偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏328片羽山(岩手)

2011年07月04日 | 登山

片羽山(かたばさん)雄岳 権現様(ごんげんさま)

3281 【データ】片羽山・雄岳 1313メートル▼25000地図 能舟木、陸中大橋▼最寄駅 JR山田線・鵜住居駅(2011年3月11日の津波で休業中)▼登山口 岩手県釜石市橋野町の青木橋▼石仏 双児峰片羽山の北のピーク雄岳山頂

32823283 【案内】遠野市と釜石市の境にある笛吹峠。これを釜石側に下って最初に渡る橋が青木橋で、右袂から入る砂利道が片羽山の山麓を巻くように続く。これは能舟木の集落に通じる道で、ほどなく右手に鳥居が見えてくる。片羽山の登山口だ。ここから片羽山の雄岳までほとんど樹林帯、山頂近くになって展望が開ける。権現様は山頂の手前、ブリキで造られた社のなかに鎮座している。権現様は獅子頭で、岩手の盛岡周辺の山にだけ祀られている。ほとんどが露座だが、なかには祠内に祀られている権現様もある。一体で、あるいは二体や群で祀られていることもある。片羽山の権現様は二体。大きさは横18センチ、高さ16センチ。山にある権現様はどこもこの程度の大きさである。形は異なっており、対のように見える。岩手で権現様といえば、獅子舞であり獅子頭を指す。山にも同じ形の石造権現様が祀られているが、これについての論考はまだみていないので、司東真雄他編著『岩手の獅子頭・権現さま』(北上市教育委員会、昭和50年)から、権現様信仰を紹介する。まず権現様(岩手では「権現さま」と表記するが、このブログでは過去に「権現様」として南昌岳と七時雨山を案内しているので、それに合わせる)について「神が獅子の姿に化けてこの世に現れ、悪魔退散を誓って舞う」とし「神は熊野の神であり、早池峰山は来れば早池峰の神となり、姫神山へ来れば姫神の神となる」というように、どこの山へでも神となって勧請されたようである。その後ろ盾は修験道で「権現さまを安置している神社は、かつては修験道の寺であり、その寺の祭典日には必ず大乗の法印神楽を奉納し、その中で必ず“祈祷権現舞”を舞っていた」とある。庶民に受け入れられたのは祈祷権現舞のなかの、牛頭天王と蘇民将来が登場する“天王舞”。疫病退散の舞である。権現様は悪魔退散、疫病退散の神として信仰され今日に至っている。いま紀年銘のある最古の権現様は久慈市の丹内神社の文明11年(1479)、次は黒森神社の文明17年(1485)。そして2体祀ることについては「江戸時代になると、牛頭天王の化身だから一個体だ、との考え方が忘れられて、牛王宝珠が一つあるから男」とし、破利賽女を妻とする夫婦一対の考え方がうまれた、としている。そうすると片羽山は夫婦の権現様ということになる。

【独り言】片羽山の二合目あたりで、登山道を下ってくる熊さんに出合いました。ヤバイ、熊さん気付いていない。あわてて持っていた2本のストックを打ち鳴らすと、熊さんやっと気付いたようで、立ち止まってくれました。熊さんはすぐ逃げるはずと思いきや、しばらくにらめっこ。もくろみがはずれたこちらは固まってしまったようで、ストックをたたくのをやめていました。これ以上刺激してはいけない。とっさに3284 そう思ったのかも知れません。この間ほんの数秒だったのでしょうが、熊さんがくるりと方向をかえて戻って行くまで、実に長~い時間でした。それほど大きくもなく、かといって小熊でもない熊さん、登山道を歩くのだけは止めてください。この日歩き出してすぐ、熊のフンを見つけてなんとなく嫌な予感はありました。それに春ゼミがうるさくて、ザックに下げた熊除けの鈴がかき消されているのも気になっていました。それからすぐの出来事でした。それにしても熊さんが戻って行った方へ登るのも嫌~なことでしたが、気を取り直して、ストックを打ち鳴らしながら進みました。今年はすでにカモシカや蛇に出合っています。昨日の五葉山でもシカに出合いました。そこではまずカメラを構えたものでした。いつも首から下げて歩いているカメラです。しかし今回ばかりはカメラに触る余裕などまったくありませんでした。それにしてもめったに使わない2本ストック。こんな形で役にたつとは思いませんでした。写真は熊で出合った場所です。熊が写っていなくて残念。

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1 コメント

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Unknown (らんで)
2015-06-12 19:44:03
権現様信仰について興味深く拝見させていただきました。

実は、盛岡から遠く離れた秋田県能代市二ツ井の七座山の権現座の下にも石の権現様があります。江戸時代後期の菅江真澄も記録を残しているので、古くからあるものです。なぜ、盛岡周辺で行われているものが遠く離れた所にもあるのか興味深いものがあると思います。

それでは。

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