特集 軍拡に走る安倍政権と学術① 15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために 一 戦争における医学者・医師たちの犯罪 西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表 2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか ■医学界全体が戦争に加担した ―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか 文部省科学研究費(1918年創設)の重要項日として採用された医学分野の題目や新たに大学に附置された医学研究所にも軍事化の傾向がみられました。学術研究会議(1920年設立)には科学研究動員委員会が設置され、多くの戦時研究班を擁していました。1942年には、日本の東南アジアへの侵入と符号して「日本人の南方に於ける生活に関する科学的研究」が総合課題とされ、関連分野の5カ年共同研究計画となっています。昭和恐慌を契機に1932年に設立された「日本学術振興会」も、1937年頃から軍部や商工省の意向に沿つて、次第に国策的研究をすすめる機関(医学・衛生学は第8部門)となりました。 以上(月刊『前衛』より) ●731部隊本部(平房) 周囲8キロ四方のこの広大な設備で、医学者たちは人体実験と細菌戦研究をし、細菌兵器を作り、中国各地で細菌戦を実践した!!大元帥昭和天皇の責任は?? 731勿忘 731遺跡は日本軍国主義が細菌戦を行ったことの証しであり、 また、日本軍国主義がその犯罪行為の証拠を隠滅しようとしたことの証しでもある。 ー金成民(侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長) 侵華日軍第731部隊本部遺跡CG復元映像 ●福沢諭吉 福澤諭吉は民主主義者ではなく軍国主義者だった 雁屋哲〈週刊朝日〉 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。人間の自由平等を説いた福澤諭吉。明治の偉人だが、その実体は超国家主義者だとしたら……。『マンガまさかの福澤諭吉』(遊幻舎)の作者・雁屋哲氏が、検証した福澤のウラの顔を本誌に語った。 ──あの名言も実は福澤の言葉ではなかった。 代表作「学問のすすめ」の冒頭には「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と言えり」とあります。「言えり」は伝聞体で、本人の言葉ではない。一説によるとアメリカの独立宣言の一部を意訳したとも言われている。つまり、もともと福澤の思想から出た言葉ではないのです。このことは福澤が創立者となった慶応義塾大学のウェブサイトにも明記されています。 ※週刊朝日 2017年1月27日号 ●『1★9★3★7★』(イクミナ、辺見庸著)より
以下の文を読んでいて、籠池理事長と安倍首相の関係を想起してしまった。 23、抜き打ちに切り捨てる ・・・・近年になって私はこんなものを読んだ。 ▲支那の老婆が部隊長のところに来て云う〈自分の娘が日本のあなたの部下に姦された〉 部隊長〈何か証拠でもあるのか)老婆 布を差し出す。 〈全員集合〉部隊長は一同を集めて布を出し〈この布に見覚えあるか〉〈ありません〉〈次〉〈ありません〉一人ずつ聞いて回る。最後の1人まで聞き終わると静に老婆に歩み寄り〈この部隊には御覧の通りいない〉老婆 うなずく。 抜き打ちに老婆を切り捨てる。おもむろに刀を拭い鞘に納める。全員に分れ。 (これは小津が戦場で書いていた「撮影についての≪ノオト≫」であり、田中真澄著『小津安二郎と戦争』(みすず書房のⅡ「小津安二郎陣中日誌」に収載されている。) 泡を食った。とても泡を食った。・・・・・ 辺見庸1937 山下清1937年の作品 ●南京大虐殺80周年!! 日本政府の今までの全く誠意のない対応!! ハルキ世界の満漢全席『騎士団長殺し』を全世界が待ちわびた 2015年 南京大虐殺世界記憶遺産に登録される!! 安倍晋三は、南京に行くべきだ!! かつて、石原慎太郎、稲田朋美は南京大虐殺を否定した!!今も否定している!! 戦争の反省の無い頭!! 稲田防衛大臣を即刻罷免すべきである 24、虐殺数 ・虐殺数6 数千~2万 偕行社編『南京戦史』では「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した。編集委員は畝本正己、原剛(防衛研究所調査員)、板倉由明など。 【『南京大虐殺否定論 13のウソ』より】以下引用 『偕行』編集部は、事実を明かにするという立場で、否定だけでなく肯定の証言をあえて掲載するという立場を取った。そして連載の最後に、編集部の責任(加登川幸太郎執筆)で、「その総括的観察」という文章を載せた。そこでは、遺憾ながら日本軍はシロではなくクロであった、不法殺害の犠牲者は3000から1万3000という説があるけれど、たとえ3000でも途方もない数である、として「旧日本軍につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と謝罪した。『偕行』編集部がこのような態度をとったことで、全面否定論は完全に崩壊したのである。 ・虐殺数7 「虐殺」否定説 虐殺否定派は、日本軍は戦時国際法に違反した殺害をしておらず、安全区の外国人の記録も公正さに疑問あり、などととして、30万人の市民の虐殺はなかったと主張している。主な主張者は、新しい歴史教科書をつくる会・日本「南京」学会・南京事件の真実を検証する会のほか、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道(亜細亜大学教授)、冨澤繁信(日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、中川八洋(筑波大学名誉教授)、杉山徹宗(明海大学名誉教授)、早坂隆(ノンフィクション作家)など。 「御言葉」 ※また海軍は、南京陥落時、軍艦で揚子江を巡視しながら、揚子江上の敗残兵を掃射した。 南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分 南京大虐殺の真相 マギーフィルム(字幕付き) フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」 南京大虐殺 南京事件を調査せよ!! 南京事件 兵士たちの遺言 教科書検定で南京事件の犠牲者数「未確定」、中国が反発 ※また海軍は、南京陥落時、軍艦で揚子江を巡視しながら、揚子江上の敗残兵を掃射した。 ●慰安婦と南京レイプ(松岡環) 5月30日(火)『日本軍「慰安婦」制度と「日韓合意」問題』『南京レイプ加害兵士と被害者の映像』の集会は、平日でしたが、6:30の開会前から沢山の参加者が集まり、開会前には実行委員のほとんどが立って椅子を提供することになりました。 集会の為の集会をするのではなく、口だけで「被害者の為に」ではなく、自分の足で資料を集め証言を皆さんに伝える運動は、この日始まったばかりでした。 皆さんこの次にも積極的に参加してください。 次は9月23日(土)ドーンセンターで『80年目の南京』立ち上げ集会・記念講演は「教科書から消される南京大虐殺」「教育勅語や道徳問題」【講師:大阪教科書シンポの相可文代さん】を予定しています。 その前の準備の為の会議があります。一緒に歴史認識活動のうねりを作り上げていきませんか?団体でも個人でも一緒に歴史認識活動をして行きましょう。今問題にある根底は全て歴史認識問題とつながっています。 ―8月18日(金)午後6:00から「80年目の南京」立ち上げ会のご相談、 内容:9月23日を盛り上げ成功させるために、11月26日の『80年目の南京』の計画 場所:大阪駅前第二ビル5階生涯学習、第6研修室(北新地駅の真上、大阪駅から南へ5分) 5月30日の「慰安婦」と「南京レイプ」集会の報告 & 次回8月18日の準備会のお知らせ。 ●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦、核開発) 天皇の権限は絶大であった!! 日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、731部隊での人体実験、また中国各地で行った細菌戦を闇に葬っている!!それだけではない、毒ガスのデータ、原爆開発のデータもアメリカに引き渡し、戦後はアメリカと共同で、極秘裏にCBR兵器の開発を進めている。国民にはその事実を隠蔽し続けている!!核兵器開発の為、原発を手放せないのではないか!!原発と自衛隊との関係はどうなっているのだろうか?〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器)、R(放射能兵器)〕 ・『昭和天皇』(上)(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫)より 序章 私が本書で描いた天皇は、誤りやすく、運命や衝動に、本能や失敗に左右されやすい人物であり、その点でほかのすべての人間と変わるところはない。ただ、これほど長期に経験からの 学習を強いられたのは、おそらく世界で彼以外にはなかったといえるだろう。その人生のほとんどで、権力の中枢か、あるいはそのごく近くにいて、自分自身と支エリート層との利害を積極的に代表した。政府の公式・非公式の決定や工作に関するその知識は、ほかの誰よりも豊富だった。〔敗戦前後に〕皇室の存続を国家の存続と同一視したのは、自分本位の判断の結果であり、間違いであった。昭和天皇は、まさにその存在自体に、近代日本のもっとも深刻な政治的困難さを体現した1個人だったといえよう。彼は黒幕の策謀家でも独裁者でもなく、あえていえば、20世紀の日本における主要な政治的。軍事的事象への指導的関与者であり、それらを理解するための鍵であり続けた。そして、戦後日本の憲法における民主主義の諸理念を骨抜きにし、支配制度と社会秩序を永続させる努力で、ほかの誰よりも緊張し、苦悩し、自分自身をむりに納得させてきた、と私は考えている。 戦争の記憶は消えない!! 英仏では昭和天皇がトップだった。 ※大元帥昭和天皇は、好戦的であり、戦争の作戦に深くかかわった!!決して平和を願い、側近や輔弼の言いなりの天皇ではなかった!!その責任は重い!! 日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!! 「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア 井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている) ※井本熊男 ・1935年(昭和10年)12月:大本営参謀本部作戦課に配属され、以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当となる ・1939年(昭和14年):支那派遣軍総参謀(作戦主任参謀) 寧波(ニンポー)細菌戦 (毒ガス戦) 原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】 <終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造 (毒ガス戦) さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 日本鬼子のおきみやげ 初めて知った戦争(毒ガス) (細菌戦) 昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 初めて知った戦争731 澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!! 『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』 松野誠也(明治大学大学院)【当時】より ・・・・・・(略) 澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。 これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。 石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。 これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。 次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。 石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。 何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。 仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。 石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略) 東京初空襲・浙かん作戦 一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。 ※蛍石・・・・用途・加工法・・・古くから製鉄などにおいて融剤として用いられてきた。現在では望遠鏡や写真レンズ(特に望遠レンズ)などで、高性能化のための特殊材料としてキーパーツとなっている。フッ素の貯蔵に用いられることもある。 蛍石を採掘するのも、山東省、河南省、安徽省、江蘇省、浙江省などから強制連行された中国人だった。(約1700人) 1944年疫病がはやり、病気になったものは、隔離され食べ物も与えられず、餓死した。 蛍石の彫り物 赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】 ・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!! ・日本は富国強兵を目指した!! 1921年昭和天皇フランス視察 1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察 ??A氏(731部隊幹部)の言うには、今事実関係を明らかにすると、それは戦争中の犯罪行為を暴露するだけにとどまらす、戦後の重大な犯罪事実までズルズル数珠つなぎに明らかになってしまうから、だから話が出来ない、ということなのです。?? ・731と天皇の戦争犯罪 同じように、おそらく日本政府が恐れているのは、戦争中の日本軍の戦争犯罪が暴かれて賠償の問題になることだけではなく、暴露によって戦後の重大事実が明かになることなのではないかという疑いが大きくあります。 それと同時にもう1つ大きな問題は、天皇の戦争犯罪の問題です。私も鑑定書で書きましたが、中国・浙江省寧波で細菌作戦の時、昭和15年の11月に発令された「大陸指」というのがあります。杉山参謀総長名で出ているものです。その781号によると、大陸指690号によって目下実施中の特殊ガスの試験を大陸命第439号に基づく大陸指第781号を以って終わりにすると、11月末日で終了せよという命令が出ています。特殊ガス試験というのは細菌兵器の実施使用のことです。これは明かに細菌戦の命令指示です。 「大陸命」というのは大本営陸軍部命令の略ですが、天皇が発する命令です。 当時は普通御前会議で昭和天皇と陸軍部の参謀総長、海軍の軍令部長とそれと大体原則的には侍従武官長が列席して、お上に作戦を上奏します。それでOKということになると「大陸命」を作成するわけです。陸軍部がやるわけですが、その「大陸命」を作るとそれに基づき「大陸指」を作成してこれでよろしいかと、お上にお見せするのが慣例でした。いつも必ず見せていた。それでこの通りにというと「大陸指」という参謀総長の発する命令、指令が出るわけです。作戦によっては担当の大本営の担当者、参謀が直接天皇の前へ行って作戦を事細かに上奏、説明します。・・・・・・(中略)・・・・・ 瀬島龍三という元大本営の参謀も、「陸軍は大陸命、海軍は大海命といいますが、それがないと軍の用兵は何1つ出来ない、参謀総長や軍令部総長といえども、そういう厳密な手続きを経なければ勝手に軍を動かすことは一切出来なかった」と言っています。ですから「大陸命」に基づいてというところが一番肝心なのですが、その内容はすべて昭和天皇の耳に入っていたということです。ここに731を何としてでも隠蔽しなければならなかった理由があります。・・・・(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より) ・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか? 医の倫理は、向上すると思う!! 中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!! 聞け、この沈黙の慟哭を 平房の涙、地底の叫びを 見よ、この虐げられた大地を 名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている 記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける 【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より 日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア 混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮) 7月27日から8月1日までの調査報告 和田千代子 27日(金)〈長春〉 午後、東北師範大歴史文化学院会議室にて吉林大学医学部病理研究室・李偉教授から「ペスト」の病理について講義があった。 ペスト疫病の説明、世界における流行の歴史、感染経路などを話された。自然発生のペスト菌と731部隊のペスト菌との区別は可能かどうかの質問には、菌株に違いが有るので可能であるということだった。しかし中国ではこの検査はされていない。 私達のために特別に講演を依頼したと聞いたが、金子論文との関連性を聞くことはできなかった。今後「旧日本軍による細菌戦・ペスト流行」に対し関心を持ち研究してくれる事を期待したい。 ※日本人も731部隊で細菌などを扱っていたので、細菌に感染することがあった。時には日本人も、生体解剖された!! プライム10「731細菌戦部隊」 1938年国家総動員法が制定され医学界も戦争に全面協力した。 1942年の東大安田講堂前での医学者たちの記念写真、隊長を務めた石井四朗、北野政次、そして右腕の増田知貞の姿が見える。 731部隊の影響が医学界全体に及んでいた。医学者は陸軍軍医学校の嘱託として協力した!! 戦後も731で研究された論文が、日本の大学で審査され、博士号が授与されている!! 小泉親彦(ちかひこ) ※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物 1945年9月、自決。 |