とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

予言と預言のn次のカオス系、および大数の法則 --数学的観点から見て、予言者は1次カオス系を当てよ(別に難しい話しではありません)

2017-04-22 13:16:29 | 哲学・社会
いきなりタイトルが難しい題になったので、分かりやすいところから書いてみる。

昔から「将来、○○年には○○が起きる! 」という人がいたり、あるいは大抵後だしで、「実は以前○年前にこういうことが起きると予想していたんじゃよ、フォッフォッフォッ」というような預言者が現れるのが人の世の常、古今東西人間の習性であるのだが、ただ、予言者と呼ばれる人達の予言が、(実際に当たったかどうかはともかく)役に立ったという話しはとんと聞かない。
そもそもが、人間の無根拠な直観というものは凡そにして外れる。

現在の科学体系にしてもそうだ。
現在の科学体系は、無根拠な直観の厖大な累積と、その検証が行われるという作業を繰り返した結果、知体系というものが構築された。
知体系化したものが物理や化学、あるいは数学までもがその類なのであって、我々が持っている、絶対的な論理的直観というものは、我々が直観で理解しているように見えて、その実、古代からの人間が構築してきた知体系の精錬された歴史を分かりやすく踏襲しているだけなのだ。人間が持っている本能的要素で基礎数学を獲得しているのではなく、経験と精錬によって得られた過去からの知体系の蓄積を学習によって得ているだけである。

いや、そんなことはない、人間は数学を直感的に理解できるのみならず、それを無から発掘して運用できる能力があるだろう、という反論もあろうが、それを認めることは困難である。
もし上述の論が但しいならば、20万年前にヒトであるホモ・サピエンスが登場した時に基礎数学を理解・運用するすべを持たなければおかしいはずであるが、ゼロの発見は有史発生後、数十世紀を待たなければいけなかった。
土木工事大国であったローマ時代には、我々が初歩の数学基礎として使用しているゼロの概念が無かった。しかし、当時のローマはそれで運用できており、数々の建築物を造成している。
今の我々も、もしかしたらまだ見ぬ基礎的発見・検証と、拡散及び学習を経験していないので、将来的な人々が疑問に思わないくらいの基礎数理が分かっていない可能性だってあるのだ。

無根拠直観の話に戻すと、世界は論理で成り立っているのに、無根拠直観とは本当に無根拠であるので、その時には当たる可能性があるかもしれないが、次回以降での再応用が効かない。
人間社会が将来の不確定要素を予言するという、そうした神秘性を神聖視するから、そういう予言者のような人が現れるのであって、実態としては社会還元価値の少ないプレイヤーなのだ。
いや、中には「あいつの千里眼は本物だ! 」と言う本物がいるかもしれないが、その人達は殆ど社会に影響を与えない。
生活指針などについて、「ああせい、こうせい」というようなのであれば影響はあるかもしれないが、基本的には社会事象における具体的予言は当たりにくいようにできている。それを我々は経験則的に知っている。


さて、しかし、こういう予言の当たりにくさは、改めて考えるとどうして起こるのだろう? (そして予言が役に立たないのはどうしてだろう)と言うことも踏まえて社会学的、論理的にその辺りを整理してみよう。
つまりは予測できない未来を予測する、という予言なる社会的事象を、ある意味数学的に理解する、というのが今回のお題目である。
数学的に理解する、とは言っても数理的な神秘的奇跡を見せるのではない。
マジックの裏の種明かしをして「なーんだそんな理屈だったのか」と理解する形になるかと思う。

ジョン・デューイ著「経験と教育」では、はしがきに、編集者が教育に関し、次のような文章を書いた。
<社会変化に運を任せては当惑している国民を、アメリカ教育の全力をあげて指導していく必要がある>

現実には倒産や解雇、戦争、天変地異における社会変化というマジックにドキドキハラハラさせられる。あまつさえはそれだけではなく、見えない将来、予測できない行き先に、精神的に消耗して、実生活を精神面で困窮・閉塞・損壊させられるのだ。しかしそのようなことがあってはならない。
ここで、不規則に起こる社会変化の裏ってこんな感じだったんですよ、というマジックの種明かしをほんの少しだけして、「なーんだ、そんなことだったのか」と言えれば、完全とは言えなくても、いくらか我々の精神的生活は楽になるかもしれない。ハラハラドキドキはしなくなるが、しかしそれによって精神的な消耗、困窮、閉塞、損壊を避けるという意味合いで書きたい。

それでは始めましょう。



・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

1.

例えばジャンケンでAさんとBさんが対決する時、Aさんはチョキを出すつもりだったが、Bさんが「Aさんはいつもチョキを出すな」と見破り、「Aさん、あなたは次にチョキを出しますね」と言われたらどうだろうか。
Aさんは元々チョキを出す気が100%だったが、そのBさんの言動を受けてグーかパーを出す検討を始める。いや、もしかしたら裏をかいてそれでもチョキを出すかもしれない。
この場合の、グーチョキパーそれぞれ出す将来的確率がBさんから言及を受ける前の100%から、Bさんに言及を受けた後にはそれぞれの選択肢を取る確率が33%になったとしよう。

ここでは100%の意思決定だった将来的行動が、他者の意見の発信と受領よってその確率が33%に減り、将来的変動を起こす。
経験値から来る予測とその応答が、決定していたはずの未来に変動を起こすのだ。
サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ)の紹介でもあったように、同著に倣ってこれをn次のカオス系と呼ぶことにしよう。

なぜカオス系と呼ぶのか、という本題に入る前に上記の三つの選択肢の数字の扱いについて、ちょっと掘り下げておきたい。
今回の選択肢は3つの内の1つが選択される未来の予測だけであったが、時にはこれが、4つに一つ、あるいは10個につき2.5個、あるいはもっと、100人の賛否投票の内、49人は否定したが、51人が賛成したので、全体として賛成の意見になったという体系があるかもしれない。

あるいは政治決定を考えた時、Aグループ151人の中で75人賛成、76人否定、Bグループ1000人の中で900人賛成、100人否定、Cグループ50人は24人賛成、26人否定という時、それぞれA,B,Cグループの代表意見は否定、賛成、否定となって、全体的な統計人数としては賛成多数だが、それでは政治的集合となるとどうなるかというと、結果として否定となるかもしれない。

更に更に・・・とはここでやめておきたいが、雑多な極小集合群が集積した時に、全体としてある種の拮抗点を向かえ、ある一定の大まかな解を出すことがある。
このカオス(混沌・無秩序)は集合したときに「だいたいこうじゃないかな~」という一定の解を持ち、法則や傾向を持つ。それがカオス系である。
上記の複雑な政治決定では、人の判断の行方は分からないにしても、おおまかな答え(否決有利、賛成不利)、あるいはその基礎事項となる賛否のどちらかになるという二択の選択肢や、あるいは投票に可能な人数というのは分かるかもしれない。そのおおまかな答えを知るのがカオス系の答えでもある。


冒頭でのじゃんけんに話を戻そう。
それが冒頭でのじゃんけんの例のように将来的変化が予測発表によって影響されてしまうのがn次のカオス系だ。
この世の中で言えば、株式や戦争などがそれに当たる。
人の意見が「将来こうなるでしょ!?」とか「こう動くんでしょ!? 」という集団内の意見の発信とそれに伴う受領が、集団内のプレイヤーそのものの行動を変えてしまうのだ。

n次のカオス系と言ったが、それでは1次のカオスというのもあるのだろうか。
ある。天気予報などである。

天気予報などは、微細な集合の厖大な集積によって、その傾向と予測が立てられ、カオスの集合たりと言えども、それには法則性がある。
よって予報を出すことも可能になる。
他にも保険料率の計算がある。人がいつどこで死ぬかというのは基本的にランダムであり、交通事故となれば尚更未来は予測しにくい。
但しこれが厖大に集積し、統計のデータとして使用できるようになると、大数の法則により、事故補償ができ、保険会社としても利益の出る料率が算出できることになる。
日本で言えば、いつだれが、どこで交通事故で死ぬかは分からない。ただ、全国的に、日本の交通事故死亡人数は年間4000人前後で推移するので、保険金の集積から、そこに割り当てられる費用が捻出できればいい。雑多なランダム情報が集積すると、個々の事例では将来的な結果が分からないが、厖大な数に至るまで集積すると、ある一定の解や、傾向を見ることができる。これを数学的に大数の法則と言う。コイントスが裏表どちらになるのか分からないが、数十万回も続けていくと、やがて裏表の確率は1/2に収束すると言うあれである。

カジノにおけるトランプ・ゲームの一つ、「ブラックジャック」でも、新品の6つのカードデッキを未開風のシールをディーラーが破って取り出す。
そのカードの山を入念にシャッフルして山に置く。これをして、山札のカードがいかにランダムに配列していたとしても、場に出されたカードを集計・統計していくと、ゲームの終盤に出るカードが「だいたい」推測できる。
この手法はカウンティングと呼ばれ、マサチューセッツ工科大学(MIT)に通うアジア系の学生がこの手法を用い、ラスベガスで荒稼ぎした。これ以降、このカウンティング手法は禁止となり、カジノ側は翌年以降にMIT学生の新入生の顔写真を手に入れるようになった(またこの数学的奇談は「ラスベガスをぶっ潰せ」という映画にもなった)。
ランダムは、個別事象では予測できないが、厖大な集積になるとその傾向と拮抗点が見えるようになる。

このn次のカオス系と1次のカオス系の違いは何かというと、表面的な意味合いとしては「人間の意志が介在するか」ということになる。
もうちょっと抽象的に言えば、「カオス系内部から発信され、受領される予測結果が、将来に到来するカオス系自身の形態に影響を与えてしまう」ということになる。

この意味において、人間社会の将来像は予測しにくい。端的に言えば、予測をしても、予測が結果を変えてしまうからだ。
人間の集団とは基本、相手の意のままになってたまるかという天邪鬼の形態なのである。


さて、予測困難な未来事象には二種類あると分かった。
一つが1次系カオス(天気予報など)、もう一つが人の意志が途中で介在して予想が結果を変えてしまうn次系のカオス(株価予想や戦争など)。

1次系カオスが天気予報や統計の大数による保険料率算定など、ある程度の解決ができていることから、今後もこの方面での研究と社会的応用、その大衆的享受、発展は続く。
だが今でもそれが困難なところがある。地震である。
地震も研究が盛んではあるが、予測不可能な事象ではあって、1次カオス系であるにしても、毎年規則的に訪れる台風や、あるいは人間の死亡事故の統計的集積のように、データが圧倒的に不足しているので、予測できない。
だが、人の意が将来的結果を変えてしまうn次カオスよりも、変動がない部分になるので、予言者と呼ばれる人は、もし仮に予言できるならば、「いつ、どこで、どれくらいの規模で」地震が起きるというのは、変動しようの無い将来的な確定事項なのだから、ここをピンポイントで当てるべきなのだ。
自身が目立ちたいという欲求の前に、予言は人の社会に貢献すべきなのである。

今から見ると2011年3月11日の東日本大震災は確定した事象ではあるが、しかし2011年3月11日14:45分の直前までは、誰も予想できない未確定事象であった。
ともすると、2100年の人間から見れば、今後起こる大地震については、地震発生時間、場所、震源地、被害情報などの詳細や具体的事例が、確定事象として存在する。
よって、人間の意志によって変動する戦争や株価の将来予測は予言によっての予測がしにくいが、地震は変更のしようが無いので、これをまず予言すべきである。

また、無根拠直観による予言ではなく、これは知体系の確立によっても予測しうるはずだ。
大昔は天気予報が無かったが、現在ではそれができる。観測と計算の賜物である。地震も多くのデータがあれば予測できるので、今後は現実的な予測手段として、科学者の登場を待つことにになる。

2.

戦争は予測できない、としたが、ある程度までなら予測できる。
国家や人の成り立ち、政治の性質や、歴史、地政学的変動、天候不順による農作物の豊作・不作、それに伴う国内政治の不安定性などだ。
ネットに登場した、未来から来たというジョン・タイターなる人物は、ISISの台頭を知らなかったが、米民間情報機関のストラト・フォー代表ジョージフリードマンは、中東の地政学的不安定を予測した(そして当たった)。

我々が未来が予測できないというのは、単に事例と傾向を知らないからではないか、というのが私の今のところの作業仮説である。

今現況、東芝の社員の人達は「これからどうなる」と閉塞感を味わっていると思うのだが、これも厖大な集積からの傾向を見ると、産業の衰亡が30年スパンで入れ替わることを見ると、転職を余儀なくされたり、絶頂であった業界の衰亡を味わうことも当然なのだ。

東芝に入った人達は、入った当初は「これで一生安泰だね」と言う感じではあったと思う。
ただ、その時に自覚すべきだったのは、「東芝と言えども、世界の産業トレンドは変遷し続けるからどうなるか分からない」という気構えであったのだろう。

現在、産業として上手く方針転換すれば、その後の時代も生き残れるケースは存在する。
麻生鉱山が需要減を見越して麻生セメントにしたのもその一つ、船舶業界が、通常船舶の造船をやめ、LPG特殊運搬船に重心を移したのも当たり、ITではmixiが、SNSサイトからゲーム業界に鞍替えしたのも良い手であった。
現在GMOが色々と買収しているのは、その多角的経営を行うがためである。


産業ごとにその企業の平均寿命が異なるが、今は強いとされているインフラも将来どうなるかは分からない。
過去、公務員であった郵便局員は郵政民営化により、一企業の社員となった。
JRも以前は国鉄時代は公務員、NTTも旧電電公社時代は公務員、JTも日本専売公社時代は公務員、ゴミ回収も以前は公務員であった。

つまり今の水道局や、純然たる事務をしている地方公務員もどうなるかは分からない。
ただ、警察の路上駐車取り締まりが民間に委託されたように、雇用はそのままで事業委託形式になるという見方もできる。
実際、現在ではコンビニで住民票が受け取れるようになったりしているので、コンビニへの事業仮託は進むだろう。

我々が将来に不安を感じるのは、将来に対する変動の情報が入ってこず、尚且つ、将来の変動に対する身構えと「どうすればいいのか」という方策を封じられているからであろう。
不足しているのは、現行の状況に対する、社会変動の歴史的な流れの情報である。
これが無いから方策も立てようがないし、皆が不安になるのだ。

それを大数的に処理し、「おおまかにこういう風に社会は進むだろう」「自分の身の上は数十年スパンでは安泰では無いからこうすべきだろう」という気構えをしておけばいい、ということになる。


以上である。

3.
extra)
尚、余談ではあるが、よくあるSFのように、未来から来た人が過去改編を起こすことによって未来が変更される、というストーリーが描かれるが、もしこれが本当に起こるのであれば、1次の変更のみだけではなく、変動された未来が更に過去改編をし、更にその過去改編を起こされた後の未来が過去改編をし・・・という具合に、それはn次のカオス系となって収束するまで幾多の変更が際限なく続くはずである。


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