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南京大虐殺=国家犯罪!!

2016-12-19 04:34:55 | Weblog
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●731部隊(1)
●731部隊(2)
●731部隊(3)
●731部隊(4)
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展
●マレーシアの旅
●九大生体解剖事件



●ご案内
秘密国家日本!!
日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年)
アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。
このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。


過去の侵略戦争を全く反省しない自民党政権!!


こんなことまで起こっている!!
外務省は、安倍内閣の顔色を窺ったのか、政府からの指示があったのか、中国人細菌戦被害者遺族のビザを発給しなかった!!
これからも、アジアの戦争被害者や遺族の入国を拒否するかもしれない!!

当時の集会の模様
中国人細菌戦被害者なぜいない?


ビザ発給拒否・集会妨害裁判について 




・12月21日(水)午前11時東京地裁522号法廷で、第1回の情報公開裁判『化学学校記事』の公開を求めて裁判が開始されます。
傍聴よろしくお願いします。





・中国外務省の陸慷報道局長は7日の記者会見で、南京大虐殺記念館のほか、満州事変の発端となった柳条湖事件を記念した博物館や731部隊跡地を挙げ、「日本が深刻に反省し本当に謝罪したいなら、中国には多くの弔うべき場所がある」と述べた。 
中国にも「弔う場所ある」=安倍首相の真珠湾訪問

「米国が真珠湾を忘れられないように中国も南京大虐殺を忘れることができない」

安倍総理の真珠湾訪問に対し 中国外務省が牽制

「今の日本にもう黙っていられない!」マレーシア 


アジアフォーラム 



糸数慶子参議院議員挨拶(沖縄の風)




常徳細菌戦 


パネル展『戦争の加害』プレイベント(横浜)
戦争の加害と教科書記述の変遷 





●南京大虐殺
・南京大虐殺から79年、今日13日は、79年前の日中戦争で南京が陥落した日だ。そして、虐殺が始まる。(もちろん、南京に至る過程でも、残虐行為を繰り返していた!)

日本政府は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!!

当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」


マギーフィルム(日本語訳付き) 


フィッチ
フィッチ(George Ashmore Fitch)が中国の蘇州で1883年に生まれたのは、長老教会の宣教師ジョージ・フィジーとメアリー・マックレランとの子としてであった。1906年にウースター・カレッジで文学士号を得、続いてニューヨークのユニオン神学校に進んだ。1909年に按手礼を受けて中国へ戻り、上海青年会で働いた。
南京虐殺の時期には、フィッチは南京青年会の責任者だった。南京安全区国際委員会の働きに積極的に参与し、安全区の総幹事となった。南京大虐殺に関する彼の日記が、1937年12月13日に南京が陥落した後初めてこの地を離れる許可を得た外国人によって上海へ持ち出された。フィッチが書いているように、「私の物語が上海でセンセーションを引き起こしたのは、首都失陥後のそこの情況についての最初のニュースだったからで、コピーされ印刷されて広範囲に伝わった」。
1938年にフィッチはアメリカ各地を旅行し、南京大虐殺を紹介し記録フィルムを放映した。中国に戻ってYMCAや国際連盟の救援本部で奉仕し、続いて朝鮮と台湾のYMCAで働き、1961年に隠退した。
本書には彼の日記と友人宛の書簡2通が収録してある。

日記(1937年12月10日~1938年1月下旬)
12月22日、水曜日

ベイツと林査理とが、昼ご飯を食べ終わらないうちに、養蚕実験場から日本兵を追っ払わねばならず、そのうちの何人かは酔っ払っていた。事務所に着いたらちょうど、シュペルリングとクロエゲルとからSOSがきて、ラーベと僕とで応じたのだが、2人が酔っ払った日本兵に、銃剣ですごく脅かされているという。ちょうどよく、日本大使館の田中さんと将軍の1人とが、同時に駆けつけてきて、将軍がこっぴどく2つびんたを張ったが、その日本兵がそれよりも重い処分を受けるようになるとは、私には思えない。これまで僕らは、軍紀違反事件で何らかの重い罰を受けたとは、聞いたことがないのだ。兵士が将校や憲兵に捕まっても、受けるのはまたやったりはしないようにといった、緩やかな勧告でしかないのだ


「今の日本にもう黙っていられない!」マレーシア



しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分 




昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
南京を「荒しまわれ」という命令はどこにもなかった。大本営が南京包囲作戦の最終日標として敵をすべて殲滅せよと命じたわけでもなかった。しかしながら、捕虜をつくるなという命令はたしかにあった。ひとたび、南京が陥落すると日本兵は、捕虜や武器を捨てて降伏した敵兵の集団処刑を始めた。日本兵はまた、放火、略奪、殺人、強姦といった前例のない、そして作戦計画にない暴虐行為に走った。結果として生じた大虐殺は、南京および隣接する6ヵ村で3ヵ月続き、それは上海の戦闘や中国軍の南京への退路に沿って起きた蛮行をはるかに超えるものだった。中島中将指揮下の第16師団は、南京陥落の初日だけで、約3万名の捕虜や逃亡兵を殺した。他の日本人の試算では総計2万4000名と少なめに見積もられている。



軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)

お粗末な日本政府の情報公開 



※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)



世界初の「南京大虐殺辞典」出版される


・日航機墜落事故に自衛隊は関与していなかったのか??
日航機墜落事故(空白の16時間) 



森永卓郎さん解説


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