「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

二、キリスト教徒の権勢期 1943~75(p199~)

2012-10-16 23:47:17 | 中東
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 正式な独立から内戦突入までのこの時代、マロン派はムスリムの声に屈さず、権力を維持した。しかし、1958年の騒擾、アラブとイスラエルの戦争、パレスチナ難民とPLOの入植により、内戦への導火線が引かれた。
 
 イスラエル誕生の影響
 1948年イスラエルが誕生すると、マロン派の代表は公然とイスラエルの領導たちと面会した。しかし、イスラエルを宿敵とみなすムスリムはこれを背信行為とみなした。
 マロン派のアントワーヌ・アリダ司教は1946年、シオニストと協力する盟約を結び、パレスチナのイシューブ(ユダヤ人)との密接な協力を謳い上げた。エヤル・ジゼルによると、レバノンの内政問題でイスラエルの協力を得るのが狙いだった。この盟約は正式な条約とはならなかったが、これはマロン派が「国民協約を無視するムスリムという内部の敵」をどれだけ警戒していたかを示している。
 ベイルートのイグナティウス・ムバラク大司教をはじめシオニズムに協力的なマロン派は多かった。ムスリムがイスラエルを「大アラブ・イスラム世界」の障害と位置付けたため、外部からの支援が求められていたのだ。
 
 1958年の騒擾
 1958年、エジプト主導のもとシリアが合邦され、「泡沫の残影」アラブ連合共和国が誕生すると、レバノン国内のムスリムは宗派を問わずこれを支持した。カミール・シャムーン大統領をはじめとするマロン派はこれを脅威に思い、米軍の手も借りて国を守ろうとした。しかし、5月8日、反体制的なマロン派の記者暗殺を機にトリポリで大騒擾事件が起きた。ベイルートのムスリム地区にも騒擾が飛び火し、ナセル派やバース党の民兵も侵入してきた。
 シャムーンは米国のアイゼンハワーに事件解決を要請した。マロン派の軍隊が左翼勢力も含むムスリムの部隊と交戦した。結局のところ、シャムーンが2期目の大統領職を目指さないという条件で和解が成立し、エミール・フアド・シハブ軍司令官が新大統領になった。米国はこれで撤兵した。
 騒擾の結果、宗派間の断裂が顕になった。そして、マロン派はレバノンの主権を望み、ムスリムはアラブ諸国との統合を目指すようになった。

 1967年の第三次中東戦争とパレスチナ人の入国
 レバノンは第三次中東戦争に参加しなかったが、それ故にムスリムは激昂した。ムスリムはパレスチナの側で参戦しようとしたが、マロン派は戦争に巻き込まれるのを防いだ。すると、戦争に大敗したパレスチナ人はやがて、レバノン国内からイスラエルを攻撃するようになり、イスラエルもレバノンの集落を報復空爆した。
 1968年には、ムスリムの数が移民性向の強いキリスト教徒の数を上回った。そこでムスリムは議会での待遇を改善し、大将や中央銀行総裁などの職をムスリムに譲るよう要求した。
 1969年にはカイロ協定で、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプにパレスチナの主権が認められた。マロン派はこれを主権侵害と判断し、自衛措置に立ち上がった。ファランジスト党(カタイブ党)やシャムーンの国民自由党は民兵を募集し、パレスチナ人とも衝突した。
 しかし、1970年にヨルダンがパレスチナ人の闘士たちを追放すると(闇の長月事件)、左翼勢力と共に彼らがレバノンに流入してきた。更に1973年の第4次中東戦争で南レバノンが戦場になると、キリスト教徒は狼狽したが、ムスリムはこれ幸いとばかりにレバノン国内で劣位に置かれた自分たちの地位を世界に喧伝した。

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