とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

20世紀初頭(1918年頃)、イギリス軍がまーた占領地地元民を餓死させる(イラン)

2017-06-17 22:09:04 | 海外・国内政治情報等
チョムスキーも同意見のようです。


アメリカとイギリスのイランへの干渉の結果 - Pars Today
http://parstoday.com/ja/radio/iran-i16627

1917年10月のロシア革命により、ロシアの軍隊はイランから撤退しました。イギリスは、ロシアが撤退したあと、自分たちの軍隊を駐留するため、ドイツやオスマン帝国の危険を誇張して伝え始めました。こうしてイギリスは、1917年からイランを占領しました。当時のイランの中央政府は、政治的な利益とは別に、数々の経済危機にも直面していました。外国の干渉、様々な政党の衝突、政治家たちの無能さや腐敗、驚くべき形で広がっていた国民の貧困、それらが国内の混乱をさらに複雑なものにしていました。

第一次大戦中、イランは飢饉に見舞われ、多くの子供や女性、高齢者が死に追いやられていました。この食糧不足の原因は、イギリス占領軍の常軌を逸した行動にありました。彼らはすべての資源や農作物を戦場の兵士たちのために買い占めていました。さらに驚くべきことに、イギリス軍は、イラクやインド、アメリカからの食糧の輸入を妨げていたのです。イギリス軍はまた、衛生面での原則を守っていなかったため、インフルエンザやコレラがイランで蔓延しました。飢饉が広がり、国民がそうした病気への抵抗力を持ち合わせていなかったため、多くの感染者が命を落としていきました。

1918年から19年にかけて、イラン西部でイギリス政府の代表を務めた、イギリス軍情報将校は、イラン西部の飢饉について次のように記しています。

「飢饉の間、すべての状況が変わり、国民は人間とは似ても似つかなかった。目はくぼみ、手足は力を失い、雑草や木の根を食べていた。彼らは生き物でもなんでも手に入るものを食べ物にしていた」

イランに駐在していたアメリカの大使は、1917年10月4日、「イランにおける貧困と苦痛」と題する報告の中で、拡大する飢饉について次のように記しています。

「食糧不足、特に小麦やナンの不足が、イラン全国、特に北部や国境地域とテヘランで深刻であり、冬が始まる前に大規模な貧困が広がっている。明らかに今年の冬は、死と飢餓が何倍にも拡大するだろう。今でさえ、食料の値段はこの数年で最も高騰しており、穀物や果物の不足は、実際、警告を発するレベルにある」

1918年2月14日、アメリカの大学の学長は、報告の中で次のように記しました。「テヘランだけで4万人の貧困者が存在し、人々は動物の死肉を口にし、女性たちは乳児を道の途中で置き去りにする」

1918年の春、飢饉が拡大しました。助けを得られなかった人々は、特にテヘラン、マシュハド、ハメダーンで、飢餓や病気によって死亡しました。イギリス軍の情報将校は、回想録の中で、「イギリスはハメダーンの人々の食糧の確保を怠った」と語っています。彼によれば、この頃、飢餓による死者の数が増え、貧しい人々の唯一の主食となっていたパンの値段が異常に高騰していたということです。

1914年から1919年のイランの人口を比較すると、この間におよそ1000万人が飢餓や病気によって命を落としたことが分かります。第一次世界大戦前、イランの人口は1000万人だったとする主張に反し、実際の人口は、少なくとも2000万人近くでしたが、1919年には1100万人まで減少しました。一部の歴史家は、イギリスは、イランを支配するために飢饉と殺害を利用していたとしています。

1917年から19年にイランを襲った飢饉は、歴史上最悪のもので、明らかに、イランが経験した最大の災害でした。この中で明らかだったのは、第一次世界大戦で、中立を宣言していたイランが犠牲になったという事実です。敵対していた国はいずれも、これほど多くの犠牲を出すことはありませんでした。この飢饉は、イラン社会の崩壊、イランへのイギリスの植民地支配の確立、イギリスに依存した統治政権の樹立、民主政府に対するクーデターにつながりました。

イギリスとアメリカは、自分たちの政治的な目的のために、イランに対して人道に反する行動を繰り返しました。アメリカのニクソン元大統領は、「1999年戦争なき勝利」という著書の中で、1953年のイランのクーデターにアメリカが直接干渉したことを認め、次のように記しています。「アイゼンハワーの機密作戦が、25年間、アメリカの利益だけでなく、イラン国民の利益、我々の中東における同盟国や友好国の利益のために奉仕する政権をイランにもたらした」

イランにおけるアメリカの利益を守るため、パフラヴィー政権時代にサヴァークという諜報機関が創設されたこと、当時のニクソン大統領のイラン訪問に抗議する学生たちが、テヘラン大学で殺害されたこと、1978年11月の出来事の中で多数の生徒たちが銃撃を受けて死亡したこと、これらは人権擁護を主張する国々の人道に反する黒い経歴の一部となっています。

制裁、経済封鎖、アメリカにあるイランの資産の凍結、イランとの金融取引や貿易の禁止、イラン・イラク戦争開始の扇動と、イランに対して使用するための生物・化学兵器のイラクへの供与、ペルシャ湾上空でのイラン旅客機の撃墜、これらも、1979年のイスラム革命勝利前後のイラン国民の権利の蹂躙と人道に反する行動の例となっています。

このほか、アメリカが行った人道に反する措置として、アメリカの拡張主義政策に反対する国々に対して制裁という手段を不当に利用することがあります。アメリカは、これらの国を懲らしめるため、テロ支援や人権侵害で非難するなどのさまざまなレッテルを貼り付け、経済封鎖や制裁という手段を利用しています。アメリカは、このような手段をイランに対して大規模に利用してきました。彼らは一方的で不当な制裁を行使することにより、国際的な経済機関への影響力や政治的に優位な立場を通して、イラン国民をはじめとする世界の人々に多くの苦痛を与えてきました。


ちなみに前科はこちら。
サピエンス全史 下 ユヴァル・ノア・ハラリ P122

 イギリス人は一七六四年にインドで最も豊かな州、ベンガルを征服した。この新しい支配者たちは自らが豊かになること以外にはほとんど関心がなかった。杜撰な経済政策を採用し、そのせいで数年後にはベンガル大飢饉が勃発した。飢饉は一七六九年に始まり、七〇年には最悪の状態に至り、七三年まで続いた。ベンガル州の人口の三分の一に当たる、およそ一〇〇〇万のベンガル人がこの悲惨な出来事で亡くなった。

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