーヌのバックでちらっとゲストで吹いていたグリフィンを
聞いて、あれっと見直したりしていた。59年録音。サイドにブルー・ミッチェル
ウィントン・ケリーなど。ばっと、ソリッドに飛び出す。飛び出すジャズ。
べースのサム・ジョーンズの緩み、弛緩ぶりが好き。高校生の時に、
オスカー・ピーターソンのベーシストとして来日していた彼に、握手を
してもらったことを思い出した。神戸国際会館。ピーターソンは楽屋で。
サム・ジョーンズは、楽屋もなく、舞台に上がって握手した。
昔は、そんな気楽さがあった。ぼくは学生服着ていた。ライブが終わったら
さあ、楽屋へ。そんなことができた。

■ジョルディ・サヴァール指揮「アリアーガの交響曲」

アリアーガって、知らなかった。でもサヴァール指揮ということで、思い切って
買った。500円だから、そう深刻でもないが。でもこれが今回の大収穫。
アリアーガって、19歳で死んだスペインの作曲家なんだ。
没年は、1826年。なのに近代的な憂愁が色濃い。モダンだ。ベートーベンまで
すぐそこ。サヴァールはピリオド楽団を率いているけど、古楽的な匂いは
まったくない。
昨日、車で帰宅するときに、ブルックナーの交響曲6番を大音響でかけていた。
朝に、第一楽章。そのままスイッチきったから、夜は、2楽章のアダージョ。
川端通りの丸太町を左折して、北へ。正面に北山の峰。
この奇跡的な悲しみの回路。死出の音楽だ。凍りつくような美しさに
寒々と硬直した。このアリアーガも少しそんな感じ。

■ホプキンソン・スミスのリュートで「バッハ集」2CD

演奏者はバロック・リュートの研究者のようだ。淡々。実に淡々。
枯れている。それが、なんだかバッハの底の底を見せているようで、
オルガン曲だってそうだよね。ある意味で、バッハにとっては
聴衆というのは、意識外だったのではと、強く感じさせる。だから
バッハのとくに、器楽曲は、バッハの本質をつくようで。
リュートのつまびきならばさらに。レオンハルトのチェンバロなども
リュートの音の流れに近い。ほんとにこのリュートすばらしい。
セゴビアのギターなどは、あれは、聴衆を向いて披歴する音楽。
それはそれでいいのだが。

■ブリテンとリヒテルの「シューベルトのピアノデュオ集」2CD

冒頭の「ファンタジー」作品D940がいい。4楽章の幻想曲。まあ、
リヒテルと指揮者でもあるブリテン、この曲を冒頭にもってきているのが、いいなあ。
多分ふたりとも、この寂しさを共有しているのだろう。歌謡的。
いいなあ。滅んでいくような伯父さんふたりの道行。

こんなCDが、500円。おそるべし。

ついでに、105円の文庫本2冊。

■小林秀雄「無常ということ」

■吉村昭「破獄」

昨日、広辞苑で「無常」と「無情」の字義の違いを調べた。
まったく違う意味のようで似ている。死んだ、つまりは
滅んでしまえば同じでも、生きているうちは違う。

いま、ブリテンとリヒテルの最終楽章。
まったくその意味は違うと、さらに思った。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

フランスの昔むかしの作曲家、ラモーの恋情に、うっとり。

2011年06月30日 22時04分04秒 | 音楽
このところ、ジャズモードになってクラシック音楽は
あまり聴かなかったが、
マルク・ミンコフスキー指揮のピリオド楽器編成の音が
新鮮で、ベルリオーズの「幻想交響曲」などはたまに聴
いている。
そのミンコフスキー指揮のジャン・フィリップ・ラモー
作曲の
フレーズ断片集ともいえる「想像の交響曲」というのが
あるのだが
これが楽しい。ミンコフスキーの引用創作曲。
憂い、恋情、ゴシップ、哀惜など
フランス小唄の、原型のような旋律。
すこしだけ有名な「めんどり」という題名の曲は
優雅で、粋だなあ。
鶏の鳴き声が、まるで、女の泣き声のようで。
それが、かなしいだけでなく、かわいい。
わがCDライブラリーで、「さて、ラモーって何かあっ
たかな」
と探してみたら、他に、クラヴサン曲集と
ニコライ・ぺトロフが2曲だけピアノを弾いていた。
それで、どれにもこの「めんどり」が入っている。
オーケストレーションとチェンバロとピアノで
ラモー。
ラモーは、1764年に死んだ人。
きっと、粋なニヒリストだったのだろう。

コメント (0) |  トラックバック (0) |