とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

運を社会学理論から応用する (捕捉)

2017-05-05 23:23:05 | 哲学・社会
前回記事では、運とは、「広い世界でランダムに発生する事象に人間の個体が相対した場合、人間が主観的に観測してしまう直観である。」「その直観は今後とも我々の周囲に発生する将来の年表的に決められたスケジュールなのだと思い込んでしまうクセ」だとした。

要は幸運でも不運でも、神様が事前に決めている、個人に付与されたスケジュールなのではなく、統計上のランダム数値に遭遇した個人の感想にすぎない、ということになる。

そしてそれには、実態として傾向と対策があるが、人はそれに取り組みにくい、という旨の記事を記載した。

というのも、宝くじを例に言えば、宝くじに当たるか当たらないかという個人主観でのみ常に考え、全体としての傾向と対策がないからである。
この全体を考えるのは何か、というと、そう、宝くじの管理委員会だったり、あるいは競艇、競輪、競馬の胴元である。

それはカジノのハウスエッジ(施設側の手数料、寺銭)を決める側である。
それでは個人が儲かるか否か、と言うと、個人はひょっとして一万分の一の確率で大勝を拾うかもしれないが、基本的にプレイヤー全体として負けるようにできている(そうでないと胴元は存続できない)。

それを考えるとどうか。ギャンブルは基本、店やディーラー、カジノが勝つように出来ており、宝くじや各種競艇、競馬、競輪の胴元が勝つようにできているので、「やらない」という選択肢が一番損失が少ない。これがプレイヤー側の傾向と対策である。
わざわざ油田を求めてサハラ砂漠に行くようなものだ。

それでもプレイヤー側がそういったかけに興じたり、あるいは、美人と巡りあった幸運に喜んだり、あるいは事故にあった不運を嘆くのは、対象の様相が不確定事象であり、ランダムであるので、損得を判断する際の数値的判断として、数理的に人間個人が把握しにくいように出来ており、興奮が数理的判断を上回るためではないか、その為、全体判断を誤るのではないか、というのが私の作業仮説である。

繰り返す。
これの数理的判断が困難な理由は、対象となる様相が、不確定事象、ランダムで人間の思考体系に組み込みにくく、興奮が判断を上回るためであるが、理解できないからこそ、体系化して理知に組み込むことができないからこそ、運の良し悪しを結論に、その結果に自分を理解させ、諦めさせる要因となる。

しかし、「運が良かった」「運が悪かった」というのは、統計上の数値を元に、傾向と対策を生み出すことができ、それの対策が打てたならば、成功率が恣意的、任意的に上げることができないか、ということにもなる。

要は、哲理的知体系の事前構築によって、戦争を防いだり、株式で利益をあげたり、あるいは適切な瞬間に損切りをしたり、あるいは、自分が惚れた異性に適切に対処することだって可能になるかもしれない(そもそも男の大半は、間違ったアプローチしかしらないので、運不運で片付けようとするが、適切なアプローチをすれば不確定事象の成功率はそこそこ上がる。日本酒の醸造時に、間違った仕込みをしてうまくいかなかったと嘆いても、それは運の多寡もあろうが、採用しているプロセスに誤りがあるのだ)。

こうした我々が運・不運と嘆いている事象について、それは目に見えないランダムに発生して対処できないものではなく、ある種の傾向と対策が打てるものだと言う観点から、分析と仮説、検証を繰り返し、そして対処していくべきものなのであるということを言いたい。

油田を求めてサハラに行くのではなく、「出るであろう場所」という知見を集積・体系化し、そこに出向くべきであろう。


以上である。
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