「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

2.51 イスラムは民主主義と両立可能か?(p524~)

2012-12-22 22:56:38 | 西洋史
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フョードマン同志


 出典

 我は不信心者の心臓に恐怖を埋め込む。さあ奴らを斬首し、指一本ごと断光せよ――コーラン
 偉大なる預言者様はおっしゃった。「俺は敵の心臓に恐怖を埋め込み、勝利した」――ブハーリーのハディース
 他者に恐怖を埋め込む者、その内心は恒常なる恐怖に震えたり――古代ローマの詩人クラウディアヌス

 僕は真名より腐偽せしイスラムを莫大な時間を費やして論駁することに時として辟易感を覚えている。できることならイスラムを完全スルーしたいのだが、西洋文明の瑕疵を眺めていると、そこから良き部分を学習したいという気持ちも湧いてくる。1960年代からの西洋版文化大革命により、教育機関に嫌西洋流が蔓延した結果、イスラムの紅世なる脅威を真名より認識しづらくなってしまった。ここではイスラムが民主主義と両立可能なのか、真の民主主義が機能する条件は何なのかを考察していきたい。
 民主体制の長所と短所とは何か?「自由」と「責由」(リバティ)の違いは何か?民主主義とは非暴力で以て民心が政治体制に真の影響を与えられる状態と定義されているが、これは少し抽象的だ。民主主義の真名を具体化するために、古代ギリシアの例を考えたい。
 アテネでは10分の1の市民に投票権が与えられていた。ソクラテスは安易な修辞で政治を握る僭称者たちを非難した結果、裁判にかけられ賜死された。これをみた弟子のプラトンはアテネ式政治体制に不義を感じ、『国家』において民主体制の短所を剔出し、「哲人政治」を構想した。「洞窟の比喩」がその代表的理論だ。洞窟で鎖に繋がれた大衆は焚火の前を人が通ると、影の方を真名だと思い込む。哲人たちはそんな蒙昧なる大衆を啓蒙して影の裏にある真名を見せつけるべきとされた。
 アリストテレスも『政治学』において民主体制を批判し、様々な比喩を行った。

 一人が王となる政府は君主制であり、少数の精鋭が王となる政府は貴族制であり、多くの市民が王となる政府はポリス制だ。世上では、君主制を暴君制に、貴族制を寡頭制に、ポリス制を民主主義と連結させるが、どれも制度の真名から乖離している。実のところ、「暴君制」とは、君主たる主上の意志が政治社会に反映される仕組みであり、「寡頭制」とは有産階級連合が支配する体制であり、「民主主義」とは無産なる土民が支配者になる体制なのだ。
 
 他の体制と同様、民主体制にも権力濫用と暴君化への素地がある。プラトンはこの民主体制内部の覆倫装置に抑制をかける可能性を十分考察していない。米国建国の父たちも、直接民主主義が孕む「暴衆」的な無秩序性を懐疑し、憲法による間接議会制の共和国を志向した。法の支配により、暴君化しうる多数派勢力から弱勢を護ろうとしたのだ。ジョン・アダムズはこれを「人民でなく、法律の政府」と呼んだ。
 米国憲法はモンテスキューの思考を取り入れ、三権分立を確立させた。欧州では行政が立法に従属する分、その程度は弱いが、こうした分立による権力制限の御蔭で、個人の権利は大いに伸張した。しかし、人間の創造物に完全物は存在しない以上、民主体制にも欠陥はある。以下ではアレクサンダー・ブートの名著『西洋は如何に敗北したか』に沿って議論をすすめる。ブートによれば、

ギリシアでもローマでも民主主義という言葉に一人一票という意味などなく、プラトンにとってもそれは「暴衆支配」という意味でしかなかった。建国の父もリンカーンもそうだった。現今、英仏の民は自らの声を聞き入れぬ中央政府に力を奪われつつある。中央政府は所得の半分を無駄に納めさせ、子息への教育体制を破壊し、近くの病院を閉め、軍隊を弱め、殺人者を跋扈させる。普通選挙制は責由を解体している。
 PC主義に基づき、仇恨言論への禁圧法ができれば、事態は更に悪化するだろう。市民の行動でなく発言で以て人を罰する法律が西洋で準備されている。

リー・ハリスの『ハラキリする理性』から、ヨハン・ヘルダーの問いを引こう。

カントのような批判的思想家を生み出すのに必要とは何なのだろう?カントは『純粋理性批判』で神の存在を完全論破したわけだが、カリーニングラードの敬虔者は彼を路上で四肢切断することはしなかった。
 
 大衆が理解できなかったからだよとの皮肉が出てきそうだが、それはともかく18世紀の西欧にはカントのような存在を許す余地があった。イスラム世界で同様のことをすれば、カントは抹殺されていたことだろう。イスラム世界でなく西洋で科学・産業革命が起きたのはこれが理由だ。
 では今日の西洋で自由思想人はどう扱われるだろうか?母国ノルウェーでは性衡オンブズマンは平等反差別オンブズマンとなり、他文化への「差別発言」の追討に熱を上げている。彼らは事物の真名を放棄して世俗多文化主義の異端審問を行っているのだ。ガリレオの異端審問官のように命をとりにくる訳ではないが、「文化は平等」という天動説を信じる審問官は、罪人の職歴を奪光する。
 責由はこの200年間で衰退してしまったのだろうか?カントの土地は自由民主主義ではなかったが、宗教を解体する自由があった。一方、議会制民主主義の筈の今日の西洋では、他文化を批判すると懲罰が待っている。責由は普通選挙制の派生物ではない。PC主義の失敗で起きた空白を埋める新たな啓蒙が求められているのだろうか?

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