とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

東北への贖罪

2017-06-10 19:46:35 | 国内社会批判
東日本大震災によって、東北は疲弊し、傷ついた。
元より疲弊しがちだった地方は原発が破壊されることによって、地域的な安全認識を剥奪され、そこから観光や農産物への経済的打撃を与えるようになる。

実の所、我々がスーパーで買う野菜などは生産地の記載があるので、それを見て買うようになるが、これが「福島産」と記載があれば、6年経った今でも特別な感情を思い起こさざるを得ない。
理解ある知識人はそれを「福島の為」と思って買うだろう。一般的な消費者は、値段の安さと産地への安全不信により、その購入に毎度悩むことになる。

これを記載しておかなければならないが、福島産の野菜と言われれば、2011年の2月以前において、いや、2011年3月11日の震災から原発が爆発するまでのその瞬間まで、日本人の意識的に、福島産の野菜というものは、特に他の一地方の農産物と比較して特段特筆すべきものがない、普通の野菜であったのである。

それが件の事故によってそれらの売り上げがぐんと下がり、そしてその価格は低価格で売らざるを得なくなり、福島の酪農から出る牛乳は売れなくなり、自殺する農家まで出てきた。

そこへ来て、東電が福島の避難民へ賠償を行い、そしてその賠償によって非難している福島県民は働かなくなったと言う。
地域経済や社会活動は低下し、人間としての活動を簒奪せしめたのが一連の事故から、人為的与奪の経緯である。

そんな東北への贖罪意識を日本人は持っているか、と言うと、この質問の答えはイエスでノーだ。

イエスである理由は、TOKIOの福島産野菜をもっと食べるというようなキャンペーンを政府CMで流したところ、普通はそういう一地域にテコ入れした政府広報などは、税金を無駄に使うなという批判が起きるが、この時ばかりは起きなかった。
外国人はこの時の日本人の意識や認識、行動を不思議に思っていたようだ。
「なぜ被災地での安全かどうか分からない野菜を皆で食べるキャンペーンを張るんだ? 」と。
いや、「不思議に思う」と言うのはいささか優しすぎる表現だ。直截的に言ってしまえば、「日本人気質では、こうした事態に対して、正常な判断ができず、判断能力が低い」と言った方が正しい。
ただこういう行動と許容認識はどこから来るかと言うと、東北への贖罪意識が強い形で働いていたからだろう、と。
もし彼らの地方のように我々が切り捨てられていたらというと、それは見捨てることなど心情的にはできないので、手を取り合って助け合っていこうという意識が働いたためではないか。
諸外国人にとっては、国内同士での連帯意識が比較的希薄であるのに対し、日本国内ではそうでなかった、と言う意識の差がこういう結果を生み出している。

一方、ノーである答えも存在する。
今なお、福島を中心とした原発被害地域における地域活性化は、「原発被害」と言う特殊事情による要因のために、地方の経済活性化が図れていない。
地方に賠償金を払って、ハイ終わりという態度の東電も別途言及する必要があるだろうが、全般的に言わなければならないのは、時間の経過に伴う、日本人の東北への贖罪意識の低さである。

仮に都会に出てきた人でも地方にいる人でも、自分の生まれ育った地域が、福島のように扱われたらどう思うだろうか? 
地元で頑張る友人や家族は、そうした東京一極支配とそのリスクにおける特殊事情のマイナス面を、一方的に押し付けられていないだろうか? 
いや、それは無い、東京に住んでようが、福島に住んでようが、同じ人間で同じ日本人なのだ。同じ権利人で、同じ自然人なのである。社会的権利教授に差があるべきではない。

しかし今の日本人は東北を徐々に忘れ、福島を忘れ、それと共に贖罪意識が希薄化し、自分の生活を優先するようになり、東京が良ければ全て良しというようなことになりつつある。しかしそれではいけないのは明白だ。


#追記:

ただ、再度キャンペーンにしたり、あるいは政策にしたりするのは若干困難なように思われる。
と言うのも、東北を支援し続けるというのは、民衆感情として、心理的負担が伴うからだ。
現行のあるべき倫理と、政策と、民衆感情を一致させなければいけない。
そこには原発に関する啓蒙と、しつこくない程度の民衆側のリマインド、再度のモラル喚起が必要である。
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