偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏番外伊豆・鷲頭山(静岡)阿弥陀如来、白隠、唯念

2018年02月26日 | 登山

伊豆・鷲頭山(わしずさん) 阿弥陀如来(あみだにょらい)

【データ】 伊豆・鷲頭山392メートル▼最寄駅 JR東海道本線・沼津駅▼登山口 静岡県沼津市大平の御前帰集落▼石仏 鷲頭山北西中腹の岩屋、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより

【独り言1】  阿弥陀如来 御前帰集落から鷲頭山への道を登りだすとすぐ、左手に古い石段があります。地元の人の話では、かつて阿弥陀堂があったところで、今は小さな御堂があるだけで、本尊の阿弥陀仏も盗まれてしまったそうです。鷲頭山への道をしばらく登ると大きな岩に突き当たります。〝中将岩〟と呼ばれている岩で、岩屋状になった基部に格子がはめられた覆屋があり、なかに阿弥陀如来の石仏が安置されています。側に立つ案内によると、〝中将〟は一ノ谷合戦に敗れた平家の生き残り、平清盛の五男・三位中将平重衡だそうです。
 伊豆狩野の里に軟禁されていた重衡は、権威を振っていたころの南都焼き討ちの罪を問われ、京に戻されて斬首されますが、鷲頭山中将岩の案内では軟禁先から抜け出してこの岩屋に隠れたことになっています。しかしそれもすぐにばれて山上で切腹自害。その後、浜の人たちが供養していたものを、この場所が大平分なので、文明14年(1480)から大平で祀るようになり、延宝7年(1679)に阿弥陀如来を造立して岩屋に納め、毎年4月3日の祭りを行ってきた、と案内されていました。
 その阿弥陀如来は頭部の大きな丸彫りの坐像で、六角形の二段の台座、茄子敷、蓮華座の上に坐しています。印は上品上生の弥陀の定印。背面に「延宝七天己未 三位中将」銘があると『大平の石仏・石神』(注1)に紹介されていました。 山麓の阿弥陀堂と中将岩の阿弥陀仏は関係があるのでしょうか。
(注1)『大平の石仏・石神』沼津市教育委員会、平成5年

 
【独り言2】  白隠(はくいん)、唯念(ゆいねん) 鷲頭山の北山麓をぶらぶら歩いていると珍しい石塔に出会いました。一つは白隠名号塔=上写真左=。石塔中央にシュール化した「南無」とその脇に「観世音菩薩」と大人しくまとめたこの書体の石塔が白隠名号塔です。白隠の筆跡が元になっているこの石塔は静岡県で見かけます。というのも白隠(1686~1769)の生まれは鷲頭山の少し北になる沼津市原で、禅を極めるために諸国を行脚し、沼津市原に近い三島市の龍沢寺を復興させるなど、臨済宗中興の祖と称された僧です。禅画を得意としたそうですから、名号塔の書体も絵画的であります。
 唯念(1791~1880)(注2)=上写真右=は、鷲頭山がある沼津市の北の小山町上野の山中奥の沢を拠点に念仏布教をした行者で、このブログの明神峠で案内しました。生まれは肥後の八代。若くして蝦夷や奥州で修行、40代から奥の沢を中心に念仏布教を始めます。その折に描いた書画の筆跡を石に刻んだのが唯念名号塔です。
 奥の沢がある丹沢から富士山山麓は、近世に念仏行者が盛んに布教活動をしたところで、古くは江戸時代初期の弾誓や但唱、中期には徳本や観正などが知られています。またこれらの行者の名号塔がたくさん立っている地域でもあります。
(注2)『唯念行者と唯念寺』昭和63年、小山町教育委員会

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石仏783伊豆・鷲頭山(静岡)鷲頭神、伊豆型道祖神

2018年02月23日 | 登山

伊豆・鷲頭山(わしずさん) 鷲頭神(わしずのかみ)

【データ】 伊豆・鷲頭山392メートル▼最寄駅 JR東海道本線・沼津駅▼登山口 静岡県沼津市大平の山口集落▼石仏 鷲頭山山頂、地図の赤丸印。青丸は山口の水神▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 鷲頭山は、沼津アルプスと呼ばれている伊豆半島の入口にある靜浦山塊の主峰。山頂に鷲頭神社の石祠が建つ。登山口は北山麓の御前帰、戸ヶ谷、多比口、山口などからあり、どの道も中腹から急峻で稜線は岩尾根となる。多比口近くの天満に鷲頭山神社があるが、これは明治七年に山頂から降ろしたものと『大平の石仏・石神』(注1)にある。この日は山口から大平山経由で登った。
 鷲頭山に登り着いた所に一対の石燈籠が立つ。「文政三辰(1820)」造立の燈籠で、竿の部分に「新城、吉田、山口、戸ヶ谷ほか、沼津アルプスと狩野川に挟まれた大平地区の村名が並ぶ。鷲頭神社は広い山頂の中央にある山桜の古木を背にした流造りの大きな石祠。その裏面に「安政五戊午年(1858)正月建立 平村石工亀吉」銘があり、先にあげた集落の方を向いている。
 山頂に立てられていた案内によると、鷲頭神社は旱魃と水害治め、五穀豊穣を願って伊予国の高龗神(たかおかみのかみ)を勧請したものだという。山と川に挟まれた大平地区は山の水は期待できず、川の水も引き入れることができないうえ、狩野川の氾濫で困り果てていた土地だったらしい。この高龗神、川口謙二氏の『神々の系図』(注2)から簡単に案内する。
 母伊邪那美は火の神・迦具土を生んだため死んでしまう。哀しみ怒った父伊邪那岐は迦具土を切り殺し、その剣や血から生まれた八神のうちの闇淤加美神(くらおかみのかみ)が高龗神で、雨を司る龍神とされている。
(注1)『大平の石仏・石神』沼津市教育委員会、平成5年
(注2)川口謙二著『神々の系図』昭和51年、東京美術



【独り言1】 水神 登山口の山口集落の道端に水神の石祠がありました。地元の人の話では、かつてここにあった溜池の水神だったそうです。いまは溜池もなくなっていますが、大平山から流れ出る水を溜めた池があったそうです。「寛保二年(1718)」の造立で、台座に二匹の蛇が刻まれていました。水が流れ出る谷には山の神=上写真下=が祀られていました。山一つ越えれば駿河の海ですが、大平は内陸部の里山と同じ神仏が残されている土地でした。

【独り言2】 伊豆型道祖神 鷲頭山がある沼津アルプスと狩野川に囲まれた大平地区は、『大平の石仏・石神』に「山と川に囲まれ、外界から完全に区画された大平地区は、歴史的にも独特の世界を形成してきた」と紹介されています。そんな土地から伊豆型道祖神を紹介します。
 伊豆型道祖神は、沼津市や伊豆半島北部に見られる単体坐像です。光背付きと丸彫りが混在し、像容は総髪や冠を付け狩衣姿で持物は笏が多く、宝珠や帳面を持つ像もありますがわずかです。僧形で合掌する像も若干ありますが、神像が一般的です。これが裾野市・御殿場市など北に離れるほど双体立像の道祖神にかわります。また伊豆南部ではほとんど見ていません。


 大平地区は道祖神の集中地で、『大平の石仏・石神』には24体報告されています。そのほとんどが笏持ち丸彫り単神坐像です。光背付も少しあります。造立年がわかるのは天保13年((1842)と明治25年の2体だけです。この土地の庚申塔を含めた石造物の造立は江戸時代初期から始まっていて、他の地方とさほど変わりはありません。銘がある道祖神が少ないのでなんともいえませんが、数が多いわりには造立年が遅い感じはします。

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石仏782明神峠(静岡)善光寺式阿弥陀三尊

2018年02月20日 | 登山

明神峠(みょうじんとうげ) 善光寺式阿弥陀三尊(ぜんこうじしきあみださんぞん)

【データ】 明神峠 890メートル▼最寄駅 JR御殿場線・駿河小山駅▼登山口 静岡県小山町上野▼石仏 沢奧の右岸の開山堂境内、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです。▼下の写真は奥の沢開山堂の石仏。唯念か

【里山石仏巡礼42】  国土地理院2万5千の地図「駿河小山」の明神峠南東の山中、ここに寺院記号があるのを見て車で出かけた。地図によると峠道の途中やふもとの小山町上野集落から林道が続いていて簡単に行けそうだった。しかし、頼みの林道はすべて閉鎖されており、地元の人の話では「林道を造ったもののゴミの投棄がひどいので閉鎖した」という。
 目的地の寺院記号は、林道の終点から山道を少し入った沢ぞいにある寺跡。小山町の資料では唯念奥の沢開山堂となっていた。唯念(ゆいねん)は、江戸時代末期にこの地方で念仏を布教した行者、その拠点となったのが奥の沢だった。この寺が土砂で埋没したのは関東大震災だったと、小山町では伝えている。そのとき一緒に埋まってしまった石仏群は、後に掘り出されて今のように整備された。そのなかで際立っているのが善光寺式阿弥陀三尊である。
 長野・善光寺の本尊は秘仏中の秘仏で、その姿は不明ながら、本尊厨子前に立つ御前立本尊や同様の名称がある各地の像から、善光寺式阿弥陀三尊としていくつかの特徴が伝えられている。その一つは脇待である観音菩薩・勢至菩薩が結ぶ印で、両手の手のひら胸の前で上下あわせる梵篋(ぼんきょう)印。そして三尊が立つ台座は肉厚蓮華で臼のような形、さらに三尊共通の光背を背にする、などがある。奥の沢開山堂の石仏もこの特徴をそなえており、さらに光背に化仏を配置する本格的なものだった。多くの石仏に囲まれたその光景は、唯念が布教した念仏の偉大さを見る思いがした。
 小山町の資料によると、唯念の奥の沢へ導くために置かれた「唯念手引き観音」の石仏が御殿場市上小林から小山町の下小林・一色・用沢などの集落、そして上野をへて奥の沢まで14体残っているとある。林道の途中にも二体ほどあるらしいが、それは見つけ出せなかった。

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石仏781塔ノ岳(神奈川)不動明王

2018年02月16日 | 登山

塔ケ岳(とうのだけ) 不動明王(ふどうみょうおう)

【データ】 塔ノ岳 1491メートル▼最寄駅 小田急線・秦野駅▼登山口 神奈川県秦野市大倉▼石仏 山頂直下の不動清水、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです▼下の写真は昭和57年の塔ノ岳山頂の石造物
【里山石仏巡礼41】  塔ノ岳尊仏山荘の荷揚げに毎週通ったことがあった。一貫目百円の契約で十貫、約40キロを背負って大倉尾根を登った。登りばかり続くこのコースはバカ尾根と呼ばれ、山頂まで普通なら3時間、十貫背負うと5時間はかかった。荷揚げの代金千円は尊仏山荘で荷物と引き換えに受け取った。昭和40年代、千円は新宿からの交通費を差し引いても半分は残った。
 黙々と登るだけの荷揚げだが、途中で石仏を見るのを楽しみにしていた。観音茶屋わきの木祠に納められた馬頭観音は、上半身が盗難にあい下半身だけ祀られていた。さらなる盗難を防ぐため木祠に鉄線を張りめぐらし、電流をながしていると聞いた。花立山荘前にある勢至菩薩は台座がなくいつも向きを変えていた。山頂には磨滅して像容のはっきりしない坐像があり、智拳(ちけん)印を結ぶ大日如来と見た。尊仏山荘で代金を受け取ると水場に下りて不動明王に会った。
 右手に智恵の象徴である剣、左手には慈悲を表す羂索を持ち、憤怒の表情をした不動明王は、山で修行をする行者の守護神とされた。行者は滝に向かい、水に打たれて不動明王を感得、つまり己を極限状態に追い込み、仏の姿を見ようとしたのである。不動明王には「明治十四年辛巳年 登山六十三度 多摩郡柚木大澤住 竹内富造建立」とある。東京都青梅市に柚木という字がある。
 丹沢には石仏が多い。山麓に日向薬師や八菅山など修験道の道場があって、丹沢を修行の場にしていた歴史がある。なかでも塔ノ岳の尊仏岩という岩峰は重要な行場の一つで、岩そのものが信仰の対象になっていた。植物学者で登山家の武田久吉は大正2年12月の『山岳』で「尊仏の石は山かげの妙なところへただひとつ生えぬけたように立っている。高さは一丈もあろうか、頂に小さな地蔵仏を安置してある」と書きとめている。この岩峰は大正⒓年の関東大地震で谷へ崩れ落ちてしまった。

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石仏780海老敷・金毘羅山(千葉)狛犬

2018年02月12日 | 登山

海老敷・金比羅山(こんぴらやま) 狛犬(こまいぬ)

【データ】 海老敷・金毘羅山 208メートル▼最寄駅 JR内房線・館山駅▼登山口 千葉県南房総市海老敷、地図の黒丸印▼石仏 金比羅山山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 金毘羅山へは海老敷集落奥のため池から尾根に取り付くのと、集落の西から車道経由の2ルートがあり、どちらも入口に案内がある。出かけた日は池の土手が工事中だったので、車道から登った。広い山頂の一角に祀られた金毘羅社の神域は、5段1メートル高さに積まれた石垣に囲まれている。

 新旧二基の金毘羅社を護る狛犬は、高さ45センチほどの小さなもので「萬延二年(1861)」、「那古村石工由兵」の作。この日に登った山名金毘羅山、高石山で見た狛犬も同じような大きさだった。いずれも神社に向って右が口を開いた阿形、左が口を閉じた吽形となり、これは仁王と同じ配置である。大人しく蹲踞し、太く大きな眉や顎ひげの処理が単純で愛嬌があるのも、この地方の狛犬の特徴かもしれない。房総の山ではよく狛犬を見かけるが、総じて派手な装いはなく大人しい。地元の砂岩系の石を使っているため、風化も激しい。

【独り言】 獅子像の東漸 昨年夏の石仏公開講座(日本石仏協会主催、大正大学)で、明治大学・川野明正先生の「アジア獅子像の展開-中国の石獅を中心に-」という講演を聞きました。メソポタミアの聖獣ライオンが東の日本で狛犬になるという話です。その話のポイントをいくつかあげてみます。
 狛犬のルーツはライオンが生息していたメソポタミアで、聖獣としてライオンが城門に描かれているのが遺跡から出ている。これに翼がついてグリフィンに、人面になってスフィンクスに変化し、インドではシンハとなってヒンズー教の寺院に取り入れられ、仏教の台座(獅子座)にも引き継がれた。シンハを漢訳したものが「獅子」。
 中国では仏教が入る以前から有翼神獣が青銅器などに描かれていた。その代表が麒麟。後に仏教が入って仏像の左右を護る護法獅子も造られ、仏塔・墓所の左右を護る石獅としても発展する。この段階で阿吽の形も登場する。
 この仏塔・墓所を守護する獅子像は朝鮮半島にも伝わり、日本では古墳時代の三角縁神獣鏡に獅子がみられる。そして飛鳥時代の法隆寺壁画、宮中の調度品にも狛犬がみえ、「狛犬」は平安時代初期の舞楽の文献に登場する。日本最古の石造狛犬は東大寺の石獅子で中国南宋石工の作。
 以上、獅子のメソポタミアから日本への流れを、講演録からごくごく簡単に紹介しました。

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2018年・八千代新川千本桜開花情報(4月8日)

2018年02月10日 | 

2016年開花情報
2017年開花情報
2018年
4月8日 追伸 八重桜が五分咲きになりました。


4月1日 ソメイヨシノも散り始めで葉がでてきました。今年の開花情報は、昨年より11日早くこれで終了します。


3月28日 陽光桜は散り始め=下写真上=、ソメイヨシノは満開=下写真下=。両桜ともこの週末までは見れそうです。それにしても早すぎる今年の満開でした。



3月25日 陽光桜は8分咲き=下写真上=、ソメイヨシノは3分咲き=下写真下=。陽光のピンクがきれです。



3月22日 陽光桜は2分咲き=下写真上=、ソメイヨシノも開花=下写真下=しました。今年のソメイヨシノ開花は早いです。



3月19日 陽光桜が咲きだしました=写真=。ソメイヨシノはつぼみが大きくふくらんできました。



3月14日 陽光桜のつぼみがふくらんできました。
河津桜の満開はすぎ、葉が目立ってきました。河津桜情報はこれで終了です。


3月10日 河津桜8分咲き。ただ花びらの3割は、このところの強風で飛んでしまいました。



3月7日 河津桜は5分咲きです。花が一向に華やかにならないので、よくよく見ましたら、咲いた先から花びらが飛ばされていました。川土手の河津桜にとって、春一番は強すぎました。週末には満開、来週には葉桜になりそうな感じです。




3月4日 河津桜は2分咲き。桜祭り、ライトアップが終わりました。



3月1日 嵐のような今朝の雨とその後の南風で気温がグングンあがって、咲き渋っていた八千代新川の河津桜もやっとその気になったようです。明日には一気に咲きだし、3日からの桜祭りにはどうにか間に合いそうです。


2月25日 昨日暖かかったので咲き始めたかな、と思いましたが……5日前と同じでした。この一週間、まったく動きがない八千代新川の河津桜です。昨年の今頃は5分咲でしたから、今年はだいぶ遅いです。3、4日は桜祭りでライトアップ。早く咲いてください。


2月20日 相変わらず寒い日が続いて、遠目には5日前とかわりませんが、近づいて見るとつぼみは確実にふくらんで、今にもはじけそうです。


2月15日 やっとピンク色がついてきた河津桜です。昨年より若干遅れています。

2月10日 八千代新川の河津桜のつぼみがだいぶ膨らんできました。

 

 

 

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石仏779山名・金毘羅山(千葉)亀、面

2018年02月09日 | 登山

山名・金比羅山(こんぴらやま) 亀(かめ)、面(めん)

【データ】 山名・金比羅山 260メートル(地図に山名無し。西根集落の西、地図の赤丸印のピーク)▼最寄駅 JR内房線・館山駅▼登山口 千葉県南房総市宮市の西根集落西の鞍部、地図の黒丸印▼石仏 金比羅山の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 神社の手水鉢に亀が泳いでいてもおかしくないが、亀を一緒に彫り出した手水鉢があればおかしい、というより素晴らしい。そんな手水鉢が山名の金毘羅山にあった。それも親子亀である。
 その金毘羅山へは、国土地理の地図の西根から増間に抜ける道の鞍部から取り付く。はじめ踏み跡があるが、途中から藪となる。しばらく登って藪のなかに金毘羅神社社殿の屋根が見つかれば山頂。小さな境内に石鳥居、手水鉢、狛犬が置かれている。
 手水鉢の水穴は横75、縦50センチの小さな台形、親亀は20、子亀は12センチ。手水の真ん中まで進んだ親亀が、入り始めた子亀を心配そうに振り返えっている。だれが造ったかはわからないが、洒落たことをする石工である。
 石碑が長く立ち続けるよう願って、千年も生きるとされる亀がその土台となるを亀趺(きふ)といって、寺社の石造物に見ることもある。同じような意味を込めて、手水鉢と亀の縁起譚があるのかも知れない。前に案内した福島の文殊山の手水鉢に見た得体の知れない動物も、いま思うに亀だったような気がする。手水鉢の亀には、亀趺よりもっと深い意味があるのかも知れない。手水鉢と亀の関係、ご存知の方がありましたら教えてほしい。


【独り言】 面(めん・おもて) 面といえば人の顔をした仮面、とくに能面などを思い浮かべます。能面は木で作られます。金毘羅山にも木の面がありました。だいぶ前ですが、石で造られた面を見たこともありました。

 金毘羅の社殿はトタン屋根です。小屋掛けしただけの簡素な造りですが、まわりに瓦が散乱しているので、かつては立派な社殿だったようです。そのなかに納められた大きな自然石を利用した石穴に、二つの朽ちた木の面が祀られていました。石穴の奥に置かれた石には「金毘羅大神 秋葉大神」の銘がありますので、この木面は金毘羅と秋葉の神と想像できます。
 かつて同じ房総の嶺岡浅間(鴨川市)で、祠に納められた不思議な石の面=写真上=を見たことがありました。しかしそれがどのような御神体なのかわからず、取りあえず鬼面としたことがありました。その後の経緯から、これを大山阿夫利神社の三尊の面と変更しました。しかし、いまだに納得ゆく説明はできないでいます。神社に面を奉納することはよくあることで、この金毘羅山の面を見て、山中の小さな神社や石祠でも面を奉納することがあるということがわかりました。そして奉納する面のほとんどは木面ですが、なかには石面もあるということで、だいぶ前に、かつて東京・谷中で石屋をしていたという人が彫った石面を見たことを思い出しました=写真下=。

 

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石仏778立石山(千葉)出羽三山供養塔

2018年02月05日 | 登山

立石山(たていしやま) 出羽三山供養塔(でわさんざんくようとう)

【データ】 立石山 280メートル(地図に山名無し。西根集落の北西280.5三角点の山)▼最寄駅 JR内房線・館山駅▼登山口 千葉県南房総市宮市の西根集落西の鞍部、地図の黒丸印▼石仏 西根集落西の鞍部、地図の赤丸印。青丸は石祠▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 国土地理の地図には、立石山の南の鞍部を通る道が記されている。東の西根から西の増間に抜ける道である。いまその道は不明だが、この鞍部に3基の石造物、出羽三山供養塔・廻国塔・馬頭観音の文字塔が並んでいる。石塔はいずれも東の西根を向いて立つ。廻国塔には「奉納大乗妙典日本廻国 天下泰平日月清明 天明二寅(1782)」。出羽三山供養塔は上部には胎蔵界大日如来の種字・アーンク、その下中央に「湯殿山、(向って右に)月山、(左に)羽黒山」銘があるものの造立年は不明。「馬頭観音」は「明治四未」の造立。
 これまで房総の山中から大日如来と馬頭観音の並立されている山をいくつも案内してきたが、この鞍部には出羽三山や廻国塔もあることから、ここは山ではなく集落の外れだったと思われる。その道は確認できないものの、地図を見ると藪を100メートルも突っ切れば西根の里に出るはずである。
 出羽三山供養塔の山名表記だが、江戸時代は中央に湯殿山、向って右に月山左に羽黒山となり、三山の奥ノ院である湯殿山が中心だった。これが明治以降は中央に月山、左右に湯殿山、羽黒山となる。こうなった経緯はわからないが、後藤赳司氏の『出羽三山の神仏分離』(注1)を読むと、慶応4年の神仏判然令、明治5年の修験宗廃止の布告などの対応で、修験から神道にかわった天台系羽黒山・月山と、仏教にこだわった真言系湯殿山の差が、そうなった要因の一つだったことがわかる。神仏混淆の修験から神道を選んだ後に待ち受けたのが神名と社各。とくに社格は御上から与えられるもので、神社の運命を左右した。つまり明治7年に太政官が下した月山の社格は「国幣中社」、これに対して神道になるのをためらった湯殿山は格下の「国幣小社」だった。神名と社格に非常に敏感だった当時である。これ以後、出羽三山の石塔を立てるとき格上の月山が中央にくるのは、当然であった。
 よって、鞍部にある出羽三山供養塔には銘はないが、明治以前の造立となる。
(注)後藤赳司著『出羽三山の神仏分離』平成11年、岩田書院

【独り言1】 私がいつも持ち歩いて御守りは、出羽三山の各神社でいただいた御札を一緒にしたもので=写真上=、湯殿山を中央に置いています。

【独り言2】 石造物のある鞍部へは、西根の集落から車で入りました。この道は東の下滝田から来る道と合流し、増間方面は通行止めの看板がありましたが鞍部までは入れました。合流した道脇のコンクリート囲いのなか地蔵菩薩が祀られていました。鞍部から増間方面は土砂崩れで通行不能のようです。

 鞍部から立石山へは、尾根を適当に登ることになります。その途中の二か所に石祠がありますが、いずれも東の西根の集落から道がきています。その一つは「慶應元年(1865)」造立の狛犬まである神域で、正月飾りもありました。もう一つの巨石を利用した神域に古い石祠がありました。房総の山村はどこも信仰深く神仏を勧請して石造物を建てたところですが、この立石山東山麓の西根は特に厚いところという印象です。

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屋上菜園 雪

2018年02月04日 | 屋上菜園



 1月16日に積もった雪=写真上=は、ほとんどがその日のうちに解けました。その後プランターの雑草取りをして、半分ほどやってこの2日の朝、また雪が積もりました=写真下=。残り半分の雑草取りは週明けからです。この冬の寒くて雪も多いのは、野菜にとっていいのでしょうか、悪いのでしょうか。雑草がいたって元気ですから、乾燥しているよりいいのでしょう。野菜にもいいはずです。

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『日本の石仏』126号-160号目次・項目別分類索引

2018年02月02日 | 


『日本の石仏』の3冊目の項目別索引をいただきましたので、同書の「序」から引用して紹介いたします。
       *
「日本の石仏創刊-100号項目別分類索引」は2001年(平成13年)に創立25周年、季刊100号を記念して刊行いたしました。はじめての索引作りは25年という歳月の石仏に関わる調査、研究及びその資料は厖大なものでありましたから、項目別の分類は大変な作業になりました。その後の石仏研究の指針として会員さんに提供することができました。
その後2002-2007年(平成14~19年)の6年間は101~125号となり、そのまとめとして2008年12月に2冊目の索引を刊行いたしました。スタイルは最初のものと同じにし、その後の協会の活動資料なども加えてより検索し易いようにいたしました。
そしてこの度、126~160号までが索引編集委員会の熱意あるご協力によって2017年12月(平成29年)完成いたしまして、創刊号から160号までの全容が索引3冊から読みとれることになりました。
是非お手元においてご活用いただきたいと思っております。新しい視点、発見がありますことを願って。 

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八千代新川千本桜18-02

2018年02月01日 | 

 今日の天気予報は夕方から雪です。その前に千本桜の様子を見てきました。でも、報告することは何もありません。それより今年の桜の開花情報をいつアップするかソワソワしています。それと、昨年に続いて今年も河津桜のライトアップを、3月3・4の両日盛大に実施することが決まって、いま資金集めの真っ最中だからです。私が集めるわけではないのですが、そのお知らせをこのブログでもしなくては……などもありまして、ソワソワしていたわけです。ご協力できる人も、できない人も、ぜひ「やちよ伝えてさくら」をご覧ください。

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