私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

1968年11月1日(金) Qui Nhon

2006-11-27 04:53:59 | Weblog
 町外れで、車に後ろ足を轢かれたらしい子豚が、雨のぬかるみの中を前足だけで懸命に這いずり回っていた。1人のおばさんがそれを痛ましそうに見つめていた。

 朝、クイニョン (Qui Nhon) のIVS事務所 ( IVS:International Voluntary Services 私が所属していた組織) を発つ間際に、Danis ( IVS Binh Dinh省の責任者、アメリカ人) がラジオを片手に言った。
 「アメリカは北爆を止めるぞ。パリ会談には南ベトナム政府とベトコンが参加するって!」

 アン(Anh)の顔がほころび、嬉しそうに言った。“Hoa binh! Vui qua! ”(平和だ! やったぞ!) どうせこのような形になるのなら、アメリカは何のために北爆を行い、年寄りや子供たちを含めた大量虐殺を行ったのか? 死んで行った人々は正義を抱きながら死んだかもしれないが、二度と帰っては来ない。


   11月2日(土)
 
 Anhによれば、パリ会談に Nguyen Van Thieu (グエン バン チュー) サイゴン政府大統領は出席を拒絶し、北ベトナム、アメリカそれに解放戦線の3者間で行われるらしい。全く妙な話で、Anh は「Thieu は平和を望まない。俺が大統領になって行ってやる!」と、冗談に紛らわせて憤慨していた。

 Anh たち、An Khe (アンケー) のNVSのメンバー達はDa Nang (ダナン)、Hue (フエ) へ車で旅行しようと、しきりに僕を誘っている。車というのは僕が預かっているIVSのオンボロ車、(バン タイプの) International Scout だ 。僕とてベトナムの様々な面が見たいので、行きたいのは山々だが、テト(Tet)攻勢の故か、今年からIVSの規則が厳しくなったそうなのだ。最後に1行、これを守らないものはベトナムに留まるべきではない、などと書いてあり、僕としても考えざるを得ない。問題の1項は、自分の省から出る時は、各地区のチーフの許可が必要だというものなのだが、・・・。

 Anhは言う。「我々は長い間、休暇もなく働き続けてきた。仕事が一段落した今、みんなで気晴らしをしよう。君が行かないなら我々も行かない。誰が欠けても行かない。みんなで行くのが面白いんだ。車で Da Nang まで行くのは危険だと、IVSは判断するに違いなく、また別に用件もない時に、IVSが許可する訳がない、それ故、この計画は無断で決行する他はない」と。

 今晩も、マシンガンと迫撃砲の音。29日夜の解放戦線の攻撃以来、An Khe の米軍基地のオイルタンクだろうか、は今日も燃え続けている。Anhはラジオを付けっぱなしにして眠ってしまった。彼はいつだったか言っていた。自分はラジオを聞いていないと、いろいろなことを考えて眠れない、ラジオで音楽や詩を聞いていれば、頭の中はそれで一杯になって眠れる。だから眠る前にラジオを消すのは厭だ・・・。

 Anhのラジオからよく聞こえてくる Day la dai phat thanh Mat Tran Dan Toc Giai Phong Mien Nam Viet Nam ( こちらはベトナム南部解放民族戦線放送局です ) という言葉は覚えてしまった。しかしその内容は残念ながら聞き取れない。彼のラジオも日本製だ。



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