おぼろ男

エッセー・評論・詩歌俳句、その他。編著書100余冊、『縄文文化の魅力』(東銀座出版社 8月発売)日々充実の歩み!

鷹狩りの折りに

2012-05-27 20:14:17 | Weblog
鷹狩りの折に―東国を固める談合
 慶長19年は、徳川幕府にとって、もっとも大事な年でありまする。
大御所様は、上総への鷹狩りを名目に着々と東国の武将を束ねて、大坂城の豊臣家の力を削ごうと策略を巡らしたのでありまする。
 先ずは、秀忠殿を従1位右大臣とし、家康公は大御所として、自由に動けるように致したので御座りまする。
 江戸の背後を固めるためには、軍用道路にもなるお成り街道を江戸より九十九里浜まで整備し、安房を治める外様大名里見家を伯耆の国へ移封致しまする。
大奥の有力な側室の阿茶局、お万の方、お勝の方は、上総、下総、安房にゆかりのある方々で御座りまする故、まことに都合の良き人材配置でありまする。
江戸城に入ると、秀忠殿や重臣たちと談合を重ねて、秀頼殿の再建なされた方広寺の梵鐘の銘文
「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」を問題に致したのでありまする。
大御所様は
「国家安康=余の名を二つに切り裂くとは何事でろうぞ。君臣豊楽=豊臣家を君とするとは、内裏をないがしろに致して子孫繁栄を願うものじゃ。右僕射源朝臣=余を討ち取ると言うことであろう」
と、激怒なされ、使者を立てて抗議なさったのでありまする。
 これを受けられて、淀君と秀頼様は、片桐且元様と鐘銘を作成した清韓を駿府に派遣し弁明しようと致しまするが、大御所様は面会を謝絶され、片桐様を追い返し、清韓様を拘束なされので御座りまする。
 お万さまは、このいきさつを阿茶様よりお聞きなされ、お心を痛められまするが、大御所様のお考えは深き所にありまする故お取りなしは無理で御座りまする。
 片桐様は、本多正純殿や金地院崇伝様より大御所様の御意向を承り、大坂城に持ち帰られたのでありまする。
 
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日親ゆかりの妙宣寺を訪ねる

2012-05-26 18:41:57 | Weblog
東金御殿
 船橋より、金親の村に向かい、阿茶局の御子息、神尾守世様のお屋敷でしばしの御休息をなされた大御所様御一行は、急ごしらえのお茶屋御殿と村々の名主の家に分かれてご宿泊なされた。
 翌日は、東金御殿にお泊りなされ、夕べにはは上総、下総のお殿様や名主たちの御挨拶を受けられ、夜に入ると、土井様、本多様とは、ご食事を共になされ、阿茶局様もご同席なされ申したので御座りまする。
 大御所様は、食通ゆえ、房総の海の新鮮な魚やあわびをことの他にお喜びの御様子で御座りました。
 翌日からは、村人たちを駆り出されて勢子に鹿や猪を追わせ弓矢で仕留めるので御座りまする。また、沼沢地に鶴や鴨などを探されて、鷹を放って狩らせるのでありまする。大御所様は、鶴の肉をお好みで御座りまする故、鷹が素早く鶴を鋭い爪で捕まえると、手を打って興奮するほどで御座りまする。
 お万さまは、かねてより願っておりまする日親上人修行の妙宣寺を埴谷にお訪ね致したのでありまする。 
「成仏不じょうぶつはすべて智恵の浅深によらず 源信心の有無をたのむなり(立正治国論」のお言葉を京の本保寺参詣の折にお心に止められて、深く感銘しておられまする故、妙宣寺の御住職にもいろいろとお尋ねなされたので御座りまする。
 お万さまは、日遠御上人様のお話しの「不受布施の主張は、すべての民百姓の方々のためにお考えになるべきであって、一握りの信者のためにのみあるわけでは御座らぬ。ことに法華経を信仰する者たちで角突き合わせることは断じて認められませぬ」と言う教えに得心なされておりまする故、ご住職のお話しを確かめられたのでありまする。
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七面山より帰りました

2012-05-25 16:36:29 | Weblog

身延山別当寺七面山は、聞きしに勝る修行の山でした。3時起床、9時消灯。1汁1菜、朝夕のお勤めは、各1時間余り。気合いの入った読経です。
ご住職よりは、
「お万さまがいらっしゃらなかったら身延山と、この寺と、本遠寺の今はなかったでしょう。日蓮聖人の教えを受けて、女人禁制を破って3度も登山したのですからまさに才女です。しかも、ご自分は表に出ないで、法華経の教えを広めたのです。育児にも深いものがあります」
と、おっしゃられて、小冊子を戴きましたので、小説の内容が益々膨らむことが出来るでしょう。ご期待下さい。
それにしても書斎派の小生には、登山も下山も厳しいものでした。でも、それは貴重な体験にさせねばなりませぬ。
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鷹狩りのお供で上総東金へ

2012-05-22 18:02:48 | Weblog
鷹狩りのお供で上総東金へ
 大御所様は、鷹狩りを大層好まれて、天下が平穏ならば、駿府や江戸の近辺に泊まりがけでお出かけになられ申した。
 鷹狩りでは、ことに鶴をお喜びになられまするが、この鳥は、なかなか捕らえることがむずかしゅう御座りまする。そこで、鶴が多く飛来する所を諸侯に命じて調べるのでありまする。その報告があると、すぐに供ぞろいをして向かわれるのでありまする。
慶長18年の秋のことで御座りまする。
阿茶局の御子息神尾守世殿は下総の金親にお住いで、「近くの上総東金には、鶴が多く飛来致しまする」と知らせて参られたのでありまする。大御所様は、その知らせをお受けすると、大層お喜びになられ、すぐに佐倉の土井利勝殿に江戸よりの街道の整備をお命じになられたのでありまする。
 土井殿は、下総と上総の名主を集められて、船橋より東金までの街道普請を申しつけたので御座りまする。
 ちょうど、折よく秋のとり入れも済み、百姓たちは普請に駆り出されても大丈夫な時で御座りまする故、村々ごとに割り当てられた所を突貫工事で見事な街道に仕上げたのでありまする。この道を「一夜街道」と呼ぶ者もありまするが、それは大層早く完成させられたことによりまする。
 翌19年の春の吉日。大御所様には100人余りの御供ぞろいで江戸城を出立なされ申した。その前日には、阿茶局とお万さまに
「上総の東金と申すところに鷹狩りに参るので、両名は供をせよ」
と、お召し出されたので御座りまする。
 阿茶様は、お久しぶりに御子息の守世殿にお会い出来るので大層お喜びなされたので御座りまする。お万さまは、東金の地は日親ご上人お生まれの所に近いことをすでに知られておりまする故、お訪ね出来ることをお喜びになられたので御座りまする。
行列の先頭には、白扇を開いたお徒士(かち)が、大きな声で
「お払い、お払い〜」
と唱えて歩みまする。
 装束は、全員が股引でバントリ(羽織に袖をつけた物)、大御所様は富士色、お供の方たちは色とりどりで御座りまする。側室のお二人はお駕籠で、侍女たちは馬にあかね染めの木綿布団を敷き、市女笠の下に覆面をするのでありまする。
 街道沿いの家々は、戸を閉ざし、3日前より火を禁止させられておりまする。街道は、掃き清められ潮がまかれ、警護の者たちが並びまする。お供ぞろいが近づくと、村人たちは道端に正座し、額を地につけるので御座りまする。

 明日より3日間、休載します。お万さまが、女人禁制の七面山に3度登山していますので、実地に体験をして来ます。
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お喜びと、悲しみと

2012-05-21 17:13:44 | Weblog
お喜びと、悲しみと
「大御所様、お呼びで御座りまするや」
「そちも存知ておろうが、熊本の清正の息女八十姫をば、長福丸の嫁に娶ろうと思うのじゃ。いかがかのう」
「左様で御座りまするか。良き御縁とは思いまするが、長福丸はまだ8歳で御座りまする故、ちと早すぎるのではありませぬか」
「余も老いたるる故に子どもらの身を早よう固めたく思うておるのじゃ」
「有難き思し召し。左様なれば、結納を早うなさりて、婚儀を遅らせることも宜しゅう御座りまする」
「余もそのように思うておる。どうじゃ、為春を熊本につかわそうぞ」
「それはまた大役で御座りまするが、兄上なれば、必ずや清正公の御承諾をいただけるものと存じまする」
「そちも左様に思うか。早速、為春をここへ呼ぼうぞ」
 大御所様は、加藤清正公を大層御信頼なされておりまする故、この縁は最も良きものだとお考えなされて、お万さまにお話しなされたのでありまする。
 お万さまは、清正公が武勇と築城術にすぐれ、法華教に御熱心な武将であられることを存知ておりまする故、願ってもなき御良縁とお喜ばれになられたのでありまする。
 為春様は、大任をお受けして、すぐに熊本へと向かわれ、清正公より
「有難きお志、喜びてお承けいたしまする。大御所様と、お万の方様によろしゅうお伝え下され」
と、ご承諾なされたので御座りまする。
 翌慶長16年のことで御座りまする。
 伊豆の加殿のお母上様が、弟たちにみとられてお亡くなりになられたので御座りまする。訃報をお受けなされたお万さまは、早駕籠で御葬儀に駆けつけ、妙国寺のご上人よりは「智光院」の法号をいただき
ねんごろに供要をなされたので御座りまする。7日の間、加殿に止まり御祈祷を続けられ、駿府城へお戻りになられたので御座りまするが、悲しみはなかなか御心より離れがたき御様子でありまする。
 さらに長福丸様の義父となるべき加藤清正公も夏の終わりに御逝去なされて、お万さまは、お題目を朝に夕べに御熱心に唱えられるので御座りまする。
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鶴千代さまをお勝の方の元へ

2012-05-20 15:59:54 | Weblog
 鶴千代様をお勝の方様のもとへ
 お万さまが、お姉上のように慕い申しておりまするお勝の方様は、慶長12年にめでたく市姫様をご出産なされ、駿府城は喜びに包まれたので御座りまする。ところが、4歳の時に病でお亡くなりになられ申したので御座りまする。
 お勝の方の気の落としようは、大層痛々しゅう御座りまする故、大御所様もお万さまとお二人で、いかがとりはかるべきやとお悩み致すので御座りまする。
「そうじゃ、勝は鶴千代をよう可愛がっておる故、養子にさせようぞ。万よ、同じ駿府城に暮らしておるのじゃ、養子にやってもさびしゅうはあるまいのう」
「鶴千代のお父上は大御所様。そのお方の御命令とあらば、何なりとも随いまする故良きように御取り計らい下されませ」
 かくして、鶴千代様には、お二人のお母上がおられるので御座りまする。お勝の方さまにとりますれば、心強きご子息がおいでになりますれば、日に日に悲しみも薄れて「お鶴様、お鶴様」と、ようご面倒をみられておりまする故、お万さまも安心して保美を過ごされておりまする。

 冬のある日のことで御座りまする。
 大御所様よりお万さまと、お勝様にお召しがありました故、大広間に連れだって参上いたしますると、正面の高座に大御所様、そのお近くに背丈の高い異国のお方が用意された椅子に腰をおかけで御座りまする。
「先日、お話しになられたエスパニア人が、この人であろう」と、お万さまは、しげしげと観察いたしておりますると、大御所様が
「万と、勝よ。このお方は、そなたたちのふるさと上総の浜に漂着したるエスパニア人であるぞ。先年、マニラでわが国の者どもが、大層世話になったお方じゃ」
と、申された故、お二人は声を合わせて
「ようお出で下され申した。その折は、まことに有難きことと感謝いたしまする」
と、頭をさげてお礼を言上なされ申した。
 通訳が、そのお言葉を伝えると、にこやかなお顔になられて
「前のマニラ提督、ドン・ロドリゴと申しまする。ノビスパン(今のメキシコ方面)に帰る途中にて台風に会い、岩和田の浜に漂着いたしましたるところ、村人たちに救われたので御座る」
「それはまあ、難儀のことで御座りまするのう。以後、お困りのことなどがありますれば、お役に立ちとう御座りまする故、何なりとも思うし付け下され」
と、お万さまは、大層御同情なされ申した。
お二人は、お部屋にお戻りなされましたが、その後、大御所様は、エスパニア国王への依頼やら、漂着し
  た3百数10人の乗組員の帰国のことなどをいろいろと話し合われたので御座りまする。

参照『意訳 ドン・ロドリゴの日本見聞録』安藤操(たにぐち書店)
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あわただしき日々の中で

2012-05-19 18:26:33 | Weblog
あわただしき日々の中で
 日遠ご上人様を河津にお送りなされたお万さまは、肩の荷がおりた思いで日々を過ごされ、お子様の教育に力を入れるのでありまする。
 慶長14年の春、家康公は、お亀の方のお子五郎太(徳川義直)様を尾張の御領主に、お万さまのお子長福丸(徳川頼忠)様を駿河遠江の御領主になされ申したので御座りまする。長福丸様は、わずか7歳で御座りまする故、大御所様にお願いなされて、お万さまの身近の御領地に置かれたのでありまする。
 この年の秋のこと。
「万よ、大多喜の本多忠朝の知らせによると、そちの生まれ育った上総にエスパニアの船が漂着致したそうじゃ。ドン・ロドリゴと言う前のマニラ提督が乗り合わせておると言う」
と、大御所様がお話なされた。
「それは、いずこの港で御座りましょうや」
「岩和田と言う貧しき村と聞いておるが、委細はまだ承知してはおらぬ。乗り組の者どもを処罰したり、物品を奪ってはならぬと申し伝えたところじゃ」
 当時は、漂流者はたちどころに斬り捨てて、物品は略奪してよいことになっており、大御所様の御命令は、異例のことで御座りまする。
「大御所様には、深きお慈悲をなされ申した。万も有難く存じ上げまする」
「左様であるかのう。余にも考えがあるのじゃが、それはまだ、そちにも話すことは出来ぬのじゃ。ただ、ロドリゴと申す者は、前年に200人のわが国の者どもをマニラの牢より釈放してくれたことがあるのじゃ」
「左様なお方には、万もお目にかかりとう御座りまする」
「左様かのう、駿府にも来るように言うてあるので、その折にそちにも会わせようぞ。ただし、エスパンア人は、耶蘇教を信仰しておるにより気をつけることが肝要じゃぞ」
この年には、九州の平戸島にオランダ商館が設けられて、幕府による海外交易が本格化したのであった。
 また、薩摩の島津藩により琉球の首里王朝が攻撃され、王朝は崩壊させられたのでありまする。
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日遠ご上人を伊豆の河津へ

2012-05-18 16:42:09 | Weblog
日遠上人を伊豆の河津へ
 お万さまは、お駕籠に乗られて、安倍川の河原へとお急ぎになられ申した。駿府城よりは、家康公のお使いが早馬で無罪放免の知らせを先に届けられたのではありまするが、お万さまは、ご上人のご無事をこの目で確かめられようとしたのでありまする。
 竹矢来の周りには、ご上人の最期を見届けようとする人々が、ぐるうりと群がっておられまするが、早馬の使者が、書状を片手にして、大音声で
「お咎めは無用じゃ、お咎めは無用じゃぞう」
と、ふれ回っておられまする。
 法華経の信者たちは、それをお聞きになられて、涙を流しながらお題目を唱えられておりまする。そこへ三つ葉葵の御紋をつけられた見事なお駕籠がお着きになられて、白装束のままのお万さまが、お降りになられた。
 人々は、歓声を上げて、お駕籠を囲み、お万さまに合掌するのでありまする。すでにお万さまのお願いでご上人様が救われたことは、口伝えに分かっておられたので御座りまする。
お万さまは、竹矢来の中にお入りになられて、ご上人様の前で膝まづき、無言で合掌なされた申した。そのお顔には、とめどなく涙が伝わっておられたのをお近くの方々は拝見したので御座りまする。
 しばらくは安倍川の川音だけが聞こえておりまするが、やがてお万さまが、
「ご上人様、このお駕籠に御乗りになられて、しばらくは、伊豆の河津にて、ご静養下されませ。かの地は、正木と蔭山家ゆかりの方々が多く住まわれておりまする故何かと心強う御座りまする。さあ、どうぞお乗り下されませ」
と申されたので御座りまする。
「お万殿、数々のお心づくしの程、まことに恭けのう御座りまする。遠慮のう、ご好意を受けさせていただきまする」
 かくして、三つ葉葵の御紋の描かれ申した女駕籠が、伊豆の河津へと向かわれ申した。
お着きになられたご上人様は、古いお堂に住まわれて、「乗安寺」と名づけられて、村の人々に法華経の有難き教えをご講話なされたのでありまする

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白装束2着

2012-05-17 18:03:37 | Weblog
日遠様一大事―慶長の法難
 「養珠院様、養珠院様、いかがなされまするや」
 お万さまは、お布団の中で「日遠様、日遠さま」と、ご上人様のお名前を涙声で呼び続けておりまする故、侍女が、枕元で声をかけたので御座りまする。額に汗を浮かべてお目を覚まされたお万さまは、あたりを見回して
 「ここは、いずこじゃ。駿府城かのう」
 と、お尋ねなされたので御座りまする。
 「いえ、いえ、ここは紀州家のお屋敷にご座りまする。悪しき夢などを見られたので御座りましょうや」
 と、侍女は、額の汗を拭いながら言葉をお返ししたので御座りまする。
 「おお、左様であるか。わらわは、駿府城のころのことなどを夢幻のごとくに思い浮かべておったのであろうぞ」
  それは、江戸城に置いて、法華宗と浄土宗が宗論を戦わせ、法華宗が敗れ申した故、再び宗論を行っていただきたいと日遠上人様が家康公に願い出たことに家康公が大層お怒りなされことで御座りまする。
 「ううむ、余が宗論は禁止すると命じておるにも関わらず願い出るとは、不届き千万。日遠をひっ捕らえて、首を切るべし」
 お万さまが、いくらお取り直しをお願い申し上げても、いかがなお考えか、お怒りは収まらないので御座りまする。
  お万さまは、ここ数日間は寝食をお忘れになられて、お題目を唱えながら白装束の縫い物に精魂を尽くしておられ申したのでありまする。
  されば、とうとう安倍川河原での処刑の朝がやってまいったので御座りまする。

  白装束2着
お慕い申し上げる日遠上人さまの処刑の朝の早くにお万さまは、水垢離をとり、家康公のお部屋に参上したの
で御座りまする。
 「万よ、大層早うより何事であるぞ。何じゃ、その白装束は」
 家康公は、日遠ご上人様の助命に伺った事をお知りになられておりまするが、何食わぬお顔でとぼけられたので御座りまする。
 「大御所様のお怒りは、ごもっともと存じ上げまするが、最後のお願いに参上つかまつりまする。日遠ご上人様をお斬りになられるなれば、わらわめも共にお斬り頂く覚悟に御座りまする。すでにご上人様にも、縫い上げ申したお装束をお届けいたして御座りまする。
 後に残しまする長福丸と鶴千代の将来につきましては、大御所様に良き用にお願い申しまする。南無妙保蓮華経」
 と、申されお題目を唱えられ合掌なされたので御座りまする。
 これには、さすがの大御所様も、ほとほとに御困りの御様子で、しばらく無言で御座りましたが、
 「ううむ、万よ。そちは命をかけて日遠を守ろうと覚悟を決めたのであるか。その志を余も立派に思うぞ。余も、この度のそちの必死の願いを叶えざるを得まいのう。良きように取り計らうべし」
 と、お万さまのお願いをお聞きになられたので御座りまする。
 このお話しをお聞きになられた後陽成天皇は、ご感銘遊ばされて、「南無妙法蓮華経」のお題目を大書なされ
てお万さまにお贈りなされたので御座りまする。

「慶長の法難」と申しまするは、慶長13年、お万さま32歳の時のことで御座りまする。法華経の教えの「不受布施」へのお考えの違いがあり、上人様方同士で論争が繰り返されおりまする。
 お万さまは、かかる論争に大層お心をいため、法華経のご上人様方に書状を差し出されては、
「いずれのお方にもみ仏の教えを伝えて下され。この世にお生まれになられたお命のすべてに法華経の有難さを広めて下され」
と、お願いしては、方便の寄進を欠かさずに続けておられたのでありまする。

  太閤秀吉どのは京都東山に大仏像を建立し、文禄四(一五九五)年、大仏千僧供養会のために、各宗へ招請状をお出し申になられた。
それは、八宗より毎月、各百人の僧侶を請じて祖先の菩提を弔おうことで御座りまする。
 出仕の順序は、真言、天台、律、禅、浄土、日蓮、遊行、一向で、法華(日蓮)宗は九月の出仕のために京中のご上人様方が本国寺に集り、ご論議なされたのでありまする。
 供養会に出席すれば、宗祖の不受不施の制戒に背くことになるとして仏性日奥は欠席を主張、一如日重は、国主のための布施供養は背くことにはならぬとして出席を主張、法華(日蓮)宗の大勢は出席にご同意し、出席をお決められたので御座りまする。
 ところが、再び慶長十三(一六〇八)年、尾張熱田で常楽日経と浄土宗正覚寺・綽道とが宗論をお起こしになられたので御座りまする。
家康公は、お万さまのたってのお願いを受けられて、江戸城において対論させたのでありまするが、不受布施の日経を敗けとし、弟子と共に惨刑に処したので御座りまする。これを「慶長法難」と申しまする。
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日遠さま一大事ー慶長の法難

2012-05-16 18:22:13 | Weblog
日遠様一大事―慶長の法難
 「養珠院様、養珠院様、いかがなされまするや」
 お万さまは、お布団の中で「日遠様、日遠さま」と、ご上人様のお名前を涙声で呼び続けておりまする故、侍女が、枕元で声をかけたので御座りまする。額に汗を浮かべてお目を覚まされたお万さまは、あたりを見回して
 「ここは、いずこじゃ。駿府城かのう」
 と、お尋ねなされたので御座りまする。
 「いえ、いえ、ここは紀州家のお屋敷にご座りまする。悪しき夢などを見られたので御座りましょうや」
 と、侍女は、額のお汗を拭いながらお言葉をお返ししたので御座りまする。
 「おお、左様であるか。わらわは、駿府城のころのことなどを夢幻のごとくに思い浮かべておったのであろうぞ」
  それは、江戸城に置いて、法華宗と浄土宗が宗論を戦わせ、法華宗が敗れ申した故、再び宗論を行っていただきたいと日遠上人様が家康公に願い出たことに家康公が大層お怒りなされことで御座りまする。
 「ううむ、余が宗論は禁止すると命じておるにも関わらず願い出ると、不届き千万。に智恩をひっ捕らえて、首を切るべし」
 お万さまが、いくらお取り直しをお願い申し上げても、いかがなお考えか、お怒りは収まらにので御座りまする。
  お万さまは、ここ数日間は寝食をお忘れになられて、お題目を唱えながら白装束の縫い物に精魂を尽くしておられ申したのでありまする。
 そうして、とうとう安倍川河原での処刑の朝がやってまいったので御座りまする
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