21世紀新訳・仏教経典(抄)

西川隆範編訳・桝田英伸監修

きまぐれな「誓願」の解説  ~監修者の独り言

2011-09-14 19:43:17 | お知らせ
今回の記事の誓願は、どれもちょっと特徴的で面白いものばかりですね。

まず38願は、“極楽での衣服”についての願。
「いつでも新品みたいで、染め直したり、つくろったり、洗濯しないでもすみますように」って、
逆にミョーに極楽での生活が現実くさーい面倒さがあるような、ないような、不思議な気分になります。
もしかしたら、SFに出てくるようなピッチピチのボディ・スーツみたいな服だったりして。
あれなら、ほら、皆それぞれ自分の色が決まっていて、ほつれたりしなさそうだし、未来的だから洗濯なんかも無用な感じ・・・
やっぱり、違うかな?
“法にかなった”とあるから、「お袈裟(インド風の、サリーみたいなやつ)」なのでしょうかね。


次の39願は、いわゆる“漏尽比丘”のごとき快楽(「けらく」と読みます。この世の「かいらく」とは違うのです!)を受ける、という願。
この“漏尽比丘”という言葉がわかり難いのですが、まず“漏(ろ)”とは煩悩のこと。
その“漏”が尽きているのですから、「煩悩がない」ということ。
つまりは、「煩悩のないお坊さんのような気持ちいい楽しみ」ってことになりますが、それにしても、???となりますよね。
そこで、サンスクリット語からの訳を見てみると、ちゃんと
「第三禅を得て煩悩のなくなった修行僧のような安楽さ」と書いてありました!
(岩波文庫の『浄土三部経(上)』に、サンスクリット語からの現代訳と漢訳からの読み下しが載っています。)

では、第三禅とはどのような境地かといいますと・・・
「心の内側から清らかな大河が流れ出すような、喜びをも越えた至福の境地」
だそうです。
お釈迦様の成道について、当ブログで紹介した際にも書きましたね。よければそちらもご参照ください。

極楽に行ったら、蓮の花の上に生まれるというのは、このような境地にずーっととどまり続ける、ということなのかもしれませんね。
なんともすがすがしい感じです。


40願には極楽の「宝の樹」が出て来ます。
その樹にはいろいろな宝がついていて、鏡に映したようにあらゆる世界のことが見て取れるって。
これって、まるで今このブログを見ている人みたい、じゃあありませんか?
つまり、「インターネット」。
極楽のネットカフェ??

いや、裏を返せば、私たちはもしかすると極楽張りの快適な生活を過ごしているのかもしれませんよ!?

こんな便利な日々に、感謝、ですね。


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