現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

藤田のぼる「「赤毛のポチ」のリアリズム」日本児童文学1974年10月号所収

2017-08-16 18:34:47 | 参考文献
 「現代児童文学」(定義などは他の記事を参照してください)のリアリズム作品の出発点(そして代表する作品)である山中恒の「赤毛のポチ」について論じています。
 著者も、管忠道や神宮輝夫の文章を引用して、この作品を「現代児童文学、とりわけ現代児童文学のリアリズムという意味で、出発点に位置する作品であることはほぼ了解されている」としています。
 その理由として、「散文による長編という方法を獲得したこと」、「現実の矛盾をリアルに告発すると共に、その中における変革への志向性を描き出す」を挙げています。
 これらと、この論文で著者も後述している主人公の子どもたちを生き生きと描写したことも含めて、「赤毛のポチ」は、山中も属していた「少年文学宣言」派(他の記事を参照してください)が掲げていたとされる「現代児童文学」の三要件である「散文性の獲得」、「変革の意思」、「子どもへの関心」のすべてを十全に満たしていたと言えます(詳しくは、児童文学研究者の宮川健郎の論文に関する記事を参照してください)。
 しかし、著者は、「この「赤毛のポチ」のリアリズムがその後の児童文学の流れの中ではきわめて不十分にしか継承され」なかったとしています。
 さらに、山中自身が「「赤毛のポチ」の世界の廃棄を公然と宣言したこと」を「無残」という言葉を使って強く非難しています。
 一般に、「現代児童文学」は、1959年に佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」の、二つの長編ファンタジーでスタートしたとされています。
 しかし、私は、それに先行して行われていた「新しい児童文学」の論争がスタートした1953年に出発したとする立場をとっています(その記事を参照してください)。
 その論拠のひとつが、そうした論争の中心の一つであった早大少年文学会OBによる同人誌「小さい仲間」に、その主張に基づいた創作「赤毛のポチ」が翌1954年に連載され始めた(完結と日本児童文学者協会新人賞受賞は1956年、出版は1960年)ことです。
 著者は、「赤毛のポチ」のリアリズムの特徴として、長屋に住む主人公たち「労働者」の子どもと大人たち、炭鉱会社(兵器産業にも進出しようとしている)の重役の家族たち「資本家」の子どもと大人たち、そして、担任の若い女性の教師と仲間たち「小市民」の大人たち、といった三つのグループを、図式的にではなくそれぞれリアリティを持って描き出した点にあるとして高く評価しています。
 また、一般に「赤いポチ」を批判されるときに言われる、「組合結成を問題解決のオールマイティな手段として安易に使っている」点についても、前述した主人公たちが懸命に生きている姿を描いたように、主人公の父親や組合を結成した大人たちをもっとリアリティティを持って描けば克服できると擁護しています。
 そして、今後の方向性としては、第三のグループ(「小市民層」)の描き方にあるとしています。
 著者は、このグループに、山中自身と読者たち(当時小学校教師だった著者も同様でしょう)も含まれるとしています。
 そして、第一グループ(労働者階層)の人たちの連帯だけを描くだけでなく、第三グループを核にして、第一グループや第二グループ(資本家階層)の人たちも含めた全体の連帯を目指すべきだとしています。
 このあたりの考えは、当時の(60年安保も70年安保も階級闘争に敗れた)革新系の市民運動のロジックに近いものです。
 そして、著者の主張に近い作品(後藤竜二の「歌はみんなでうたう歌」(その記事を参照してください)など)も生み出されていました。
 しかし、こうした路線は大衆が学生運動や市民運動から離れていく傾向とともに行き詰まり、「現代児童文学」のリアリズム作品はより個人的な「小さな物語」を描いた作品(森忠明や皿海達哉など(関連する記事を参照してください)に主流は移っていきます。
 私自身も、この論文が書かれた前年に大学の児童文学研究会に入ってすぐに、先輩たちから薦められて読んだたくさんの「現代児童文学」の本の中で、最も衝撃を受けた作品が前述した佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」とこの「赤毛のポチ」でした。
 特に、「赤毛のポチ」には、今まで読んできた児童文学作品(今も変わりませんが、賢治とケストナーが最も好きです)にはなかった貧困の中の労働者階級の子どもや大人たちがリアルに描かれていて、今までにないリアリズム作品として興味を引かれました。
 しかし、その後に集中的に読んだ「赤毛のポチ」に続くリアリズム作品(山中恒、古田足日、後藤竜二など、主に早大少年文学会出身の作家たちによるもの)には、残念ながら「赤毛のポチ」を超える作品を見つけることができませんでした。
 そういった意味では、当時の私の「現代児童文学」のリアリズム作品に対する評価は、この論文に書かれている著者のものと非常に近いものでした。
 しかし、それからの方向性については、著者の主張とは真逆な考えを持っていました。
 私が大学に入った1973年(この論文が書かれた前年)には、70年安保の敗北後の革新勢力の低迷時期になっていて、特に学生運動では内ゲバがすでに激化(私が高校生の時に早稲田大学で有名な「川口くんリンチ殺人事件」が起きて、私たちの高校の全校集会でも犯行者たちの属する革マル派(当時、早稲田大学の自治会を実効支配していた過激派グループ)に対して糾弾声明が決議されていました)していて、一般学生の学生運動離れが決定的になっていました。
 また、前述したような「小市民層」(彼らの定義によれば私自身もその中に含まれていたでしょう)を核にして全体の連帯を求めるような「市民運動」のロジックに魅かれ、この作品や他のリアリズム作品に描かれたような教師像(この流れは、その後灰谷健次郎の作品などに引き継がれ、児童文学の世界では長年生き続けました)にあこがれて教師を目指す学生たち(そう言えば、私の入った「児童文学研究会」の隣の部室のサークルはその名もズバリ「教師を目指す会」でした)もたくさんいましたが、私自身は強い反発を感じていました。
 そのころは、明瞭には言語化されていなかったのですが、今振り返ってみると、ここで主張されているような「小市民層」のような第三のグループなどは存在せず、世の中には「資本家階層」と「労働者階層」しかないし、両者が連帯することなどはありえず前者は後者を搾取し続けるだろうと思っていたようです。
 そして、この論文で書かれているような「小市民層」(自分自身も含めて)は、たんに労働の形態を変えただけの「労働者階層」にすぎず、同様に「資本家階層」に搾取される存在だと考えていたようです(ここでは資本主義体制について書いていますが、共産主義体制においても支配者層が大衆層を搾取している構造は同じです)。
 この論文が書かれた1974年に、私は「児童文学研究会」の後輩たちと、日本女子大で行われた山中恒の講演会を聴きに行きました。
 詳しい内容は覚えていないのですが、最後に彼が言った次の言葉だけは、今でも明瞭に覚えています。
「児童文学者協会賞はいらないから、課題図書になりたい」
 山中は、1969年に日本児童文学者協会を退会し、同年の児童文学者協会賞に「天文子守歌」が選ばれていたのですが、辞退しています。
 この言葉を、前述した「小市民層」と「労働者階層」の文脈に当てはめてみると、社会を「連帯」させるのに貢献するような褒められる作品(児童文学者協会賞受賞作品のような)ではなく、お金を稼げる本(毎日新聞社の読書感想文コンクールの課題図書は、選定されれば現在でも一千万円を超える印税を期待できると言われていますが、当時は「家が建つ」と言われ程の莫大な印税が得られました)を書きたいということです。
 山中自身も、自分をこの論文で規定しているような「小市民層」ではなく、「労働者階層」であると認識していたようで、「児童文学者」ではなく「児童読み物作家」を自称して、ますますエンターテインメント系の作品を書くようになります(その一方で、彼自身もその一員だった「少国民」の研究活動も精力的にすすめていきます)。
 この論文の最後に、かつての盟友だった古田足日の「ぼくは、山中恒がふたたび「赤毛のポチ」の世界に立ちもどることを望みたい。」という言葉を引用しています(好意的に読めば、早大少年文学会では断トツの文才の持ち主を仲間から失うことを惜しんだのでしょう)が、両者の「児童文学作家」に対する認識(「小市民層」か「労働者階層」か)は大きく異なっており、一度袂を分かった両者が再び一緒になることはありえなかったことなのです。
 そして、その理由は、著者が述べているような当時の批評活動(古田もその一員です)が、「赤毛のポチ」の成果と課題について実りあるものでなかったこととは無関係でしょう。

赤毛のポチ (理論社名作の愛蔵版)
クリエーター情報なし
理論社
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