「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

レバノンにおける1860年内乱後の自治政府(p198~)

2012-10-16 00:24:50 | 中東
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 内乱後の1861年、欧州列強の圧力もあり、「組織規約」によって山岳部はレバノン系以外のキリスト教徒総督(ムタサリフ)が治める自治区になった。これはドルーズ派などのムスリム勢力の力を弱めるものだった。マロン派はこれで中東内におけるキリスト教国家の飛び地が自分たちの手でやがて誕生すると期待し、民族感情は大いに昂揚した。
 これが面白くないドルーズ派は衝突を起こし、1907年には双方で22名の死者を出す事件が起きた。

 フランス統治とキリスト教徒の政治力拡大

 1920年レバノンはフランスの委任統治下に置かれることとなり、将軍のアンリ・グロー高等弁務官が大レバノンの建国を宣言した。キリスト教国家建設を求めるマロン派などの期待に応えるものだった。シリアやレバノンのムスリムにとって、マイサルン峠でのアラブ軍敗北とダマスカス占拠、シリア王ファイサル追放に次ぐ衝撃だった。新国家の下では、キリスト教徒がムスリムの上に立つ体制が整備された。アボット・ポール・ナーマンはマロン派が新国家で果たした役割の重要性を強調している。レバノンのムスリムは新国家よりもシリアなどのアラブ諸国をより身近に感じるようになり、宗派対立は悪化した。
 しかし、レバノン山岳部の領域を拡大した結果、キリスト教徒の人口比率は85%から54%に低下した。これが70年後の予兆となる。
 宗派別に権力を分け合う制度はレバノン共和国が正式に発足した1926年に始まった。この制度は当初こそうまく機能していたが・・・

 1943年の国民協約

 キリスト教徒優勢のレバノンの制度は1990年まで続いた。1943年レバノンはフランスから独立して正式な主権国家になった。キリスト教徒のビシャラ・アル・フーリー大統領は、ムスリムのリアド・アル・ソルハ首相と口頭で「国民協約」を結んだ。
 国民協約により、大統領にはマロン派が、首相にはスンニ派が、国会議長にはシーア派が就くことになった。議席や閣僚、軍隊などあらゆる箇所で宗派別の割り当てが進んだ。マーク・トマスが指摘するように、これは委任統治時代以来続くマロン派などのキリスト教徒への優遇体制を強化するものだった。この体制は1975年まで続いた。

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