想像力に屁を放て!!

Bow's Lady++お辞儀の夫人++

移転しました。

2005-03-09 00:10:56 | Weblog
移転先はコチラです。
これからもよろしくお願いします

私たちは要点をかいつまんで、

2005-03-06 22:23:16 | Weblog
理解することしかできない。

私たちというよりも、
記憶を司る脳は物質であるがゆえに、
容量に限界があるのは
経験として知っているし、
要点といっても、
それが本当に重要だったかというと、
意外とどうでもいいようなことばかり覚えていて、
結局、話の筋など、どこへやら、
ある1つの場面の細部しか
覚えていないことはよくあって、
何が記憶として残り、
何を忘却してしまうのかということは、
私たちのあずかり知らぬことで、
これって1つの賭けみたいなものだけど、
繰り返し思い出すことは、
イメージが薄れてしまい、
擦り切れてしまったとしても、
覚えていることを覚えている過去は、
忘れまいとする抵抗の結晶であり、
どうでもいいこと、
ありふれた情景は過去にならない。
過去として語られているものは、
すべて多かれ少なかれ、
新鮮な驚きをもって、
迎え入れられたもの、
つまり、
例外の蓄積である。

それゆえ、
おのずと筋から離れ、
それぞれは1つの物語世界を
構築しているものではなかろうか。

一刻も早く祖母に会いたいという気持ちが、

2005-03-02 12:53:31 | Weblog
私の気持ちを浮ついたものにすると同時に、
周囲の微妙な変化も、めざとく気づいたりもする。
集中力のなさは、逆に、注意力が鋭敏になっている
証拠なのかもしれない。

見知らぬ相手にかかってきた電話に、
誤って出てしまったことと、
話相手の発音の違いが気になってしかたないことは、
一見全く無縁なことのように思えて、
実は互いに関係し合ったりしているものだ。

私は、愛情の名の下に、自ら築き上げた祖母の幻影に、
踊らされてしまっているのだ。
というのも、私ははっきりと祖母の顔を眺めている
のではないし、もし彼女と対面したとしても、
私は彼女の顔を通じて、今、目の前にあるのとは
別の顔を思い浮かべているのだから、
それは、かつて見た優しい微笑みかもしれぬし、
あるいは、やがて立ち会うであろう朽ち果てた、
もはや何も語らぬ死顔かもしれない。

こうした、あれやこれやのイメージが
私の気持ちを落ち着かないものにしている。

祖母という存在

2005-03-01 16:20:59 | Weblog
死に近きところに立つ者の声
もはや、どこにも救いの手を差し伸べることも許されず
寛容と自由の精神をもって子孫と接し
亡霊となって
なお
彼らを慈愛の瞳で眺め
その行方を見守っている。

彼女の声が私に届くことはない。
私は自分の記憶に刻まれた声を反復するだけだが、
それゆえ、声は益々、ろ過され純度の高いものとなる。

祖母の死に出会う悲しみ

最初の肉親の死

やがて

自分が死を迎えるときの予行演習

沈黙はゼロではなく、

2005-02-28 17:30:03 | Weblog
感情を表現する行為として認めることのできる
1つの単位であるかもしれないが、
沈黙がゼロであるか量を持つかは
読み取る側の心理に委ねられているのであって、
読み取る側が意味を見出すことができなければ、
どんなに発信者が沈黙に意味を持たせようとしても
無理な話なわけだが、
もし読み取る側が、
相手の沈黙する理由があると思ったとしても、
結局、その真相は相手が言葉として発しないかぎり、
憶測でしかなく、読み取る側は
自己の築き上げた憶測の山に埋もれてしまう。

いずれにしても沈黙はゼロであって、
明確な方向を持ちはしない。

しかし、沈黙は否定的な行為として判断されてしまう。
不安にもなり、あれこれ思いをめぐらせもし、
やがては悲しみの中に諦念の2字を刻んだりもする。
そこで、その沈黙を巡ってドラマは進行していく。
肯定的な沈黙をめぐって。