とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

差別とは何か

2015-06-07 22:24:49 | 哲学・社会
いつもの通り、いきなりのお題と、裏取りなしの私の当て推量メモであるが、差別とは一体何なのか。これを考えていってみよう。


1.序文


さべつ【差別】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/89144/m0u/

[名](スル)

1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の―を明らかにする」

2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって―しない」「人種―」

3 ⇒しゃべつ(差別)



差別 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%88%A5

差別(さべつ)とは元来、差をつけて区別することであるが、社会学においては特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為を意味する。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。[1]

正当な理由によらず偏見や先入観に基づいて、あるいは無関係な理由によって特定の人物や集団に対して不利益・不平等な扱いをすることを指す。


この問題は複雑なので、本題に入る前に警告しなければならない。
学校を出て、いい会社に入り、美味い飯を食って家庭を築くだけであるならば、上記のことを憶えているだけでいい。
学校は点と単位を与え、会社は給料を与えるだろう。凡俗な人生をたいらげ、そのような安寧の凡庸に満足するだけならば、この先は読む必要はないし、理解する必要もない。
辞書に書いてあることを書き写せば、それでいいのである。
あるいはコピー機で写しをして先生に提出したり、あるいは上記の文章そのものをコピーしてレポートファイルに貼り付け・保存して、それを提出すればいい。むしろ単位を貰ったり、平穏な人生を生きたいならば、機械にでもできそうなこれらのことを全てすべきなのだ。むしろあなたの代わりに機械がいても社会的には差し支えない。現在の人にとって、そう何事もなく考えずに生きていくことこそが、幸せなのである。

逆に「この先」を考えた場合、「この先」には非常なる苦難が待ち構える。
平凡で平穏な人生を歩みたいのであれば、この先は読んではならない。

先生からは説教を喰らって単位は貰えないだろうし、就職もままならない。会社では冷や飯を喰らい、新聞社では記者が記事を提出しようにも、デスクに握りつぶされる。そのような社会的要因の根幹は考えてはならないし、なあなあで済ませておくのが一番なのだ。

そうした安静な人生を送りたいのであれば、今この文章を読んだ時点で、ブラウザの×ボタンをそっと閉じて頂きたい。

下記は私のメモ程度に書きとめたものなので、検証が必要であることをご承知おき頂きたい。
あるいは現代社会にない考え方なので、ある種「悪魔的」と言われるものかもしれない。

それでは始める。











さて、社会一般における定義は上記の引用だけで十分だろうが、これだけでは真実にはまだ遠い。だからと言ってこの記事で真実に到達するわけではないのだが、なるべく近付いていく努力はしていきたいと思う。
差別とは一体なんなのだろうか? 


2.差別の構造的内訳

差別とは大きく分けて次の要素の複合した化合物である。
「差別」という言葉は、下記に挙げるこれらの要素が渾然一体となり、「差別」という一言だけでこれだけの要素を一瞬にして伝える概念である。
上記で引用した概念も包含するが、理解を進める為に、一旦要素ごとに抽出して並べてみてみよう。

差別とは何か? 

(1)人種、民族、出自、職業、家系、病気などで、人の集団認識が排斥的に動くこと(差別意識の発生)。

(2)社会的に平等に受けられるべきはずである利益が、人種、民族、出自、職業、家系、病気などによって受けられないこと。あるいはその逆で、そうした個人に付随する要素で社会的不利益を蒙ること(差別の実働発生)。

(3)人の集団認識が排斥的に動くことにより、集団外に取り残された人間が疎外感を感じること(被害者の主体的観測)。

(4)人の扱いは皆同じであるべきはずなのに、実際の社会ではそうなっていない、という理念意識と社会現実のギャップに伴う注意喚起(社会の倫理是正勧告)。

よく考えてみよう。

まず上記での(1)と(2)においては、社会側、共同体側からのアクションであり、(3)は差別を受けた個人の立場での意見である。
(4)は現在の世界において通底する一種の警句である。

言い換えれば、(1)と(2)は人間に備わっている習性であり、(3)は心理学上での人間の関係性欲求(人と係わり合いになりたいこと)での人間の本能、(4)は人間の理念の問題である。

更に踏み込んで言うと、「差別」の問題を扱う学問の領域は単一ではない。
(1)(2)は心理学、歴史、社会学、人類学、(3)は心理学、(4)は倫理・道徳などの社会倫理学問題と、学際的に多岐に渡る問題であるが、人類はこれに挑戦せねばならない。


知られての通り、人類の歴史では差別というものがいつの時代でも存在していた。人間は人は皆同じものだと理念上では考えていながらも、その社会上のピラミッドを構築しては破壊するという所作を繰り返してきたのである。「ピラミッドを作る」という習性と、「そのピラミッドの社会的重圧が個人尊厳を著しく侵害し、社会集団化するとそれを破壊する」という二つの相反する習性を持つのが人間なのであり、その集積と破壊の綱引きをサインカーブのように繰り返してきたのが人間の歴史なのである。

同じ人間であるのに、そのような差別はあってはならない、という理念が働いた結果、こんにちの差別撤廃思想に繋がっている。




3.差別の根幹定理

さて、今日は「差別」の表面的意味から、更に奥底、社会の根幹定理にまで潜っていこう。

(1)ストローク

ストローク:心理学用語集
http://www.1-ski.net/archives/000317.html

ストロークとは、交流分析の用語であり、「人の存在を認める行為」
を意味するもの。バーン,E.によると、人間は常に他者からの
ストロークを求めている。ストロークには、身体的に接触する
タッチ・ストロークと、表情・仕草・言語による心理的ストロークが
あり、またそれぞれ肯定的/否定的ストロークに分かれる。個人の
ストロークの受け方と与え方には独特の癖があり、それは幼児期
にどのようなストロークを受けたかに影響されている。そして、現在の
対人交流パターンを作り上げていくのである。


人間は社会的動物である。常に他者との交流を必要とする。それが良い交流であれ、悪い交流であれ、人間的関係を求めてしまうのが人間なのである。
良い交流・人間関係は正のストローク、悪い交流・人間関係は負のストロークと呼ばれる。
(小学生が好きな異性をいじめるとか言うアレは負のストロークである。)


社会共同体から排他的扱いを受けた時、対象者はストロークの受領を失ったり、あるいは負のストロークを受領し、失望が疎外感へと繋がる。これが現代社会で問題となっているのだ。

これが人種、肌の色などを理由にそうされた場合は、差別と言って良い。
ここで注意せねばならないのが、その扱いの是正の実態についてだ。


4.現実との齟齬

それでは差別を撤廃すべきか否かという点では絶対的に撤廃すべきだが、「俺に1億円くれ、そうでないと差別だ! 」という主張は間違っている。これが通るなら私もほしいくらいだが、これはなぜ間違っているのだろうか? 

まず、皆が持ち寄りで資金を集めたのを新たに加わった人間達がそのうま味を吸うというのが間違いなのである。
飽くまで原則は「皆がサービスを出し合った社会で公平に暮らす」なのであって、「自分だけ得をする」ではない。
マイナスになっているのはゼロへ是正せねばならないが、持ち寄り分より上は貰えないのが常道である。

共同体が所属人に等しく与えているサービスや契約というものは、限度がある。
例えばそれまで日本国外に住んでいた64歳になる外国人が、日本国籍を取得して、65歳より年金を貰おうと申請しようとしたとしよう。この申請が通るかどうかは別として、もし通らなかった場合に「これは差別で不当だ! 」と訴えることも可能だろう。だが、それまでその年金の原資を今までこつこつと払い続けて貯めていた多くの日本人は一体どうなるのだろう? 主張する側は制度を利用しているだけ、と言うかもしれないが、年金に入れさせる方は全くの払い損である。これは逆差別ではないだろうか? 
元々こうした社会運用は高所得者税などのノブレス・オブリージュによる社会認識で運用していた訳で、高額納税者の理解により、国家の安定社会運用がなされていたわけだが、年金などは、日本国民のおおよそが払っているわけで日本国民のほぼおおよそに言う権利がある。

あるいは「俺の国ではこうだから、あんたの国も絶対的にこうすべき」という主張も無理がある。「ウチでは土足で家に上がるが、日本でもなぜそうしないのだ、私にそうさせないのは差別だ」と言っているようなもので、家に客を招く際にもルールがあって、迎え入れる人間にも守ってもらう規則がある。

あるいは「ハル・ベリーと結婚する権利が俺にはある! ハル・ベリー、俺と結婚してくれ! 」という主張もありそうだが、相手には勿論選ぶ権利はあるし、自由意志もある。そして容姿を観察する目が彼女についているのに、それは無理な話しだろう。釣り合いが取れていないといけないと思うのだが、こういう人たちは大体、分不相応な要求をしているので妄想に終わる。そもそもハル・ベリーは既婚だ。結婚前に競争するにしたって、相手はモデルとか俳優だというが果たして勝てたのかね(そもそもどうやって出会うんだ? )。

話しが逸れた。
差別による格差を是正する際、それは「共同体との合意は取れているか」「不理解はないか」「逆差別はないか」「共同体に入って然るべきコストを払っているか」というのと、「その共同体のルールは守れるか」「相手にも言う権利が等しくあるが、それを聞いたのか」という点において、点検する必要がある。
差別主張者側は共同体側のルールを守るべきであり、自分の都合を押し付けないことが肝要であるが、しかしそれは現実において守られない。

こうした際にそれらがきちんと守れる人間であればそれはきちんと受け入れるべきだし、逆にそれらができない人間は自らきちんと反省すべきである。また、共同体側はそれを厳しく注意する権利も所有する。

人は人種や肌の色で扱いの差異を変えられるべきではない。その人の行動と、受け入れ側の共同体の合意によって社会を構築していくべきなのだ。


まとめると、
・人間の共同体に入れるか否かという点での認識や実動において、その社会的疎外に差別が発生する。
・共同体側は人種、民族、出自、職業、家系、病気などで差別してはならない。
・新入者側は共同体側のルールを守り、自分の都合を押し付けてはならない。ただ、困ったことがあれば存分に相談すべきである。
・新入者側は共同体側のルールを守る義務を有するが、共同体側は新入者の人権を毀損してはならない。
・新入者側は共同体の破壊や積極的変質を試みてはならない。
・新入者側と共同体側の合意は強制であってはならないが、共同体側には新入者の参加の選定権があり、新入者側には条件に合意できない場合、共同体へ参加する際に契約不合意して、他に当たれる権利を有する。
・新入者側と共同体側は合意前に交渉できる。

と言った感じだろうか。

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