細菌戦の系譜!!

2017-09-24 13:26:39 | Weblog
731部隊について


NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」

※1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!

「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」起こし
ナレーション
これは731部隊の隊員が持っていた中国人の写真です。【3人が杭(丸太)に立ったまま縛り付けられている写真】
こうした人々が部隊に送られ、実験材料にされたといいます。

当時の日本軍は、日本に反発する中国やソ連の人たちを匪賊(ひぞく)と呼び、スパイや思想犯として捕えていました。【捕虜の写真】

ロシアで発見された資料です。【『関東軍実兵隊司令部警務部長通達』の写真】
逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は、裁判を経ずに731部隊に送られたと記されています。その中には女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されました。

テープの音声 検察側(ロシア語)
囚人の中に女性がいましたか

テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
おりました おそらくロシア人だと思います【被告人の写真、同上】
(以下、検察側と川島証人のやり取り)

検察 それらの女性の1人は乳飲み子を持っていましたか
川島 持っておりました
検察 人を細菌に感染させた後は、部隊で治療していましたか
川島 治療します
検察 その人間が回復した後はどうしましたか
川島 相当長い期間置きました後に また他の実験に供されるのが常であります
検察 そうしてその人間が死に至るまで実行したわけですか
川島 そういうことになります
検察 そうすると あなたが部隊に勤務中 この部隊の監獄より生きて出たものは一人もいないわけですか
川島 そのとおりであります

※莫組では、川島清を第一部(細菌研究)部長としているが、第4部 細菌製造部部長(軍医少将)の時もあった。


※731部隊は多くの人体実験の材料を確保するために、微罪で捕えても、裁判にかけず、731部隊に送れる「特移扱」(とくいあつかい)にして、マルタ(実験材料)にしていた。囚人と言っているが、多くは抗日活動に関わったものが多い。

※勿論831部隊の支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!
軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。日本人も実験材料にされた。
※この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。そして、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。
天皇の弟・秩父宮、三笠宮も視察に来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??
unit731

※731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!(大正製薬・・・・)
※ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。

黒い太陽731


国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。
「みんなが知るべき情報/今日の物語」より



日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」

教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)


100部隊(関東軍軍馬防疫廠)
関連部隊 100部隊  関東軍軍馬防疫廠
(秘匿名満州第100部隊、後に徳25207部隊と改称)
動物を対象にしていたので直接関係はないかもしれませんが、一応731部隊の関連として説明します。
動物、主として軍馬の病気を扱う部隊がありました。
通称100部隊と呼ばれるこの部隊は、1933年(昭和8年)に新京(現・長春)の寛城子に臨時病馬廠として設立されました。
その時点では関東軍の獣医部長だった高橋中佐が責任者で、高橋部隊と称していました。
1936年(1938年?)に天皇の軍令によって孟家屯に移転して正式に関東軍軍馬防疫廠となりました。
*在満兵備充実に対する意見 1936年4月23日、関東軍参謀長板垣征四郎から陸軍次官梅津美次郎への要望書   (陸満密大日記より)
第24、関東軍軍獣防疫廠の新設増強
関東軍にて臨時編成しある病馬廠を改編して傷病馬の収療、防疫、細菌戦対策の研究機関たらしむる如く関東軍軍獣防疫廠を新設す
駐屯地は寛城付近とす

その時点での規模は敷地面積1000m×500mで、隊員、研究者はすでに800人、中国人労働者は300人を越えていたと言われます。
日本国内における本部は陸軍獣医学校です。



毒ガス/化学兵器


・731問題
・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
国家の面子の為に、残虐な行為は隠蔽する??

黒い太陽№15



※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。

朝枝繁春の証言



日本は、あの侵略戦争の事を全く反省していない!!
ある政党は、あの侵略戦争を「自存自衛のための戦争」などと言っている!!
裕仁は、東条や陸軍に、戦争責任を押し付け、
今の政府・医学界は、中国、アジア諸国で、戦争被害の後遺症に悩む人々を完全に無視している!!
人体実験、遺棄毒ガス弾、炭疽菌、ペスト菌等による被害者、慰安婦、空襲・虐殺・原爆等で被害にあった人々のPTSDなど。



日本国民だって例外ではない!!
・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と新宿の軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故
また当時の新聞記事や調査において、
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
などが分かっている。
当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。
一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??

(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)





・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤を作っていた!!
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大

イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 ・ 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。


住民が立ち上がる

昭和42年12月6日、イタイイタイ病の患者代表、小松みよさんら3人が園田厚生大臣、椎名通産大臣に病気の実情を訴えに行くことになった。患者たちは身体の痛みがひどく、東京まで行けるかどうか自信がなかった。しかしこのようなむごたらしい病気を、二度と繰り返さないために、死を覚悟して東京に向かった。患者たちは矢追参議院議員の紹介で園田厚生大臣の前に進み出たが、ただ涙がこみ上げるばかりで一言も言葉を発することができなかった。しかし田舎の素朴な患者たちの言いたいことはブラウン管を通して国民の誰もが理解できた。そして背が異様に縮んだ患者の痛がる表情がイタイイタイ病の恐ろしさを伝えていた。


御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。

※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。

護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶


三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞

・パネル展(731細菌戦)



中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。








「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




2016年10月24日(月)衢州


2016年10月25日(火)麗水(1)


2016年10月25日(火)麗水(2)


2016年10月26日(水)四路口


2016年10月27日(木)武義・金華石門


2016年10月28日(金)金華市街


2016年10月29日(土)義烏市崇山村



話は今につながっている!!

11月20日の石井が、アメリカ人、通訳を入れて6名ですね。日本人側は、石井ともう一人Mと称している、書かれている人等が、招聘してですね、そこで会っているという、これが、非常に今まで分からなかったこと、新事実ですね。

石井隊長の戦後2


石井四郎の戦後




日本の医療の原点 731部隊の関係者のその後の職業・役職 及び厚労省との関係 フクシマと731部隊 

筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8




厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。

薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体






内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

・内藤良一は戦後、他の731部隊員と共に、日本ブラッドバンクを立ち上げ、1964年に社名をミドリ十字改称した。

「ミドリ十字」という会社


ミドリ十字の変遷
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



・731部隊と原爆・原子力の関係
国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!

ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)


ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、
被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。





・731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731部隊員の何人かは国立予防衛生研究所(予研→国立感染症研究所)に入り、研究を続けた。!!
エボラやAIDSは生物兵器として開発されました。

人工的に作られた生物兵器【エイズウィルス】|怖いBLOG - アメブロ

一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか??
国立感染症研究所

国立感染症研究所(元国立予防衛生研究所)

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!



加計学園 獣医学部校舎に安全基準に満たないBSL3の研究施設の建設計画があった

長崎大学のBSL4施設設置計画は白紙撤回を!

感染研村山庁舎BSL4施設関連事象の時系列

帝銀事件の犯人は平沢貞通ではなくて、731部隊員ではないのか??
731細菌部隊と帝銀事件との真相1

防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか???






ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永

※当時の日本・アメリカ政府は、原爆の悲惨な惨状を国民に隠した!!




エピローグ

日本の原爆影響研究、放射線影響研究は、1950年代の半ばまで先進的な役割を果たしたが、やがて米国優位の研究体制と原子力産業への迎合によって歪められ、被爆者と国民への「受忍」の押しつけに加担してしまった。この負の歴史は、原子力関係労働者の被曝死の「隠蔽」や、今日の福島原発事故の被災者への「受忍」強制へと繋がっている。こうした事実と向き合った真摯な反省を抜きにして、「ヒロシマ・ナガサキの経験をフクシマへ」のスローガンを掲げても空しいだけだ。


宮川正・・・大正2年2月8日生、昭和12年東大医卒、昭和19年3月4日入隊、歩兵30連隊から731部隊レントゲン班(宮川班)に配属される。終戦時 軍医中尉。731部隊には、レントゲン班が「宮川班」「在田班」の2つあった。元隊員の話では、(どちらの班か不明だけれども)「レントゲン班で、マルタの肝臓にレントゲンを照射して、どこまでやると死に至るかという実験を自分たちでやったことがある」という証言がある。、

東大医学部放射線科・宮川正教授は退官記念講義で731部隊員だったことを曝露・追及された

世界は恐怖する死の灰の正体(亀井文夫監督)


水俣病原因究明を妨害し被害を拡大させた日本医師会会長・田宮猛雄は、731部隊や戦後の人体実験にも関与した 
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている。

731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを
田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。
田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。


・原爆問題
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)

「1894年から1945年までの51年間日本は常に戦争をしてきた。大きいのだけでも日清、日露、満州事変、日中、アジア太平洋の5つその全てに廣島から軍隊が出ているわけです。言い換えれば廣島はアジア侵略の起点だったのに、加害の都市だったことを認める人は多くない。」(1929年山口県生まれ、国鉄職員 入市被曝した李実根の証言)


昭和天皇の終戦工作?(詳しくは『日本のいちばん醜い日』)
畑俊六第2総軍司令官、高野源進広島県知事は原爆投下時に無事。
第2総軍は、全滅。
天皇は、事前に原爆投下を知っていた。
終戦時の国内情勢を憂慮して、第2総軍を壊滅させた??


731部隊員や昭和天皇の戦争犯罪に対する免責を得るために、日本の科学者や医学者は原爆の威力の調査に尽力し、被爆者の治療は一切しなかった。この報告書は、英語で書かれ、アメリカに提出された。これによって、日本はアメリカに追従するようになり、属国になってしまった。日本政府は、これ以後、731の非人道的行為を隠し、またアメリカの原爆などの非人道的行為を訴えることは無かった!!あの侵略戦争のことを全く反省しないでいる!!


封印された原爆報告書



日本政府は、侵略戦争の歴史を改ざんするな!!
戦争遂行の最高責任者・大元帥昭和天皇の戦争責任を回避する発言!!
裕仁は、戦争責任を、東条や陸軍に押し付けた!!

「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」と。
天皇は顔をこわらせて「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と答え、また広島への原爆投下について聞かれ、「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と述べた。その統治下の出来事に対してまったく責任のない傍観者のような天皇の言い逃れは、多くの日本人にとってあまりにも非情であった。彼の「やむをえない」発言は、広島の悲劇を導いた過程における天皇の役割をまったく否認するものであり、とりわけ歴史学者を憤慨させた。(ハーバード・ビックス著『昭和天皇』より)

1975年昭和天皇記者会見


山下俊一、高村昇らが活躍(暗躍)する長崎大医学部は元731部隊関係者の巣窟であった。
重松逸造は御用医学者を語る上で極めて重要な人物、キー・パーソンである。


驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く



御活躍中の御用医学者と731部隊の関係を調べてみた。意外と簡単に結びつくので驚いた。
(以下敬称略)

==== 重松逸造 ====
重松逸造は御用医学者を語る上で極めて重要な人物、キー・パーソンである。彼は終戦当時、ラバウルで海軍軍医をしており、731部隊で研究していたわけではないようだ。
しかし彼の恩師や同僚は731関係者が非常に多い。とくに長崎大教授たちとは深い交流があった。
福見秀雄とは共著で論文を書いているし、林一郎とも知己であった。
斎藤幸一郎とは金沢大で働いている。
その金沢大(旧金沢医大)も、戸田正三、石川太刀雄丸、二木秀雄などが在籍し、長崎大と並ぶ731出身者の巣窟であった。
重松は彼らから731部隊の悪魔的な思想・精神をしっかりと受け継いだと考えてよい。
米国が組織した原爆傷害調査委員会(ABCC、Atomic Bomb Casualty Commission)の
日本側初代代表は都築正男だったが、GHQの原爆に関する研究発表禁止に反発し追放処分となり、その後継者となったのが重松である。(まともな人間がハネられるのは原子力ムラの常である)
ABCCはデータを取るだけで全く治療をしてくれない、と原爆被爆者の激しい非難を浴びた。
そのABCCは1975年に放射線影響研究所(放影研)に改組され、重松は第3代理事長となり、1981年から16年にも渡り、原爆被害の隠蔽・過小評価に尽力した。
そのあとを継いだのが弟子の長瀧重信で、第4代理事長に就任した。
重松、長瀧とも1960年前後にハーバード大学に留学している。
当時は、特別なコネでもなければ海外渡航はできなかった時代である。
奨学金をもらい留学"させてもらった"のかもしれない。要するに米国(IAEA)のヒモつきだ。
恩義があるから米国の言うなりであり、原爆の被害を過小評価するのは当然のことであろう。
(アメとムチは米国のお家芸であり、安倍首相の祖父・岸信介はA級戦犯だったが、無罪放免と引き換えに米国の走狗となった)
重松は水俣病、イタイイタイ病、スモン病など多くの公害、薬害事件において、事実を隠蔽・改ざんし、常に政府・企業側に有利な報告をでっち上げている。
また長瀧らとチェルノブイリ原発事故の調査をし、住民に健康被害はないとのトンデモ報告書をまとめ、全世界から非難を浴びた。(このときの後援者がIAEAと結託した笹川財団である)
重松はIAEA、ICRP、WHOの委員も務めている。
彼は筋金入りの御用である。困ったことに弟子も多い。
2年前に彼が亡くなったときには、あちこちで歓声が上がったという。むべなるかなである。



被曝をめぐる御用学者の系譜

日本政府は、核戦争を想定して、福島原発事故の被ばく者を、研究対象にしているのだろうか??(広島・長崎と同じように)

放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



被爆国の日本政府は、海洋汚染に対して、俊こつ丸で以前行ったような調査を、太平洋全域で、定期的にやるべきではないのか??
海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集





山下正寿さん(高知県太平洋核実験被災支援センター)インタビュー


アメリカ・日本・・・国家は平気で嘘をつく!!それも公然と!!
アメリカはまたもやロンゲラップ島で人体実験をやり、アメリカ政府、日本政府は漁船の被爆状況を隠蔽する!!
ザ・スクープスペシャル ビキニ事件63年目の真実 2017 08 06


被曝は第五福竜丸だけではない!!また厚生労働省の隠蔽!!
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!


為政者は、大事件から国民の目をそらせるために、国威発揚を狙って、オリンピックを画策する!!
1931年 満州事変から9年後の1940年(皇紀2600年??)の幻の東京オリンピック!!
1954年のアメリカのビキニ環礁における水爆実験の10年後1964年の東京オリンピック!!
2011年の東日本大震災による福島第一原発事故から9年後の2020年開催予定の東京オリンピック!!
※なぜか、ビキニ環礁で日本の多くの漁船の乗組員、水揚げされた大量の魚が放射能に汚染されて、大きな損害を被り、原水爆反対の声が高まったのに、政府は、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニと3度も国民は被曝をしているにもかかわらず、アメリカに抗議することもなく、原発推進を、アメリカの後押しで進めてしまう??そして、フクシマの事故が起き、アンダーコントロールなど出来ないのに、オリンピックを開催予定とは??国民はこれを素直には受け入れられない!!


原子力に悩む大国 アメリカ
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