少し真面目に僕と美術の出会いと言うか、僕が何を見て何を感じてきたのか振り返っておきたいと思う。既に僕の子供時代は運動好きで目立ちたがり屋だったことは、お話していると思うが、では美術というものにどう関わってきたかを今回お話しておこう。
少年時代は、まだ戦争の名残りというか、僕たちの遊びは「戦争ごっこ」であった。僕はゼロ戦の飛行機乗りに憧れ、遊びとは言え敵の戦艦めがけて沈没させる勢いで遊んでいたのである。記憶の中では、このゼロ戦との出会いが意識的に絵を描く最初であったように思う。
僕は、幼稚園の年長ぐらいになると、ゼロ戦をどんな角度からも描けるようになり、前からでも斜め後ろからでも、飛んでいるようにも、滑走路に止まっているようにも描き、周りに友達が僕の周りに集まってくることに得意気でいた。ゼロ戦だけでなく、戦艦大和、戦艦武蔵、隼や戦車なども迫力あるアングルを好んで描いていた。小学校へ上がると、その戦争ものへの憧れは、少年マガジン、少年サンデーを通じて、ますます膨らむのであった。同時にゼロ戦隼人などの戦争マンガや少年ケニヤ、鉄人28号、鉄腕アトム、少年ジェッターといったマンガに目を奪われた。
手塚治虫などの漫画家が登場してくると、その影響で今度はマンガを描くようになった。盛んにチラシ広告やカレンダーの裏面に鉛筆やマジックで描いた。しかし、マンガを写していることに何故か母親や父親がいい顔をしていないのを、子供ながらに感じ取っていた。そんなわけで「マンガはいけないもの」とずうっと思い込んでいた。
また父親が看板屋を営んでいたためであろう。我が家には、客間の仕切りに動物をペンキで描いた看板が堂々とかかっており、私は寝ながらにして、この動物達のポーズや骨格を知ることができたのである。この看板は今でもその画面のどこに何の動物が描かれていたかを思い出すことができる。我家では、父親の仕事場を工場(こうば)と呼んでおり、僕はその工場でよく遊んだ。ペンキまみれの材料台や汚れた床は、僕の視覚にしっかりと記憶され、作業台は、まさしく重厚なタブローと化していた。
この工場での視覚的体験が、のちにアメリカ美術に傾倒した大きな要因と考えている。
初めてジャクソン・ポロックの作品を見た時に、恐らく彼も看板屋でこのような風景を見たに違いないと思った。床に置かれたキャンバスへのドリッピングも僕には新鮮な画法ではなかった。また中学校の夏休みの宿題だったと思うが、工場に足場を組むための板線が散乱しており、その板線をペンチで加工すると人体の骨格のようになり、それを支柱にしてコンクリートボンドを直に付けていくと、ジャコメッティの彫刻のようになっていたことを後になって知った。
工場には、何人かの絵描きさんがおり、文字や絵を手早く仕上げていく過程を、僕はぼう然と眺めていた。この頃すでにテープでマスキングしたり、コンプレッサーによる吹付塗装などの手法を知っていた。工場には、シンナーの匂いが充満しており、僕はこの匂いが好きだった。
中学校では、中西学先生、西久保一麿先生の指導により、デッサンや油絵を学んだ。また当時、いつも図書館の奥におられた国語教師の浜口先生には、作文の手ほどきを受け、ふざけた文章にいつも評価を下さった。はじめて原稿用紙50枚ぐらいに小説を書いたのも中学3年生であった。
担任であった柳原先生に卒業式の日に油絵作品をプレゼントしたのを今でも自宅に飾っていただいてるのであるが、恥ずかしながら、これがなかなかしっかり描けているのである。作品からは真面目に美術を志す決意みたいなものを感じることができる。
少年時代は、まだ戦争の名残りというか、僕たちの遊びは「戦争ごっこ」であった。僕はゼロ戦の飛行機乗りに憧れ、遊びとは言え敵の戦艦めがけて沈没させる勢いで遊んでいたのである。記憶の中では、このゼロ戦との出会いが意識的に絵を描く最初であったように思う。
僕は、幼稚園の年長ぐらいになると、ゼロ戦をどんな角度からも描けるようになり、前からでも斜め後ろからでも、飛んでいるようにも、滑走路に止まっているようにも描き、周りに友達が僕の周りに集まってくることに得意気でいた。ゼロ戦だけでなく、戦艦大和、戦艦武蔵、隼や戦車なども迫力あるアングルを好んで描いていた。小学校へ上がると、その戦争ものへの憧れは、少年マガジン、少年サンデーを通じて、ますます膨らむのであった。同時にゼロ戦隼人などの戦争マンガや少年ケニヤ、鉄人28号、鉄腕アトム、少年ジェッターといったマンガに目を奪われた。
手塚治虫などの漫画家が登場してくると、その影響で今度はマンガを描くようになった。盛んにチラシ広告やカレンダーの裏面に鉛筆やマジックで描いた。しかし、マンガを写していることに何故か母親や父親がいい顔をしていないのを、子供ながらに感じ取っていた。そんなわけで「マンガはいけないもの」とずうっと思い込んでいた。
また父親が看板屋を営んでいたためであろう。我が家には、客間の仕切りに動物をペンキで描いた看板が堂々とかかっており、私は寝ながらにして、この動物達のポーズや骨格を知ることができたのである。この看板は今でもその画面のどこに何の動物が描かれていたかを思い出すことができる。我家では、父親の仕事場を工場(こうば)と呼んでおり、僕はその工場でよく遊んだ。ペンキまみれの材料台や汚れた床は、僕の視覚にしっかりと記憶され、作業台は、まさしく重厚なタブローと化していた。
この工場での視覚的体験が、のちにアメリカ美術に傾倒した大きな要因と考えている。
初めてジャクソン・ポロックの作品を見た時に、恐らく彼も看板屋でこのような風景を見たに違いないと思った。床に置かれたキャンバスへのドリッピングも僕には新鮮な画法ではなかった。また中学校の夏休みの宿題だったと思うが、工場に足場を組むための板線が散乱しており、その板線をペンチで加工すると人体の骨格のようになり、それを支柱にしてコンクリートボンドを直に付けていくと、ジャコメッティの彫刻のようになっていたことを後になって知った。
工場には、何人かの絵描きさんがおり、文字や絵を手早く仕上げていく過程を、僕はぼう然と眺めていた。この頃すでにテープでマスキングしたり、コンプレッサーによる吹付塗装などの手法を知っていた。工場には、シンナーの匂いが充満しており、僕はこの匂いが好きだった。
中学校では、中西学先生、西久保一麿先生の指導により、デッサンや油絵を学んだ。また当時、いつも図書館の奥におられた国語教師の浜口先生には、作文の手ほどきを受け、ふざけた文章にいつも評価を下さった。はじめて原稿用紙50枚ぐらいに小説を書いたのも中学3年生であった。
担任であった柳原先生に卒業式の日に油絵作品をプレゼントしたのを今でも自宅に飾っていただいてるのであるが、恥ずかしながら、これがなかなかしっかり描けているのである。作品からは真面目に美術を志す決意みたいなものを感じることができる。
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