日本の児童文学におけるエンターテインメントシリーズの最初の成功作である「ズッコケ」シリーズが終刊するに伴って、雑誌「日本児童文学」で特集された際のエッセイの一つです。
まず、「ズッコケ」がスタートした1978年からの約25年の間に、子どもたちを取り巻く環境が大きく変化したことを三つのキーワードをあげて述べています。
一番目は、シリーズの主人公である「三人組」です。
かつては、子どもたちの世界で存在していた個性の異なるメンバーで構成されていた小グループが消滅して、人間関係がより単純化される「ペア」か、人間関係があいまいな「みんな」になってしまっていると指摘しています。
その原因として、お題目のように「個性を伸ばす」といいながら、実は子どもたちを没個性化させている学校教育をあげて、、那須正幹が作品内でデフォルトしたキャラクターだとはいえ、今の時代(2005年)では、ハチベエもモーちゃんもハカセも、学校では問題児として取り扱われるだろうとしています。
この文章が書かれてから十年以上がたち、この傾向がますます顕著になっているのは言うまでもありません。
二番目は、「身体知」です。
何事にも、三人が体当たりで経験していくのがこのシリーズの魅力なのですが、勉強も遊びも大人がおぜん立てをした範囲でしか体験できない子どもたちからは、「身体知」を得る機会は奪われて、受け身の「学問知」や情報ラッシュに押しやられ見る影もないと嘆いています。
この文章が書かれたときにはまだ普及していなかったスマホが、すでに小学校高学年の子どもたちに普及していて、子どもたちが「身体知」を得るチャンスはますます失われています。
なにしろ、かつてのスーパーコンピュータよりもはるかに優れた性能を持った機器を、子どもたちは常に携帯しているのですから。
今では、「学問知」や情報ですら他人に問う必要はなく、SiriやGoogleに尋ねているのです。
さらにAI機器の小型化高性能化が進めば、「問う」という行為さえいらなくなるかもしれません。
過去の傾向から導き出されたその人にとっての最適な行動が、自動的に機械から指示される時代が来るのです。
三番目は、「商店街」です。
かつての地域社会を構成していた商店街における人間関係は完全に失われ、コンビニと無個性な大型ショッピングモールに二極化された消費社会において、子どもたちは親や教師以外の大人たちとは全く切り離された形で成長せざるを得なくなっています。
最後に、作者はズッコケシリーズの登場人物が、巻を追うごとにどんどん饒舌になっていっていることを指摘しています。
かつては、子どもたちに共有されていたコモンセンスが失われ、それぞれが切り離された形で存在しているために、より事細かに情報を伝達しなければ、人間関係が成立しなくなっているのです。
この傾向は、児童文学に限らず一般文学でも、特にエンターテインメント系の作品では、顕著になっています。
他の記事にも書きましたが、文学作品から描写がどんどん失われて、モノローグやダイアローグの形で、作者が伝えたいことがより説明的に表現されるようになっています。
これは、読者の受容力や文学に何を求めるかが変わってきているのも、その原因の一つだと思われます。
まず、「ズッコケ」がスタートした1978年からの約25年の間に、子どもたちを取り巻く環境が大きく変化したことを三つのキーワードをあげて述べています。
一番目は、シリーズの主人公である「三人組」です。
かつては、子どもたちの世界で存在していた個性の異なるメンバーで構成されていた小グループが消滅して、人間関係がより単純化される「ペア」か、人間関係があいまいな「みんな」になってしまっていると指摘しています。
その原因として、お題目のように「個性を伸ばす」といいながら、実は子どもたちを没個性化させている学校教育をあげて、、那須正幹が作品内でデフォルトしたキャラクターだとはいえ、今の時代(2005年)では、ハチベエもモーちゃんもハカセも、学校では問題児として取り扱われるだろうとしています。
この文章が書かれてから十年以上がたち、この傾向がますます顕著になっているのは言うまでもありません。
二番目は、「身体知」です。
何事にも、三人が体当たりで経験していくのがこのシリーズの魅力なのですが、勉強も遊びも大人がおぜん立てをした範囲でしか体験できない子どもたちからは、「身体知」を得る機会は奪われて、受け身の「学問知」や情報ラッシュに押しやられ見る影もないと嘆いています。
この文章が書かれたときにはまだ普及していなかったスマホが、すでに小学校高学年の子どもたちに普及していて、子どもたちが「身体知」を得るチャンスはますます失われています。
なにしろ、かつてのスーパーコンピュータよりもはるかに優れた性能を持った機器を、子どもたちは常に携帯しているのですから。
今では、「学問知」や情報ですら他人に問う必要はなく、SiriやGoogleに尋ねているのです。
さらにAI機器の小型化高性能化が進めば、「問う」という行為さえいらなくなるかもしれません。
過去の傾向から導き出されたその人にとっての最適な行動が、自動的に機械から指示される時代が来るのです。
三番目は、「商店街」です。
かつての地域社会を構成していた商店街における人間関係は完全に失われ、コンビニと無個性な大型ショッピングモールに二極化された消費社会において、子どもたちは親や教師以外の大人たちとは全く切り離された形で成長せざるを得なくなっています。
最後に、作者はズッコケシリーズの登場人物が、巻を追うごとにどんどん饒舌になっていっていることを指摘しています。
かつては、子どもたちに共有されていたコモンセンスが失われ、それぞれが切り離された形で存在しているために、より事細かに情報を伝達しなければ、人間関係が成立しなくなっているのです。
この傾向は、児童文学に限らず一般文学でも、特にエンターテインメント系の作品では、顕著になっています。
他の記事にも書きましたが、文学作品から描写がどんどん失われて、モノローグやダイアローグの形で、作者が伝えたいことがより説明的に表現されるようになっています。
これは、読者の受容力や文学に何を求めるかが変わってきているのも、その原因の一つだと思われます。
日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌] | |
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