船場のボンの独り言

船場の文化をアートで語るエッセイ

ゼロ戦と美術

2004-10-16 13:07:24 | Weblog
 少し真面目に僕と美術の出会いと言うか、僕が何を見て何を感じてきたのか振り返っておきたいと思う。既に僕の子供時代は運動好きで目立ちたがり屋だったことは、お話していると思うが、では美術というものにどう関わってきたかを今回お話しておこう。

 少年時代は、まだ戦争の名残りというか、僕たちの遊びは「戦争ごっこ」であった。僕はゼロ戦の飛行機乗りに憧れ、遊びとは言え敵の戦艦めがけて沈没させる勢いで遊んでいたのである。記憶の中では、このゼロ戦との出会いが意識的に絵を描く最初であったように思う。
 僕は、幼稚園の年長ぐらいになると、ゼロ戦をどんな角度からも描けるようになり、前からでも斜め後ろからでも、飛んでいるようにも、滑走路に止まっているようにも描き、周りに友達が僕の周りに集まってくることに得意気でいた。ゼロ戦だけでなく、戦艦大和、戦艦武蔵、隼や戦車なども迫力あるアングルを好んで描いていた。小学校へ上がると、その戦争ものへの憧れは、少年マガジン、少年サンデーを通じて、ますます膨らむのであった。同時にゼロ戦隼人などの戦争マンガや少年ケニヤ、鉄人28号、鉄腕アトム、少年ジェッターといったマンガに目を奪われた。
 手塚治虫などの漫画家が登場してくると、その影響で今度はマンガを描くようになった。盛んにチラシ広告やカレンダーの裏面に鉛筆やマジックで描いた。しかし、マンガを写していることに何故か母親や父親がいい顔をしていないのを、子供ながらに感じ取っていた。そんなわけで「マンガはいけないもの」とずうっと思い込んでいた。

 また父親が看板屋を営んでいたためであろう。我が家には、客間の仕切りに動物をペンキで描いた看板が堂々とかかっており、私は寝ながらにして、この動物達のポーズや骨格を知ることができたのである。この看板は今でもその画面のどこに何の動物が描かれていたかを思い出すことができる。我家では、父親の仕事場を工場(こうば)と呼んでおり、僕はその工場でよく遊んだ。ペンキまみれの材料台や汚れた床は、僕の視覚にしっかりと記憶され、作業台は、まさしく重厚なタブローと化していた。
 この工場での視覚的体験が、のちにアメリカ美術に傾倒した大きな要因と考えている。
 初めてジャクソン・ポロックの作品を見た時に、恐らく彼も看板屋でこのような風景を見たに違いないと思った。床に置かれたキャンバスへのドリッピングも僕には新鮮な画法ではなかった。また中学校の夏休みの宿題だったと思うが、工場に足場を組むための板線が散乱しており、その板線をペンチで加工すると人体の骨格のようになり、それを支柱にしてコンクリートボンドを直に付けていくと、ジャコメッティの彫刻のようになっていたことを後になって知った。
 工場には、何人かの絵描きさんがおり、文字や絵を手早く仕上げていく過程を、僕はぼう然と眺めていた。この頃すでにテープでマスキングしたり、コンプレッサーによる吹付塗装などの手法を知っていた。工場には、シンナーの匂いが充満しており、僕はこの匂いが好きだった。
 中学校では、中西学先生、西久保一麿先生の指導により、デッサンや油絵を学んだ。また当時、いつも図書館の奥におられた国語教師の浜口先生には、作文の手ほどきを受け、ふざけた文章にいつも評価を下さった。はじめて原稿用紙50枚ぐらいに小説を書いたのも中学3年生であった。
担任であった柳原先生に卒業式の日に油絵作品をプレゼントしたのを今でも自宅に飾っていただいてるのであるが、恥ずかしながら、これがなかなかしっかり描けているのである。作品からは真面目に美術を志す決意みたいなものを感じることができる。
コメント (21) |  トラックバック (5) | 

船場のボンは末っ子

2004-10-14 18:31:06 | Weblog
 昔から大阪の商売人の家庭では、跡取り息子のことを「ボン」といって家族や従業員から可愛がられ特別扱いを受けていた。おそらく呉服商の集まる船場界隈の言葉だと推測できるが、僕の住まいは、どちらかというと少し場所的にも外れた地域であり、あまり大声で僕は「船場のボンです」と名乗れない後ろめたさもある。
 また跡取り息子と言いながら、親の商売を継がなかった極道息子であるかも知れない。
 そんな僕に、父親同士が親しかった法善寺あられの息子さんである島影先生(大阪教育大学教授)が以前に「西区のボンと言えば、私とあなたのことでしょう。」と妙なお世辞をおっしゃられた事を苦笑しながら思い出した。もちろん冗談ではあるが、美術を仕事とする同業者で親の仕事を継いでいない極道者同士であることに親しみを覚えた。

 僕は、商売人の次男として生を受け、また末っ子として自由、気ままが許された。姉を見ても母親の厳しい躾けがあり、また兄も母親の期待に沿うべく進学校から医学部へと医者の道を選んだ。末っ子の僕は、母親の嫌うことばかりを選択していたのである。芸大時代も友達を家に泊めたりするのであるが、どうも母親は素直に喜べないでいたように思う。母親にしてみれば小学校や中学校時代のおともだちと交わることが入学させた動機でもあった。中学校を卒業して30年経つが、こうして同窓会のような集まりに改めて、親が子を思う気持ちを理解できるのである。

 前号でも書いた僕のサッカー狂も母親は喜んでいない。なぜなら野蛮なスポーツは、させたくはなかったようである。「男の子は体力が必要だから、スポーツぐらいできないとね」と口癖ではあったが、兄のテニス仲間へのもてなしと僕のサッカー仲間へのもてなしは明らかに違っていた。いまさらグチを言うことでもないのであるが、自分が親となってこの母親の愛情と過ちは1つの学習となり、また孫の代への変化を遂げているのである。
コメント (185) |  トラックバック (8) | 

船場のボンはお手伝いさんに育てられる

2004-10-08 15:02:28 | Weblog
 少し前に小学校時代の仲間が9名ほど集まった。同窓会というのでもなく、誰かが声をかけて集まろうと突発的に集まっているだけである。もちろんオッサンばかりである。
 集まった面子を振り返ると2人の医者(開業医と勤務医)、3人の歯科医、4人の社長(私も含めて)であった。たまたまと言えるかも知れないが、母校の愛日小学校は、中央区淀屋橋の住友銀行の東側に位置し、ビジネス街の一等地にあり、昔から船場のぼん、いとさん、こいさんが集まる当時のブランド校であった。
 大阪市立の公立校でありながら、枚方や千里、芦屋からも通学するという珍しい越境入学校であった。教育熱心な私の母親も例外に漏れず、私こと船場のボンを姉、兄に続いて愛日小学校に入学させたのである。
 中学校も同様に、谷町にあった船場中学校へ進学するのであるが、やはり小学校と同じような仲間がそこにいた。同級生にうどんすきの美々卯、日本調理士専門学校、551の蓬莱、中の島美術学院など大手企業の息子や娘が集まっていた。

 僕はと言えば、父親が看板屋を営んでいたので、さほど経済的に恵まれていたとは思っていなかったのであるが、子供の頃からまかないのお手伝いさんが我が家に同居しており、私はそのお手伝いさんに可愛がられた。
 父親の商売も順調で、多い時には従業員が40人もいたことを覚えている。その住み込みの従業員のまかないを母親とお手伝いさんが担当しており、また私の勉強を見たり、遊んだりしてくれていた。
今、お手伝いさんがいたなんてことを話すと「金持ちのボンボンやんか」と冷やかされるのであるが、当時、商売をしていた家庭では、従業員の一人にすぎなかった。
 また、父親が戦地から帰ってからは、仕事は勿論のこと、地域振興町会やライオンズクラブに入会して募金集めや国際的なボランティア活動、大阪屋外広告組合の理事長を歴任するなど、「世のため、人のため」に生涯を終えた人だけに、私は、周りからボンボン扱いされるのは仕方のないことであった。
 子供の頃、このボンボン扱いがたまらなく嫌であった。ひ弱で甘く、子供ながらにケチで成り金的或いは守銭奴的で嫌なイメージを抱いていた。そんな僕も40才を過ぎると冷静に自分の生い立ちを分析したり、また恥ずかしいものも無くなってくると、自ら船場のボンを名乗ってしまったのである。
 今となっては、その母校である小学校も中学校も統合されてその名前は歴史上のものになってしまったが、振り返ると実にユニークな存在であった。

 そのような恵まれた環境で育っていると逆に自立心と共に親への反発みたいなものが芽生え、「親のいいなりになんかなるものか」とかえってボンボンを逸脱しようともがいていたことを思い出す。
 スポーツに励むこともそうであったし、絵を勉強し始めたのも、またアングラ音楽(当時はそのように呼んでいた)に興味を注いだり、詩や文学に目覚めたり、学生紛争に関わろうとしたり、全ては、脱ボンボンを前提としていたように思う。
 しかしながら、本人は一生懸命に脱ボンボンに励むのであるが、どうもこの一見上品な顔立ちがいけない。いや自分で上品などと言ってしまう所も年のせいだとご勘弁いただきたいのであるが、顔立ちとか話しぶりでどうもボンボンが見破られてしまうのである。
 美大生をしていた時も、見破られまいとわざと見窄らしい服装をしていたり、汚らしい長髪であったり、何か妙に力んだ学生生活を送っていたにも関わらず、なぜか先生や友達にも見破られていたようである。
コメント (0) |  トラックバック (6) | 

芸大時代

2004-10-07 15:33:21 | Weblog
芸大時代


 芸大進学を目指すのも楽ではなく、1浪の上、合格したが、デッサンをしながらサッカーのことを忘れた日はなかった。浪人して何が苦しかったかというとサッカーができないことであり、もう頭の中がどうにかなってしまいそうなくらい中毒症状が出ていたと思う。
 合格発表の日、サッカー部の先輩が近寄って来て、「おめでとう。明日から練習においで」の言葉と「お祝にメシおごったるわ」の甘い言葉に誘われ、入部した。今から考えれば、合格はしたが入学式も待たずに芸大生となったわけで、芸大に相当長い年数お世話になったわけである。もちろん同期の中で最初に「通称丸池」にはめられたのも僕であろう。
サッカー部には期待されて入部したものの、実は怪我に泣かされた3年間であった。骨折が直って出場した試合でまた片方の足を骨折するという有り様。相手選手との接触で脇腹の肋骨にヒビが入るなどマネージャーからも「体、硬いンとちゃう。」と欺かれ、なす術がなかった。
 この芸大のサッカーがさらに僕のサッカー熱を高めてしまった。とりあえず中学時代からサッカーをしているとそれまで描いていたサッカーに対する美しいイメージがあったわけで、どうもここのサッカー部には、長髪(当時の男子芸大生はみんな長髪)で髭はぼうぼう。筋肉質とは縁のないスリムな体型。入れ墨ユニホームなんていうふざけた体質。黴臭い部室。練習後には必ずビール。コンパでの下ネタ芸、夏合宿にわざわざ熱い南の土地(九州や淡路島)に行くなど。もうカルチャーショックとしか言いようがなかった。そんな僕も4回生となり、最後の四芸祭(東京芸大、金沢美大、京都芸大、愛知芸大の交歓祭)を迎えることになるが、キャプテンとしての意地もあり、その時のメンバーは今でも芸大始まって以来の最強チームと確信している。東京が開催地であり、もう優勝するしかないなんて鼻息も荒く、東京に乗り込んだ。
 その結果、愛知芸大に6対0。金沢美大に6対0。東京芸大に4対2と撃破。もちろん優勝である。この完璧なチームを育てたことが実は今の仕事に役立っている。この時、東京芸大にイラストレーターの日比野克彦、タナカノリユキらがいたことも後になって知ったが、相手プレイヤーとしては別にどおってことなかった。
 このようにサッカーばかりやっていた芸大時代も卒業を迎えた10月頃。同期の友人である小田英之と一緒に洋画の研究室で教官と話をしていた時「卒業したらどうするの?」と聞かれて、始めて卒業するんだということに気がついた。しかしロクな作品を作ってなかったことを考えるとこのまま卒業するわけにはいかない。小田はすでに独自の作風を築きつつあった。僕はと言えば、絵画から遠ざかろうとしていた。このままではいけない。何かあっと言わすことをしなければと初めて真剣に制作し始めたのである。
 専攻科の試験の時も月曜日に出された課題を1週間かけて土曜日に提出するというものであったが、月曜、火曜と考えて構想が定まると、水曜日は試験を抜け出して以前から予定していた試合に出場。この時はもう後輩達もあきれ顔であった。翌日から予定通り木曜、金曜、土曜と3日間で作品を仕上げて提出。事前の持ち込み作品もバッチリで見事合格。
 またここから、後輩達との新たなサッカーが始まるのである。もう僕にとって始まりはあっても終わりはないって感じである。後輩達は迷惑であったかも知れないが、大学卒業後も毎年のように合宿、四芸祭、芸大祭、OB戦と在学してるのか卒業してるのか自分でもよく分からない状態が続いた。結婚後子供を連れて合宿にまで行った記憶があるので、卒業後、約8年間ぐらいはこの状態が続いたことになる。勿論、芸大祭、四芸祭もである。


コメント (0) |  トラックバック (9) | 

アーティストを目指したサッカー少年

2004-10-07 15:24:05 | Weblog
アーティストを目指したサッカー少年


 年数だけで自慢にもならないが、気がつくと30年以上もサッカーに携わっている。しかも昔やっていたスポーツというのではなく、今もなお気持ちだけは現役である。
 僕がサッカーを始めた経緯を言うと、小学校6年生まで大阪西リトルリーグという所で野球をやっていた野球少年であった。空き地では、ひとりもくもくと頭の中で「巨人の星」のテーマ曲を流しながら星飛雄馬のように壁に描いたストライクゾーンをめがけて、1日100球の投げ込みをしていたものだ。ここだけの話だが、5円玉を紐で吊るして振り子のように揺れる5円玉をボールで当てるくらいのことは、この練習ですでにものにしていた。
 当時、川上巨人のV9時代であり、勿論僕は王、長島のファンとなり、将来はあこがれのジャイアンツの一員と夢を描いていた。今でも「なんで大阪やのに巨人ファンなん?巨人のどこがええねん。」と阪神ファンの猛攻撃を受けるのであるが、大阪在住の巨人ファンとしては物心ついてからは肩身の狭い思いでひっそりと暮らしてきたことを理解してもらえない。「しゃーないやろ。僕が野球を覚えた頃のお手本が巨人やってんから。」この大阪で上手く生きていくには阪神ファンのほうが良かったかも知れん。そのほうが楽しい人生を送れたかも知れん。しかしなあ。お手本が巨人やったんや。「巨人、大鵬、卵焼き」バンザーイ。
 そんな僕も中学生になると、中学校に野球部はなく、仕方なく「足の速いとこ見せたろ」という単純な動機で陸上部に入部した。陸上部では俳優の内藤剛志と一緒になった。しかし、ただ走るという練習自体面白いわけではなく、野球少年には、複雑に頭を使う(今ではID野球と言う)プレーを気持ちのどこかで望んでいた。
 そんな時にである。メキシコオリンピックで話題になったスポーツがサッカーであった。目新しいものに目がない僕にとって釜本選手や杉山選手、宮本選手の正確なキックとスピード感あふれるパスやドリブル。状況の変化にすばやく対応する優れた能力。泥んこになったユニホーム。すべてがかっこ良かった。
 時代というのはよく出来たもので、僕のような少年が沢山いるという的確なリサーチに基づいて「靭少年サッカースクール(正しくは大阪スポーツマンクラブ)」が誕生する。勿論母親を説得してこのサッカースクールの1期生となる。
今から考えるとこの時、学校では陸上部と美術部、土曜、日曜はサッカーと大変忙しい日々を送っていたものである。勿論、学習塾には行っていなかったが・・・。
 このような中学時代を送っていたものだから兄と同じ高校へは進学できず、どこからか母親が「勉強もサッカーも熱心な高校」と探してきたのが私立の進学校であった。
 実はこの頃から芸大という響きにビビッと来ていたので、高校へ行ったらカルトンを持って研究所なんかに通うのもかっこいいなあなんてぼんやり考えていた。しかし、僕の心に棲みついたサッカーボールは、絵筆に代えられるものではなかった。
 高校でも体育の授業、放課後のクラブとサッカー一色の生活。特に強いチームではなかったが、サッカーを通して友達の絆は深まっていった。
 こんな高校生も進学となると真剣に考えた。サッカーでメシが食えるわけではない。それやったら同じようにメシが食えない芸術家もいいな。芸術家のほうが、長く続けられそうだし、いちびりの性格も手伝って何かおもろいことやれるんちゃうかな?サラリーマンは似合いそうもないし。その事に気がついて芸大進学を目指すようになる。

コメント (2) |  トラックバック (2) |