初瀬川王国

初瀬川による直樹的な生き方の表現の場

政治家の力を学ぶ 菅首相 不信任決議 否決

2011年06月03日 08時30分41秒 | 考え「生」出力!!
土壇場の攻防で、菅首相への

不信任決議は否決されました。

直前までの数々の賛成を投じる議員たちの雄弁な言葉は

なかったかのように翻され、反対の正当性の弁へとブライドを捨てて変えられました。

この事をくだらないや茶番などと言われていますが、

そこには、くだらなく茶番の中で自らの主張を通した人間がいて、

その人達は、政治の中核で政治を動かしています。

格好が良かったり、誠実であるだけでは国際外交や主権の維持、

そして国政の運営は困難であると言う事なので、この政治劇を茶番だと

呆れて目を背けるのではなく、国民を呆れさせた中で、何がなされたのかを

注意深く見て見て下さい。




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真実や真理は隠されてはいない。ただ・・・・

2010年11月03日 10時02分21秒 | 考え「生」出力!!
真実や真理と言うものを必死に探している人は多いと思います。

しかし、真実や真理などと言うものは、実は隠されていないのでは無いかと初瀬川は思います。

真実や真理は、隠れることもなく

「目の前に存在する」

しかし、あまりの大きさに全容を捉えることが出来ていなかったり、

自らの無知によって認めていなかったりしているだけ。


初瀬川は自らの無知に対抗するために、さまざまな行動を行って、真実や真理を探して生きています。

まだ何一つも手に入れていないのかもしれないし、結構手に入れたのかもしれない。

しかし、それを多いのか、少ないのかの判断を出来るほどの状態ではないと「自らの考え」で思っています。

ここでいう「自らの考え」と言うものは、先ほど書いた「自らの無知によって認めていないこと」になるのかもしれません。

しかしあえて、世にある真実の内、いくつかを初瀬川が発見しているとするなら、

冒頭に書いたように、真実や真理は隠されてはなく、目の前にふつうに存在しています。

色眼鏡を持ってしまえばしまうほど、変な知恵を付けてしまえば付けてしまうほど、なかなか見えないのかもしれません。

でも、色眼鏡と変な知恵を駆使して、一回りした時の感想が、「目の前にあった」と言う経験です。

目の前にある事を知った上で、まだ初瀬川が探す理由は、

目の前に存在する事が「答えなのか否か」を検証するためなのかもしれません。

一気に書きましたが、変なことすぎて意味の理解出来ない方も多々いらっしゃると思いますが、自分の今時点における本当の事を

勢いに任せて、生出力で書いていますので、お許しください。


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見逃せない日本外交と政治家の凄さ

2010年10月02日 21時35分11秒 | 考え「生」出力!!
ただいま、日本は尖閣に端を発して、中国と緊張関係にあります。

首相は自らの束ねる党議員の秘密訪中をマスコミから指摘されると『しりません』、尖閣衝突の鍵になる海上保安庁の撮影したビデオを見たのかと言う国会の質問に『見ていない』と発言する。

本当に日本の政治家はバカで怠慢なんだと見える動きです。

もし、これが事実だと思われている人が国民の大多数だとしたら、やはり日本の政治家は世界屈指の手腕を持っていると言えるでしょう。

以前にも書きましたが、日本が過去幾度と明確な決断のもと政治判断を行い、結果、存亡の危機に晒されたことからの教訓から、日本は曖昧な選択をすると言う決断をする高度な政治判断ができる国家です。

大国に挟まれ、主権を維持する。

白黒では乗り切れず、灰色であっても何千何百もの組み合わせ比率を持っている日本のが日本外交の肝だと思います。

また、政治家とは、権力の意味や価値を知り、権力に就くために、知識と技術を努力と才能で磨き、集団の中で常に上位、それもトップを有言不言問わず目指してしまうサガを持つ人種が多いのですが、そういう人に取って、プライド、誇り、またはメンツと言うものは本来、何よりも尊いにも関わらず、局地的かつ受動的にしか、全容を理解しない人に、自分自身がもっとも嫌う『愚かな人』を演じて、国家の為に曖昧な決断をする。

政治家はバカだけどなぜか主権は維持され、血生臭い世界で血を流さず平和があり、
何もこれと言う目玉行動をして見えなくても、日中関係は確実に日中に取って最良の落としどころに向かって行く。

プライドや誇り、そしてメンツにとらわれてない事こそ、日本外交の凄さの一つなんだと思います。

また、尖閣だけに捕らわれず、日本、米、中国、インド、ロシア、韓国朝鮮の大きな目線の枠組みで見ると カッコイい悪いに関係無く、さらに日本外交の凄さが垣間見れると思います。
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人間に知られてはいけない人間の秘密

2010年09月23日 20時18分10秒 | 考え「生」出力!!
コミュニケーションツールは増えたのに、人の本質的なコミュニケーションは減って行き、

効率を追求する社会は、人が不要であると言うゴールに向かっているように思える。

一部の人間にだけ伝えられている『人間に知られてはいけない人間の秘密』がコントロール不可能なITコミュニケーションの世界に放たれたら、IT化によって大企業か突然死しているように世界は崩壊する。

人は核兵器に続き、核核兵器よりももっと不安定な、リセットスイッチを自らの手で再び作ってしまった。

初瀬川はリセットスイッチに対抗していきます!!
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いい加減にしないと自転車に乗れなくなりそうですね

2010年09月12日 19時15分24秒 | 考え「生」出力!!
最近、自転車の事故が増えていますね。
もともと無かったわけではないのでしょうが、最近の事故は数より、内容に問題があるように思います。

一番初瀬川が問題だなと感じているのは、
自転車の高性能化から引き起こされる高速自転車の類ではなく、
携帯電話や音楽を聴きながらの走行です。

これをやっている人って、本人的には全くと言っていいほど、悪いことをしているという意識が無いと思います。

しかし、携帯を打ちながらであれば、瞬間的無視界状態であるし、
音楽を聞きながらでは、視界意外に周囲からの状況が手に入りません。

最近はこれに輪をかけて、音楽を聞きながら、携帯を見ながら自転車に乗っている人がいます。

こんな人が人にぶつかったとき、どれだけ保険が無い中、過失を認定されるのかと思うと正直恐いと思います。

視界によるアクティブな情報収集と聴覚によるパッシブな情報収集はどちらも、速度の速い遅いに関係無く重要な情報なので、乗り物に乗るときは出来るだけ、いろいろな情報を収集しながら乗ってもらいたいと思います。

とにかく、自転車は免許も不要で、とても気軽に乗れる大切な移動手段ですが、このままでは何か重大な事故などをきっかけに、免許制度や罰則規則が増えて気軽に乗れなくなりそうです。

人間の処理能力は、走行、音楽、携帯入力のマルチタスクに対応できないので、集中して乗って欲しいと思います。

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日本は幸せになったのか? 終戦の日から

2010年08月27日 08時37分24秒 | 考え「生」出力!!
「日本は幸せになったのか」

8月15日は日本の終戦記念日でした。

戦後から現在の日本を見ると不況とは言われていますが、絶対的な豊かさを持っていると思います。

かつて、物質的に豊かで無かった日本人は『幸せになるためには豊かにならねばならない。』と考え、幸せを求めて物質的豊かさのある帝国主義的繁栄を目指しましたが、結果敗戦しました。

しかし、ご存じの通り、戦いに敗れたものの、東洋の奇跡と呼ばれる経済発展をとげた日本は、求めた豊かさを、別の経路から手に入れました。

いつもこの時期になると、考えてしまいます。

「戦争までして、手に入れるべき豊さは、こんなものなのか」

現代の日本の状態は、国のため、家族のためと、命を懸けた先人の想いとは大きく違う気がします。

今の日本を見たら、戦いなど、まして命など賭けられないかもしれない。

『金を手に入れることは必ずしも幸せに近づくわけではない』と言う言葉の国家版のようです。

人が人らしく生き、正しいことを大手を振って行える世の中に変えるべく、何かをしていかなければいけないと、今年は強く思いました。

こんな自由な言論が主張でき、生活の中で大多数が生命の危険を感じず生きる事が出来る「今」を気づいてくれた先人に感謝します。
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大人とは、ただ落ち着くのではない。 ありたい自分への過程

2008年10月20日 16時16分04秒 | 考え「生」出力!!
「大人になんかなりたくない」と言う声を聞くと「なぜだ」といつも聞き返してしまう。
初瀬川は「大人になりたくない」なんて正直思わなかったし、むしろ、早く大人になりたかった。
「大人になりたくない」と言う奴の答えは決まって「丸くなりたくない」などの「大多数の世間に適合した大人へ批判」である。つまり、今が「切れていて」、そのままで生きていたいと言う気持ちの吐露なのだと思う。

確かに、子供のころ切れていたのに、大人になって、丸くなっている人はいる。
そんな人を見ると、その人はもともと丸かった人で、大人になって、親の庇護、未成年と言うバリアがなくなり、バリアの中では「切れていられた」存在が、その守りを失い、世間に合わせて丸くなっているんだと思っています。

切れてる大人はやはりいて、それは昔から切れている人もいますが、大人になって切れ始めた人もいる。
そういう人は大人になって、自由を得たとき、「切れる生き方」を体現したのだと思う。

人の性格は簡単には変わらない。しかし、環境は簡単に激変する。
その中での当り前の対応が「丸く」なのか「切れ」なのだと思います。

未熟なうちの「切れ」は誰にでもわかりやすいもので、大人になっての「切れ」はわかりずらい場合は多いし、その切れっぷりは「半端ない」。

初瀬川も様々な大人の「切れ」に直面させられる中で、何度もその「切れ」の鋭さに驚かされました。

子供の時間はたかだか20年。物心ついてからの歳で言ったら、評価にもならないほど少ない年月。
そんな短い時間を惜しんでいるようでは、大人と言うとんでもなく楽しく、とんでもなく危険な世界を、自分らしく生き抜くことは難しいと初瀬川は思います。

間違えないでもらいたいのは、「切れた」とはただ、社会不適合な生き方をすることではないと言うこと。
自分の人生を全うするにあたって、「ありたい自分」に忠実であるかと言うことです。
つまり、家族を守る人間でありたいのならば。必死に会社の中で、世間に折り合いを合わせて仕事をする事は、丸くなったのではない。
反対に、ありたい自分も定まらず、社会不適合に身を置き、「いきがる」ことは「切れて見えても、切れているとは言えない」と言うことです。
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「言うだけタダだから」と言う言葉 そこからさらに考えること

2008年09月19日 13時51分24秒 | 考え「生」出力!!
「言うだけタダだから」と言うこと聞いてどう思いますか?

初瀬川は正直、嫌です。

もちろん、使う時はありますが、その「言う」とは「一息で言えるぐらいまで」と言うニュアンスの時に使います。

つまり、主語と目的語と動詞のセットである、「私の話を聞いてください」の一息ぐらいが例になります。
 
なぜ嫌かと言えば、「タダ」ではないからです。

「言うこと」には知識や知恵を使いますし、その時間もかかります。

知識の使用、知恵の利用、時間の消費、これらすべてコストがかかるので「タダ」ではないのです。

コスト意識の違いもあるとは思いますが、どんなものにも「コスト」と言うものを意識して、常に頭におくと、行動がスマートになるんじゃないかと思っています。

コストを考えると言うと「ケチ」に思われるかもしれませんが、コストの意識を持つと、その意識から、人がしてくれたことの価値を認識できる要素にもなり、社会が円滑に流れると思います。


「言うだけはタダ」と言う言葉を使い始めた人は、きっと言うことの辛さや大変さを知った上で「でも、初期費用があえてここからはかからないから、やるだけやろう」と言う意図で使ったものであるんではないかと願います。

この言葉が蔓延すると問題があるのです。

「〜だけはタダ」これは目に見えないものを売り物にするサービス業に対してであれば何にでも言えてしまう言葉でサービス業をだめにする言葉だと思います。

「愛想良くするなんてタダだろ」
「誘導するだけだからタダだろ」
「アイディア出しぐらいタダだろ」
「アドバイスぐらいタダだろ」
「気を使うぐらいタダだろ」

日本はサービスをとにかく物資に結びつけないと金銭的評価をなかなかしません

「物を生み出さないで考えるだけならタダだろ」や、悪いと「考えるだけなら学者でもしろ」なんて言われてしまうこともあるでしょう。

しかし、コストは存在します。
本当にどこにでもコストは存在するのです。

まったくなにも生産しないが会社にいる人でさえ、
そこに、「自分の意図以外の理由で存在しなければならない場合」、そこに存在することでもその人の時間と移動範囲の制限という自由に対するコストが発生しているのです。

だからタダでいいわけではないのです。

言葉は扱いが大変だなとつくづく思います。
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「夢追い人」「夢中」「夢の後」「夢の跡」そして夢を探す人

2008年08月19日 10時57分37秒 | 考え「生」出力!!
夢について書きます。この問題は初瀬川にとってかなり大きな問題なのでさっぱりまとまりがつきません。
だからいつにもまして、ふらふらや重複があるかと思います。
もしよかったら読んでみてください。

ここ何日はスポーツ人生の夢ともいえるオリンピックで活躍する人を毎日のように見ることができます。
この舞台は「夢の舞台」とよく言われます。
しかし、問題があります。
夢として設定し、運や実力の下オリンピックに立つ。これは人生のある時点では最高に良いことなのですが、人生を最後まで見渡すとそうでもないかもしれないと思います。
今回は連覇の選手が多く、その選手のほとんどがある意味「幸せそうな顔」をしていました。
何のことが言いたいのかと言うと、夢の舞台オリンピックで金メダル。
こんなことを成し遂げてしまったら、そのあとはどうするのかということです。
実際、連覇の選手はだいたい前回のアテネから今回の北京までの間で結果が素晴らしくなかった。
終わりや引退など言われた選手が多い。

勝てない、タイムが出ない。選考会までの日々。
しかし、彼らは何とかオリンピックのチケットを最後で掴み金メダル。
すぐれた肉体が、精神の不安定度で力が出なかったとしか言えません。

人は夢を追います。そして、幸運にも夢にたどりつけそうな方向性の中にいると「夢中」になります。
夢中な時間は打算などなくすべてがそのためにあり、辛い苦難もなんとかしてしまいます。
夢が達成されればなんとなくの夢の「後」のような寂しさと、敗れた場合は「夢」は過ぎ去った傷のような「跡」を人に残します。

このように書くと「やっぱり夢は達成されたい」と思うかもしれません。
でも一概にそうではありません。
その人にとってその夢がデカければデカいほど危険だと初瀬川は思います

夢がある途中のだったり、発展性のあるものであれば最高ですが、ある意味「頂点」であると、登り切ったものは「落ちるのみ」しか道がなく精神に深い問題を与えます。

夢を過ぎるとどこに進めばいいのか分からなるからです。
夢中のときはすべての優先順位が夢から考えますが、夢の後はその他の物事と優先順位をつける段階で悩みます。

オリンピックで順調に二回金メダルを取ったとすると。
一回目の金メダルの感動と、二回目の金メダルの感動は一回目が優ります。
(今回の連覇のように凹んで逆転出場金メダルは例外です。)
何事も同じことを繰り返すと楽しさ、感動が減るという逓減の法則です。
田舎に住んでいた人が都会で暮らす。家族で住んでいた人が一人暮らしをする。海外へ留学する。などの場合、初日の朝の感動。家を出て近所を知る感動。未知なる文化との交流。そのすべてが感動と驚きと喜びが大なり小なりあったはずです。
しかし、そんな日々が一か月、半年、一年、三年と進むにつれてその感動は最初よりかなり減っているはずです。
もし減ってないという人は最初の暮らすと言うことにさらに何かを追加設定した人だと思います。

つまり、金メダルを一個も持っていない人が手に入れたがる気持ちと、二個目の金メダルを手に入れたいと思う気持ちでは「夢中」の度合いが下がること。
また「もし手に入らなかったら」せっかく一個の金メダルの取得したにもかかわらず、連覇を狙うと「一個しか取れなかった」といわれる金メダルの価値になってしまうからです。

金メダルならば容易に想像できるかもしれませんが、皆さんの人生の中にも同じようなことを別の次元で起こしている人多くいます。
夢の話は、まだまだあって、とてもまとめきれないので今回はこの辺で終わりにします。
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時間は稼げない

2008年08月12日 18時52分07秒 | 考え「生」出力!!
金は無駄にしてもいい。時間だけ無駄にしなければ。
いつもこんな感じのことを考えています。

奇麗事でも何でもありません。本当にそう思います。
もちろん、このことに気がつくまでは反対の意識でした。

理屈は簡単です。これに少しでも納得したら、このように思ってみてください。

お金は稼げる。時間は稼げない。ただそれだけです。

時間の無駄は人生を振り返るときにかなり落ち込むと先人が言っています。

お金を使って時間を有効に使う生き方に「何かがあるのではないかと」最近思っています。
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前進か後退か

2008年07月23日 16時32分15秒 | 考え「生」出力!!
「前進か後退か」と言われると「やる気がある人間」、もしくは「やる気あるように見せたい人」は前進を選ぶのではないでしょうか。
初瀬川はかつて「前進」を100パーセント選択していました。

なんとなく前進を選ばないといけない感じがしていました。
だから、「勇気ある撤退や後退」は言葉としては納得していましたがいまいち、負け惜しみだなと思っていました。

しかし、様々なところで「考える事」、「戦略と戦術」(ストラテジー&タクティクス)をする中で、意識の中に変化が訪れました。
これは一例ですが
物体が進むこと=前進であること
前を見ながら後ろに進むと言う行動は「戦術では負けかもしれないが戦略なら勝ち」と言うものがあり得ると言うこと。
などなど

事態を平面でなく立体的に捉えると「進行方向は必ずしも一方行ではない」と言う考えに至ります。つまり、上に進むこと下に進むこと、斜めに進むこと。これらが要素として入ると言うことです。

だから現在は「前進か後退か」と聞かれると、「その場で待機はありかな?」とか、どんな状況なのかとかさらに詳しく考えるようになりました。

だから「勇気ある撤退」は勇気の部分が無くても「撤退」を即「いけない」とは思わなくなりましたし、「後退=ダメ」と考えてしまうと戦略家としては選択肢があまりにも狭く、人に迷惑をかける結果になると今は思っています。

でも、心情的には修行が足りず、まだまだ前進が好きな初瀬川です。

皆さんはどうですか?
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人の成長には

2008年06月28日 11時18分10秒 | 考え「生」出力!!
 人の成長には何が必要なんだろう。
特に最初の成長において。

何か新しいことを始めたとき必ず成長を必要とする。
そのためには知識を入れなければならないし、経験も必要である。
成長するために効率よく知識と経験を入れればいいと思う。

知識と経験は未踏領域でない限り、そこの先人に学ぶのが早い。
ここで早いと言うのは「学び方」を知っている人がと言う意味で。
学び方を知らないと、遅い、もしくは後退につながるかもしれません。

初瀬川はいつも誰も進んだことが無い未踏領域でない時は、その道の先人に学ぶことがあります。
柔道なら日本代表選手、ムエタイならタイの世界チャンプ、経済のことならば経済学者の博士や実務家、戦闘なら軍人、営業ならばその業界の様々なエースと呼ばれる方、法律、経営、資産家、空手、剣道、車、バイクなどなど書ききれないですが、その道を目指したとき必ずその道のかなり上の先人にその道の教えを頂きました。

その学びは手取り足取りではなく、その人の生き方、その人の課題の対処の仕方、その人の些細なことの考え方をそばで見させていただくこと。
教えてくれることなどは「たまに」であるぐらいです。

しかし、その「たまに」で、先人に問答する瞬間が「人生の岐路」になると思って緊張します。

偉大な先人であるほどその機会は数回しかない。
この道で、成功するかどうかの一つに「先人との問答」の時間があると思っています。

この少ない時間に「その道の先人に何も感じさせなかったり、呆れられてしまったら」その道での成功は無い。あったとしてもすごく長い時間をかけなければならないと思います。

感じさせるとは「いろいろ話したり、質問しまくることではなく、少ない時間で思いの片鱗、もしくはセンスのかけらを見せること」
それは聞き方なのかもしれないし、話し方なのかもしれないし、もっと単純に挨拶だったりするかもしれない。

その全てに集中して貴重な時間の中に入るだけの価値が先人との問答には含まれていると思います。
第一人者的な人でなくとも、先輩でもそれは似ていると思います。

高校までは「聞くこと、勉強すること、教えられることは正しいことであり、誰もが教えてくれるものだと思ったし、教えるべきだと思っていました。」
しかし、高校で出会った師がこんなことを言ってくれました。

こんなことを言っていいのかわからないが、世の中義務教育を終えたら、教育は基本されないのがこの日本だ。学びたいのならばお金を出すなり、労働を提供するなりして、教えてもらわなければならない。教えてもらうことは「タダ」ではない。知識、知恵と言うものは価値があるものだから、知りたかったら「対価」を払わなければならないんだ。
それをそんなの関係なしに教えてくれる人には「感謝」と「尊敬」して接しなければならない。と。

初瀬川はその時は、「なにわけわからないこと言ってるんだ!聞いたら教えるのが教師だろ!金を払わなければならないくらいなら、勉強などしたくないからやらんわ!」と心で思いましたが、数年後に理解できるようになり、現在はこの言葉を高校生の初瀬川に言ってくれたこの先生に感謝と尊敬を持っています。

人の成長には師がいた方がいいと思います。
そして、優秀な人間は師に助力を得ながら、師の届かなかった領域に師の助力という下駄を履かせてもらい進んでいくのだと思います。
だから、師匠を超えたといわれても、師匠には下駄を履かせてもらった恩義から見下すことなく尊敬があるのだと思います。

未熟な思慮で大事な師に呆れられてしまうことがないように
良い師に出会い、よい関係を築いて成長をこれからもしていきたいなと初瀬川は思っています。




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人は貝のように心を閉ざす 心を閉ざすことはいけない事なのか?

2008年06月23日 16時58分36秒 | 考え「生」出力!!
心を貝のように閉じる。
これって良いことでしょうか?良くないことでしょうか?

なんとなく「良くないこと」な気がしませんか?

でも、ホントに良くないことなんでしょうか?

「彼は心を閉ざしている。どうにかしないとならない。」と言う他人を気にした相談を受けることがあります。
そこには、その人に対し、心を開かせようと努力している、または努力すべきだと言う意見の人がいます。
初瀬川も「かつては」その一人でした。
「かつて」と言うことは現在、全てに努力すべきだとは思っていません。
つまり、心を閉ざす者を必ずしも開かせる必要はないと思えるようになったからです。

生まれながらに心を閉ざしていることがない限り、「後天的に」心を閉ざすには訳があります。
本人が意識しているものもあれば、ないものもあると思いますがそこには、訳、理由があると思います。
開いたことによる失敗、開いていた中での裏切りなど、その辛さが本人にとって大きなものであればあるほど閉じているように思います。

こういう人は「自らを守るための精神防御手段」として閉ざします。
心を開いたことが生まれてこのかた「無い」と言う人に「開いてみなよ!」と言うのは一般論的にもいいような感じがしますが、開いていて閉じた人にはどうかと思います。
「開けても問題ない環境」を提供する気や気概がないならば「気軽に言うものでは無い」のではないかと思ってしまったのです。

「心を開けよ!!」と言って開かせて、その人の何も隠さない「素」の物言いに「もう少し考えて言った方がいい」なんて言ったら、何のために開かせたのかわかりません。
こんなのは間抜けな例ですが、今の激動激しい世の中で心を開いて「防御なしに心をさらす」のはお勧めできるのでしょうか?
正直、初瀬川も本当に面倒見る気でないと、重度に心を閉ざす者には言えないかもしれません。

ある尊敬するビジネスマンは初瀬川に言いました。だから、そうやって人は心を貝のように閉ざしていく」と言う言葉がいつも気になります。
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聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥。 だけど聞き方が悪いと一生の恥

2008年06月20日 22時15分54秒 | 考え「生」出力!!
聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥。 だけど聞き方が悪いと一生の恥になることがあると思っている。
知識や知恵がない時は聞く。しかし、それが本やWEBなどで当然に調べられるようなことを「聞いた方が楽だから」と聞いていたのでは相手に失礼な奴と思われるのではないか?
もちろん、目上の者が目下の者にするのならば、よくあるのかもしれないが、それでもその逆はあってはならないと思う。
せめて、「見てみたんですがわからなかったので」ぐらいはないと優しい目上の人も呆れてしまい、その評価は一生続くかもしれない。少なくともすぐにはとれないと思う。
まして、考えがまとまらないから、まとめながら聞くのは最悪である。
聞くと言うことは、聞く以外に方法がない、もしくは現在調べていたのでは時間的に許されないときなどに取る「情報収集手段」なのではないだろうか?
もちろん教えるのが仕事の人には一回や二回は良いかもしれないが三度となると・・・であると思う。

こういう風に書くとなかなか人に聞けなくなりそうだが、聞き方がうまくなると実は普通では得られない情報を教えてもらったりするものです。
いろいろ読んで、いろいろ考えたんですが「こう言うことですか?」的に聞けるようになると人によっては「よくそこに至ったね、それは・・・・」てな具合にそこの説明とさらにその先の問題点などを教えてくれたり、そういう知識を持った人が「こいつは問題意識がしっかりしてる」などの評価を受けてとんでもない高みに連れて行ってくれたり、引っ張ってくれたりすることがあります。その反対もありなんですけどね。



知識や知恵がないなら聞くのも一つの方法。しかし、聞き方にマナーがない人間は一生恥を負う危険があるな〜と思いながら日々疑問を持って生活しています。

付け加え
聞いた方がいいなと思うことは、プロフィールや住んでるところや趣味や休日の過ごし方とかの「生活に関する」こと。
これは、相手に聞くようにしないとわかりづらいし、こっそり調べると気持ち悪いので聞いた方が調べるより絶対いいと思います!!




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第一回目、生思考。 デザインとセンスについて考える

2008年06月19日 20時39分43秒 | 考え「生」出力!!
今回は生思考第一回目です。
お題はデザインとセンスについて考えるです。
そのまま生の思考なので読みずらい点はご容赦ください。

初瀬川は「デザインする」とか「芸術する」と言うことを専門家の前で行うことになると、何となく身が引けます。
なぜならば自分はセンスがあるのかわからないからである。
確かに、自分が好きなものは表現できるような気はする。しかし、それが「センスがいいものなのか」と言うとハテナにならざる得ない。
格闘技、法律、経済、コンサルティング、交渉と言う分野では「センスがいいのか悪いのか」を判断できるし、その理由も理論的に説明できる。
なぜなら、プロセスをどこまで正確に行っているかと言うことや、その中で意識的にセオリーを外したなどの、作為が見て取れるからである。
デザイン、芸術ではそういうことが全く関係なく、感性に委ねられたものだから、感性、センスがあると言われた人しか、判断できないのだと思っていました。

しかし、その考えは変わってきました。
「感性が勝負というと言うのはかなり限定的な場面においてではないか」と言う疑問が起きました。

その考えの発端は「センスや感性は教えられるものではない」と言う考えが初瀬川にある中で、そうだとしたら「芸術系教育機関では何を教えているんだ?」と言うことでした。

教育するには、まずその内容がなければならない。それも高等教育機関で行うのならば、体系立っていないとならないのではないのではないのか。

そう考えるようになって、いろいろな資料や実際の芸術系教育機関の人間にアクセスした結果ある程度の所に辿り着きました。

デザイン、芸術はかなりロジカルであり、そのロジカルを踏まえた上での繊細な表現がその作品の優劣を決している。
またはロジカルを踏まえた人間があえて外すと言う行為を理解し評価している。

つまり、作品表現がシンプルなものの場合は、素人でもデザインできそうであるが、そのシンプルに至るまでにバックボーンにどれだけのロジカルが複雑に展開しているかを理解できれば良く言う「大ハズレ」にはならないものを出せるのではないかと思うにいたりました。

このように考えるとデザインの世界も格闘技の世界もコンサルティングの世界も流れる考えは同じなんだと思えるようになり、これを身につける事で「センス」と言う言葉におびえなくても良いように思えるようになりました。
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