「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

ヴィーン包囲の経緯(p236~)

2012-10-25 00:43:22 | 西洋史
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 7月14日、ヴィーンがオスマン軍に包囲された。カラ・ムスタファは降伏を勧告したが、ヴィーンを防衛するエルンスト・リュディゲ・フォン・スタルヘムブルグ将軍はこれを拒んだ。降伏勧告を受け入れたヴィーン南のペルヒトルツドルフが結局大討滅作戦の餌食になったことを知っていたからだった。
 ヴィーン市民は避難する前に、城壁外の住居を壊光して一面の大平原にし、城壁へ突撃するトルコ兵を炮火に包もうとした。これに対し、カラ・ムスタファはヴィーンへ直行する大塹壕を掘り、炮火を避けつつ少しずつヴィーンへ迫った。
 オスマン軍には300門の良質な大炮があったが、ヴィーンの城壁は耐久力が高かったので、崩すことができなかった。そこで、城壁の下に隧道を堀り、下から爆薬で崩落させる作戦が練られた。
 数で20倍上回るオスマン軍は、総力で攻撃すればヴィーンを落とすことができただろうが、包囲戦を選んだ。これは軍略的には間違いだったが、犠牲者を減らすうえでは賢明だったといえる。作戦は成功直前だったが、そこで外部から救援部隊がやってきてしまった。これは戦利品の対象となるヴィーンの富をできる限り消耗させたくなかったためといわれている。
 包囲による兵糧攻めにより、ヴィーン内部は次第に疲弊していった。兵士や義勇軍に死傷者が相次ぐ中、スタルヘムブルグ将軍は疲労困憊のあまり見張中に居眠りした兵士を射殺した。絶望感が強まる中、8月になってやっとロレーヌ公シャルル5世がイムレのハンガリー部隊をヴィーン北東5kmのビザムベルグで敗走させた。
 9月6日、ソビエスキ穹楯王がドナウ川を渡り、西欧諸国の神聖同盟軍に合流した。ザクセン、バイエルン、バーデン、フランケン、シュヴァーベンの騎士も教皇イノケンティウス11世の呼びかけで集まっていた。しかし、フランスの太陽王ルイ14世は、オスマン帝国に尻尾を振ってアルザスなどに攻め入り、ドイツ30年戦争と同じく漁夫の利を得ようとしていた。
 この頃になると、オスマンの精鋭工兵5000人がヴィーンの城壁を大きく吹き飛ばし、ブルグの稜堡を占拠していた。ヴィーン市民はいよいよ孤軍奮闘するしかない状態に追い込まれたかにみえた。

 決戦へ
 キリスト教世界の中枢の危機を前に、多国籍軍はたちまち団結し、ポーランドのソビエスキ穹楯王率いる重装騎兵団を盟主とした。十字軍を越える団結心だった。一方、カラ・ムスタファの方は後部をクリミア・ハン国のムラート・ギレイ率いる騎兵隊3~4万に任せていたが、有効な対策を採れていなかった。
 タタール兵とオスマン軍の連携は悪かった。ギレイは何度も山越えするポーランドの部隊を軽騎兵で襲うよう進言したが、カラ・ムスタファはその度に拒否した。オスマン軍の軍令に従わない部隊はギレイだけではなかった。穹楯王は無防備だった左の橋梁から敵軍に迫った。
 オスマン軍には保護国モルダビアやワラキアの軍隊もいた訳だが、両国の部隊は頼りなかった。内政干渉で傀儡ばかりを擁立させられてきた両国兵士の志気は低く、ヴィーンを炮撃する際、大炮に藁の束を詰めたという伝承まで伝わっている。
 神聖同盟軍は遂にヴィーンを見下ろすカーレンベルグ(裸崗)に辿り着いた。9月12日の朝には穹楯王のための大規模ミサが行われた。

 連盟注
 決戦の様子は論及されていません。本当に。


 戦果
 決戦の結果、1万5000人のトルコ兵が死傷し、最低でも5000人の兵士が捕虜にされ、炮台もすべて捕獲された。安堵の分だけ、戦利品争いも盛んになった。ソビエスキ穹楯王が妃に書き送ったところによると、

 天幕、家畜、駱駝・・・これまで経験したことのない大捷だった。敵軍は完全に討滅された。スタルヘムベルグ将軍は朕に接吻し、朕を救世主と呼んでくれた。

 スタルヘムベルグ将軍は損壊した城壁を修理したが、その必要はなかった。大捷後、穹楯王は撤退したが、「仏の墺雄」オイゲン・フォン・ザヴォイネン将軍(1663~1736)によりハンガリーまでが光復されたからだ。ハプスブルクはバルカン半島まで進出した後、オスマン帝国と1697年カルロヴィッツ条約を結び、講和した。敗将となったカラ・ムスタファは1683年の内に、ベオグラードでイェニ・チェリの手により処刑された。

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