【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《河江肖剰》 =021=

2017-06-16 06:00:55 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠

◇◆ 世紀のチャンス、大ピラミッドの頂上へ登る = 2/3= ◇◆

登頂開始!

 いよいよピラミッドへの登頂が開始されることになった。 私一人で測ると時間内に終わらないかもしれないため、ミステリーハンターの竹内海南江さんに手伝ってもらい、コーディネーターのモーメン・バドルさんに頼んで、私たちが測った数値を記録し、復唱してもらうことにした。

 バスの中ではさも簡単な作業のように話したが、実際に測り始めると、やはり想像していたように、やっかいな作業だった。 何より手間取ったのは、石の大きさが各段でも一定ではないことだった。 私たちは、石の高さは段ごとに違うだけで、同じ一段に並んでいる石の高さは一定だと思っていたが、実際には、数センチから、場所によっては数十センチも違っていた。

そのため、各段のどこを測るのか、その場で「解釈」していかなければならなかったのだ。 私たちは、ピラミッドから落ちないように足場を確かめ、各段を見て、適切な場所を選び、測り、気になるところは映像で撮ってもらった。

 最初のうちは全員が慎重に登っていたが、慣れてくると、動きに幅がでてきた。 カメラマンは、いい映像を撮ろうと、ピラミッドの角ぎりぎりのところに立ってカメラを回し、周りのスタッフも自分の足場より、私と海南江さんの動きに集中し始めた。 そんな彼らを見ていると、いつか落ちるのではないかと内心ひやひやし、何度も「気を付けて下さい!」と叫ぶように声をかけた。

 そんな気の抜けない作業が2時間以上続いた。 どこかで一旦休む必要があると感じていたときに、ようやく例の「窪み」に到着した。

懐かしの「窪み」、再び

「この場所に、再び立つことができるとは……」

 改めて「窪み」を見ると、日本で作業していたときのことを思い出した。コンピューター上で「窪み」の3Dモデルを動かしながら、「もっと、あのとき写真を撮っていれば……」 「あそこの場所を測っておけば……」「この奥をもっと見ておけば……」と何度も悔やんでいた。 (イラスト=3D計測による、「窪み」と「洞穴」の記録=参照)

 私は、試験のやり直しを許された受験生のような気分になりつつ、早速3Dデータの検証から始めた。 全体の形状、各面の石材の大きさ、平面図の形、一つひとつチェックリストにマークしていった。 大丈夫だとは思っていたが、やはり工学チームが作った3Dモデルは完璧だった。 私がそこから作った平面図は少し修正が必要だったが、これは誤差の範囲だろう。

 今回欲しかったデータは「窪み」の平面図だった。 前回は、「窪み」までしか登っていないため、その場所を「上から」撮影することはしていなかった。 しかし、今回は「窪み」の上の段から下に向けて撮影することが可能である。 そうすれば、ピラミッドの角の平面図が作成できる。

 ギザのピラミッドが作られた古王国第4王朝から続く中王国時代までのおよそ800年のあいだに、ピラミッドの建造方法は変化している。 だが、角の作りについてはデータがほとんどないため、よくわかっていない。 不思議なことに、最も完成度の高いはずのこのピラミッドでは、一見すると、角は適当に作られているように見えた。 石は細長いものも、四角いものも、不規則に敷き詰められており、それは後の時代のピラミッドで見られるような骨組み的な構造とは大きく異なっていた。 なぜなのだろう? 今回、そういったことを調べるためにも、データをできる限り取った。

=資料・文献=

エジプト・ピラミッド学(11) /  ヌビアのピラミッド 詳細(1)

ヌビアのピラミッドはナイル川流域の「ヌビア」地域に栄えたクシュ文明の遺跡。 エジプトのピラミッドの影響を受けている。

現代ではスーダン領となっているヌビア地域では古代に3つのクシュ文明が栄えた。 最初はケルマに都し(B.C.2600-1520)、つぎにナパタ (B.C.1000-300)、最後にメロエを都とする王国 (B.C.300–A.D.300) が成立した。

ケルマはヌビア文明で最初の中央集権国家であり、その建築様式や埋葬形式はヌビア土着のものであった。 ナパタとメロエは北方の強大なエジプト王国により文化的、経済的、政治軍事の側面でも大きな影響を受けた。 やがてエジプトの強力なライバルとなったクシュはついに第25王朝でエジプトを征服、ナパタの王はファラオとして君臨した。

ナパタのエジプト統治は比較的短命で、B.C.656年のアッシリアの侵攻により終焉を迎えた。 しかしナパタに与えた文化的な衝撃は巨大であり、ナパタの後継王朝であるメロエにおいてはピラミッド建築が爆発的に増加することになる。

数百年の間に、ナパタとメロエの王墓として、3つの遺跡におよそ220基のピラミッドが建てられた。 1つはエル=クル遺跡であり、カシュタ王とその息子ピイ王、さらにその子のシャバカ、シャバタカ、タンウェタマニの陵墓が残されている。 14基のピラミッドは王妃のものであり、そのいくつかは著名な"warrior queens" (武人王妃)のものである。これらのピラミッドは3000年もの間にエジプトで建てられたおよそ120基のピラミッドに比肩するものである。

ナパタ後期のピラミッドはヌビア上流のナイル西岸ヌリに遺跡として残っている。 この広大な墓所はアンラミ王、アスペルタ王を含む21人の王とその妃、王子たちのために建てられ、遺体は巨大な花崗岩の石棺に収められた。 アスペルタ王の棺は15.5トンの重さであり、蓋の重さだけでも4トンに及んだ。なお、ヌリ遺跡最古にして最大のピラミッドはナパタ王にしてエジプト第25王朝ファラオでもあったタハルカのものである。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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