鷹狩りの折に―東国を固める談合
慶長19年は、徳川幕府にとって、もっとも大事な年でありまする。
大御所様は、上総への鷹狩りを名目に着々と東国の武将を束ねて、大坂城の豊臣家の力を削ごうと策略を巡らしたのでありまする。
先ずは、秀忠殿を従1位右大臣とし、家康公は大御所として、自由に動けるように致したので御座りまする。
江戸の背後を固めるためには、軍用道路にもなるお成り街道を江戸より九十九里浜まで整備し、安房を治める外様大名里見家を伯耆の国へ移封致しまする。
大奥の有力な側室の阿茶局、お万の方、お勝の方は、上総、下総、安房にゆかりのある方々で御座りまする故、まことに都合の良き人材配置でありまする。
江戸城に入ると、秀忠殿や重臣たちと談合を重ねて、秀頼殿の再建なされた方広寺の梵鐘の銘文
「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」を問題に致したのでありまする。
大御所様は
「国家安康=余の名を二つに切り裂くとは何事でろうぞ。君臣豊楽=豊臣家を君とするとは、内裏をないがしろに致して子孫繁栄を願うものじゃ。右僕射源朝臣=余を討ち取ると言うことであろう」
と、激怒なされ、使者を立てて抗議なさったのでありまする。
これを受けられて、淀君と秀頼様は、片桐且元様と鐘銘を作成した清韓を駿府に派遣し弁明しようと致しまするが、大御所様は面会を謝絶され、片桐様を追い返し、清韓様を拘束なされので御座りまする。
お万さまは、このいきさつを阿茶様よりお聞きなされ、お心を痛められまするが、大御所様のお考えは深き所にありまする故お取りなしは無理で御座りまする。
片桐様は、本多正純殿や金地院崇伝様より大御所様の御意向を承り、大坂城に持ち帰られたのでありまする。
慶長19年は、徳川幕府にとって、もっとも大事な年でありまする。
大御所様は、上総への鷹狩りを名目に着々と東国の武将を束ねて、大坂城の豊臣家の力を削ごうと策略を巡らしたのでありまする。
先ずは、秀忠殿を従1位右大臣とし、家康公は大御所として、自由に動けるように致したので御座りまする。
江戸の背後を固めるためには、軍用道路にもなるお成り街道を江戸より九十九里浜まで整備し、安房を治める外様大名里見家を伯耆の国へ移封致しまする。
大奥の有力な側室の阿茶局、お万の方、お勝の方は、上総、下総、安房にゆかりのある方々で御座りまする故、まことに都合の良き人材配置でありまする。
江戸城に入ると、秀忠殿や重臣たちと談合を重ねて、秀頼殿の再建なされた方広寺の梵鐘の銘文
「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」を問題に致したのでありまする。
大御所様は
「国家安康=余の名を二つに切り裂くとは何事でろうぞ。君臣豊楽=豊臣家を君とするとは、内裏をないがしろに致して子孫繁栄を願うものじゃ。右僕射源朝臣=余を討ち取ると言うことであろう」
と、激怒なされ、使者を立てて抗議なさったのでありまする。
これを受けられて、淀君と秀頼様は、片桐且元様と鐘銘を作成した清韓を駿府に派遣し弁明しようと致しまするが、大御所様は面会を謝絶され、片桐様を追い返し、清韓様を拘束なされので御座りまする。
お万さまは、このいきさつを阿茶様よりお聞きなされ、お心を痛められまするが、大御所様のお考えは深き所にありまする故お取りなしは無理で御座りまする。
片桐様は、本多正純殿や金地院崇伝様より大御所様の御意向を承り、大坂城に持ち帰られたのでありまする。
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