犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安婦と挺身隊

2016-05-14 23:06:49 | 慰安婦問題

 朝日新聞はかつて、

「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」

と書き(1992年1月11日付の朝刊)、20年以上経った2014年8月に、その検証記事を掲載しました(→リンク)。

 その後、朝日新聞の報道について第三者委員会が検証を行い、同年12月の報告書で「挺身隊として『強制連行』された朝鮮人慰安婦の人数が8万人から20万人」であるかのような説明は、読者の誤解を招くもの、との指摘を受け、朝日新聞社は「慰安婦と挺身隊との混同」は誤りだったとし、紙面でおわび、訂正しました。

 少し前に、この問題に関連する記事が朝日新聞に載りました(→リンク)。

 言語心理学者だという吉方べき氏(ペンネーム)の取材記事のような体裁をとっていますが、自社報道の再検証が目的のようです。

 吉方べき氏は朝鮮日報日本語版サイトの翻訳監修をしているそうで、韓国におけるこれまでの慰安婦問題報道について調査したとのこと。

 記事では、「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」という92年1月に記事の中の、「挺身隊」、「20万人」、「強制連行」について、過去の韓国の報道が分析されています。

 まず、「挺身隊」。

 慰安婦と挺身隊の混同の最も早い例は、1946年5月のソウル新聞記事に見られるそうで、その後も60年代の二つの記事があります。

 吉方氏は、韓国の新聞各紙では、終戦直後から60年代前半ごろまでに、「挺身隊の名のもとに女性が連行され慰安婦にされた」という認識が成立していたと推定しています。

 一方、「慰安婦」という言葉は、1950~80年代の韓国紙では、「米軍相手の韓国人慰安婦」のように、主に外国人兵士に対する性産業従事女性の意味で使われた記事が圧倒的に多いとのこと。

 次に、「20万人説」。

 これまで「20万人」という数字の根拠として、千田夏光氏の『従軍慰安婦』(1973年、韓国語版74年)に紹介されている1970年8月のソウル新聞記事が挙げられることが多かった。

 千田氏は、1970年8月14日付ソウル新聞の記事を誤読し、著書で誤った記述を行いました。

〈ソウル新聞の記事〉
「挺身隊に動員された韓日両国の女性はあわせて20万人ほど。このうち韓国の女性は5万~7万人と推算されている」

〈千田氏の著書〉
「1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち「5万人ないし7万人」が慰安婦にされた」

 ただ、千田氏は「20万人が慰安婦にされた」とは書いていないので、これが慰安婦20万人説の起源ではないだろうというのが、吉方氏の意見。

 千田氏の著書以前に、「20万人」という数字を挙げた資料として、文定昌『軍国日本朝鮮強占三六年史・下』(1967年)があるそうです。

 ところで、上のソウル新聞の記事、すなわち「挺身隊に動員された韓日両国の女性はあわせて20万人ほど。このうち韓国の女性は5万~7万人と推算されている」は正しいのか。

 朝日の記事には、高崎宗司・津田塾大名誉教授の、「挺身隊」に関する研究が紹介されています。これは女性のためのアジア平和国民基金のHPで見ることができます(女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会編『「慰安婦」問題調査報告・1999』→リンク)。

 この研究によると、朝鮮の「女子勤労挺身隊」が内地(日本)に動員されたのは1944年4月から。総督府が発行する「毎日新報」の新聞広告や、学校を通じて募集した。44年8月には「女子挺身勤労令」が公布・施行されましたが、募集は法令による強制ではなく、志願の形をとったものと見られます。確実な資料として把握できているのは、東京麻糸紡績沼津工場、富山県の不二越、三菱重工の名古屋工場の3か所で、合計約1700人。その他、あいまいな資料を含めても4000人ぐらいだとのこと。内地における終戦時の動員数47万2573人に比べると、朝鮮から内地へ動員された挺身隊員の数はきわめて少なかったといえます。

 つまり、ソウル新聞の「韓日両国の女子挺身隊は計約20万人。うち韓国女性は5万~7万人」という推算は間違いだったのです。

 朝鮮の女子挺身隊の特徴は、国民学校の生徒が多いこと。92年6月に韓国政府に申告のあった勤労挺身隊「被害者」245人中244人が国民学校の学生(残り一人は高等女学校・実業学校)。内地では、国民学校生徒は対象ではありませんでした。

 高崎氏はこの研究の中で、「挺身隊として出動し、その後に慰安婦にさせられた(させられそうになった)」という証言を検討しています。証言者は姜徳景、金福童、朴スニ(仮名)、金ウンジン(仮名)、李在允の5人。姜徳景は挺身隊から脱走後に慰安婦にされたので、「挺身隊の名で慰安婦にされた」ものではない。その他4人の証言は、挺身隊として動員された他の人々の証言と食い違いが大きいので、おそらく(業者などに)騙されたものであろうと推測しています。そして高崎氏は、「女子勤労挺身隊員を集団的に軍慰安婦に充当した」とか、「勤労挺身隊への動員が軍慰安所に直結していた」などという事実はなかったと結論づけています。

 挺身隊が、韓国でなぜ慰安婦と混同されたのかについては、朝日の記事を読んでもよくわからない。

 おそらく、挺身隊に行った絶対数が少なかった、というのが一つの理由だったのでしょう。もし、挺身隊に行った人が何万人もいたならば、そこから帰ってきた人の口から「慰安婦」とは別物ということが伝わったはずです。しかし、実際に日本に渡った挺身隊員はたった4000人しかいなかったので、経験談を聞く機会は少なかったんでしょう。一方、慰安婦を集めた女衒が「挺身隊」を騙ったというケースがあったため、「挺身隊」の実態がわからないまま、挺身隊=慰安婦というイメージが定着したのだと思われます。

 朝日の記事によれば、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を立ち上げた尹貞玉氏も挺身隊=慰安婦と思い込んでいたようで、90年に「挺身隊=慰安婦」の被害者の申告を受け付けたところ、勤労挺身隊の経験者も名乗り出てきて、そこで初めて両者が別物であることを知ったようです。

 尹貞玉氏は、梨花女子専門学校在学中の1943年、「学生全員が地下室で青い紙に指紋を押させられた。『女子挺身隊』にでも引っぱられるのでは、と心配した両親は翌日、私を退学させました」と証言しています(1988年8月18日朝日新聞「ひと」欄、前川恵司『「慰安婦虚報」の真実』より)。しかし高崎氏は「梨花と淑明の2つの女子専門学校では女子勤労挺身隊が結成されたという事実も動員されたという事実もない」そうです。証言の中の「青い紙」というのは何だったんでしょうか。

 さて、最後に「強制連行」。これに関しては、1963年の京郷新聞の記事、および1984年3月の「タイの元慰安婦」の報道が紹介されています。

 元朝鮮人慰安婦の盧寿福さんが戦後も帰国せずタイに残っていることがわかり、KBSがバンコクから衛星中継するなど、韓国のメディアで大きく報じられたそうです。中央日報は「私は女子挺身隊」の題で半生記を11回連載し、「数人の日本人巡査に押し倒され、縄で手を縛られ連行されていった」、「ウサギ狩りのような人狩りにかかった」という盧さんの証言を紹介しているとのこと(1984年3月17日~31日付中央日報「私は女子挺身隊 盧寿福おばあさん 怨恨の一代記」)。

 前出の元朝日新聞記者・前川恵司氏著『「慰安婦虚報」の真実』によると、このニュースは、朝日新聞も大きくとりあげていたそうです。記事を書いたのは松井やより氏(故人)。タイトルは「『私は元従軍慰安婦』韓国婦人の生きた道」、小見出しは「邦人巡査が強制連行 21歳、故国引き離される」。記事では、慰安婦の意味で挺身隊という言葉が使われているそうです。そして「8万人とも10万人ともいわれる従軍慰安婦の多くは、生きて帰れなかった」とも書いているのだとか。

 その記事から4年後の88年、松井やより氏は、先に紹介した朝日の「ひと」欄の記事で尹貞玉氏を取り上げ、「指紋押捺」のエピソードを紹介、慰安婦にされた朝鮮人の数を「8万人説から20万人説までまちまち」として、慰安婦の数の上限を4年前の記事から倍増させていました。何か根拠があったんでしょうか。

 朝日の元の記事に戻ると…

 韓国では、挺身隊を慰安婦と同一視していたため、1992年1月、戦時中の朝鮮で国民学校に通う12歳の朝鮮人少女が挺身隊に動員された学籍簿が見つかったとき、韓国の通信社が「日本は小学生まで慰安婦にした」というニュースを配信、韓国民を憤激させました。ソウル駐在の日本人記者らが「挺身隊と慰安婦の混同」を指摘したそうですが、この記事はいまなお訂正されていません。

 その後、韓国政府も1992年7月に発表した報告書で「勤労挺身隊」と「軍隊慰安婦」の「混用」を認め、両者を区別する必要があるとしました。

 「挺対協」の尹貞玉氏もその違いに気づいていますが、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の名称を変更しようとはしない。理由は、「韓国社会では慰安婦問題が「挺身隊問題」として定着し、元慰安婦の多くが「私は挺身隊だった」と語っている」からなんだそうです。

 おそらく、「挺身隊」には国民学校に通っていた少女というイメージがあり、「そんな少女を慰安婦にした日本の残虐性」を印象づけるために、あえて名称変更をしないのではないか。

 挺対協は早く名称を「慰安婦問題対策協議会」に変更すべきです。

 ところで、東京外大の金富子教授は、『朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』(御茶の水書房)の中で、挺身隊と慰安婦の混同について、秦郁彦氏や『帝国の慰安婦』の朴裕河教授、さらに朝日新聞を批判しています。彼女は、秦氏や朴氏がまるで「朝鮮人女性は挺身隊として動員されなかった」と言っているかのように批判し、「実際には動員されていた」と、当たり前のことを述べています。

 そして、38年頃から「軍への奉仕を目的とする戦場への女性動員に関する「流言」が発生した」ことを根拠に、「実際にそうした募集が朝鮮で行われていたと推測できます」という驚くべき主張をしています。そして、「1940年代から「挺身隊」の名で多くの強制動員が行われていたことになります」と断定しています。

 「火のない所に煙は立たぬ」ということでしょうか。流言が事実の根拠とは?

 その後も慰安婦証言などを引用しながら、

 「1940年代に「挺身隊という名で慰安婦にされた」というのは、「混同」ではなく、植民地朝鮮での「慰安婦」徴集時に行われた誘拐の一形態であり、朝鮮民衆側からみた一定の実態の反映とみることができるのではないでしょうか。
 さらに言えば、挺身隊と「慰安婦」の関係について、「誤用」の一言で片づけてしまう見方では、朝鮮人「慰安婦」徴集の実相が見えなくなってしまうのではないでしょうか」

と結んでいます。

 あの朝日新聞でさえ「誤用」を認めた「挺身隊の名で強制連行」を、今なお堂々と正しかったと主張する人がいるとは驚きです。


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