偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏581観音山(群馬)仏頭

2015年05月01日 | 登山

観音山(かんのんやま) 仏頭(ぶっとう)

【データ】観音山 540メートル。地図に山名無はなく、三角印が観音山▼最寄駅 JR吾妻線・群馬原町駅▼登山口 群馬県東吾妻町原町の群馬原町駅▼石仏 観音山の中腹の賽の河原。地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより



【案内】群馬原町から岩櫃山の東の登山口がある平沢集落へ向かう途中、川向こうに御堂がみえる。不動滝を見下ろす瀧峩山不動堂=写真上=で、この背後の山の瀧峩山(観音山)に百観音の石仏が祀られている。不動堂にあった案内には、「延享4年(1747)に百所(百基)の観音石像=写真下=が祀られてから観音山になったという。東山と西山があり、東山に西国33番と坂東33番、西山に秩父34番が安置されており、麓に瀧峩山不動尊の堂」とある。その石仏は不動堂の裏から一体あるいは数体ずつ、天然の窟屋や露座で祀られている。画一的は簡単な像容で、坐像は30センチ、立像が45センチほど。いずれも15センチの蓮華座にはめ込まれている。



 ここに案内するのは、不動堂の案内図に「賽の河原」とある場所の石仏の頭部。そこには左膝を立てた坐像があるが、これには頭部がない。胸元は少し開き、右手に数珠を持つ。像容から菩薩形のような印象を受ける。そして、その像の後ろの落ち葉のなかに埋まっていたのが仏頭。尊銘はわからない。この仏頭と頭部のない石仏を同体とすると奪衣婆も考えられるが、同体とは思えない。菩薩の頭部とも考えられるが、仏・菩薩の目は半眼が基本で額にしわはない。明王かもしれない。いずれにしても頭部だけで尊名の判断は難しい。この観音山には百観音以外にも大きな石仏がいくつか残っている。しかしいずれも頭部はなく、頭部が見つかったのはこの一つだけ。この山の石仏になにがあったのだろうか。

【独り言】西国・坂東・秩父の百観音石仏が祀られた観音山ですが、案内にある270年前の延享の造立にしては風化も少なく新しいようにみえました。これ以外にも山中にはいろいろな石仏が見られます。不動堂手前に子安観音、お堂脇には大黒天と不動明王、そして大日の窟に祀られた大日・文殊・虚空蔵などの石仏です。これらのほとんどは無傷のままです。



 一方、これらとは明らかに像容が違う大きな石仏、先に案内した菩薩形、それから金堀穴の前の阿弥陀=写真上=、尾根上の薬師=写真下=、山頂の地蔵、弘法大師があります。ところがこれらの石仏はどれも頭部がありません。頭部がある石仏と無い石仏が混在する状況から、これは明治初めの神仏分離にともなう廃物希釈の影響とは違うのでは、という疑問がわいてきました。そして、頭部がない石仏に共通しているのが個人造立という点で、ここから推測してみました。
 江戸時代末期の政情不安なときに、上州は打ちこわしが頻発した土地柄。観音山の東、中之条町の『中之条町・幕末の打ちこわしと小栗上野介』(昭和60年、中之条町教育委員会)には、慶応4年4月の状況が記されています。打ちこわしの波が石仏にも及んだのではないでしょうか。


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