「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

アッシリア人へのジェノサイド(1914~20)(p171~)

2012-10-12 21:46:15 | トルコ
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 アッシリア人(サイフォ)やシリア系キリスト教徒へのジェノサイドは、第一次大戦末期を中心に青年トルコ党主導の下行われた。北部メソポタミア(テュル・アブディン、ハッカリー、シールト地方)のアッシリア人が、クルド人の協力者も加わって強制的に討滅されたのだ。犠牲者の数は50万~75万(全アッシリア人の4分の3)に及んだ。

 ホーイの殺戮
 
 1918年、ホーイの町で現在のトルコ領内から逃れてきたアッシリア人3500人が、オスマン系のクルド兵に大量殺害される事件が起きた。殺戮を生き延びたジョン・エシュー牧師の声を聞こう。

 アッシリア人虐殺の詳しい様子をお話しします。アッシリア人は一カ所に集められ、そのまま銃殺されました。血が辺りに飛び散り、辺りは獄壌劫火のごとき紅血に包まれました。処刑者達はまだ血を流して倒れている先行者達の上に跨がされました。文字通りの人間屠畜場が出現したのです。
 それが一段落したら今度は郊外のアッシリア人が対象になりました。彼らは8日間食事なしで一カ所に押し込められ、その後羊のように行進させられ、残虐に殺されました。処刑者達は指を関節単位で切断し、手を切断したら地面に寝かし、喉を半分切取って、アッシリア人が少しずつ息絶えていくのを眺め、完全に息絶える前に生き埋めにしました。銃の標的にされた男もいました。銃が命中して人が死ぬと、司令官達は預言者の名を唱えて喜びました。
 美少女達は殺して下さいと嘆願しましたが、無理やりハーレムに送られました。表現不能なほどの凌辱を受けた者もいました。

 ウルミアのドイツ人宣教師の報告

 この半年間で4万人のアッシリア人が病気で亡くなった。アルメニア領内では99%の村が焼光、掠光され、2万人のアルメニア人が討滅された。サルマス地方の村では750もの首なしの屍が発見された。司令官がキリスト教徒の首に賞金をかけたからだ。この辺りではキリスト教徒への集団強制改宗が行われている。

 アッシリア人ジェノサイドを史実と認めている国は存在しない。トルコとの交易関係が壊れるのが怖いからだ。2008年6月には、スウェーデン社会民主党のユルマズ・ケリモとイブラヒム・バイラン議員がジェノサイドを認めるよう国会に提案したが、37対245の大差で否決された。

 それ以前のアッシリア人ジェノサイド

 独立直後の1933年、北イラクのシムメレの町で3000人のアッシリア人が殺される事件が起きた。虐殺行為を指揮したのはクルド人のバキル・シドキーだった。国連でジェノサイド決議を出したラファエル・リムキンはこの事件からジェノサイドという言葉をつくりだした。
 
 1829年のアッシリア人虐殺
 1829年10月には現在の北イラクとシリアでシリア正教のアッシリア人が討滅された。指揮者はクルド人のルワンデスだった。ビット・ザブダ、アスファス、ニシビンの村が主な標的になった。
 1842年には現在のトルコ南東部ハッカリーでクルド人のバドル・カーン・ベグとヌラッラーが、山岳部のアッシリア人に対する三光作戦を展開した。東方教会のマル・シムン司教の母は捕えられて身体を二つに切断され、「呪詛されし息子にも同じ運命が待っていることを知らせてこい」と叫ばれてザブ川に流された。1万人近くのアッシリア人が討滅され、女子供はジャジーラ地方に奴隷として売り飛ばされた。
 文書に残っているだけでも、630年以降アッシリア人は30回ジェノサイドの被害を受けている。間隔にして45年ごと、2世代に1回の割合で討滅対象にされてきたのだ。記録にない討滅活動は数百に及ぶだろう。

 連盟の追加解説
 アッシリア人とは古代メソポタミアのアッシリア帝国の末裔である。ムスリムの迫害は事実として継続しており、2003年のイラク戦争時にもジハーディによって「米国の犬」と看做されたアッシリア人への大量討滅作戦が展開された。開戦前80万人いたアッシリア人は半数以上が国外へ逃れたという。クルディスタン地域政府により2011年4月、一応アッシリア人の民族歴史博物館が開館した訳だが、今後の動静は如何にせん。


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