とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

美術・芸術の社会評価体系

2017-03-07 23:47:33 | 哲学・社会
メモ。裏無しでバンバン書く。

美術・芸術の社会評価体系であるが、西洋美術のトレンド変遷、というよりは、それを評価する社会体系から俯瞰的に考えてみたい。

言わば、キリスト教神学が人間内部に理解しうる体系としての哲理的考察を独立で行えるのに対し、宗教学では世界に数ある宗教の内の一つとして分析するという対比のように、今回の記事では「宗教画→写実主義→印象派→フォービズム/キュビズム/シュールレアリズム/抽象画」のプロセス変遷ではなく、社会評価がどのような基準で文化を評価し、その文化が栄えたか、になる。

帝政ロシア
パトロンとその評価基準。
パトロンが気に入ったものが発達。

アメリカ
批評とブロードウェイ、映画産業と経済効率主義、拝金主義
観客が気に入ったものが発達。

日本
評価サイドやスタッフ、出演者、事務所がガチガチに固まって、「この有名人が出るから見てみよう」と流動する実写よりも、「とにかく面白いのが正義」として戦っているアニメとその視聴者
どうも人口からの産業規模が小さいというのと、収入配分がいびつであるようで、十分な資金繰りが出来ない模様。
観客が(以下略)。
但し、ネットでミーム的に発達したボーカロイドのCGなどは、金を出すというよりも、ただだた、製作者や視聴者が面白いという理由だけで発達した。初期はムーブメントを起こしたが、現在ではその潮流は減衰中。

中国
そういうパトロンはいないし、経済効率主義ではあるが、批評ができない
喧々諤々に批評する大人口の視聴者
中国は、インドや、これから映像産業国として勃興するだろうナイジェリア以上に人口がある。
それなのにどうして中国では面白い映像産業がバンバン出て来ないの? という。原因は不明。
昔ジャッキーチェンが頑張っていましたが、それだけ。

インド
もうとにかくやたらめったらダイナミズムのある大人数の出演者。
デートと言ったら映画、と言うくらいに社会的に定着している模様。
世界展開しているハリウッドやディズニー、ピクサーなどと比べ、ボリウッドは飽くまで局所限定的。
インドの一国内でも言語ごとにタミルとテルグとかの系統があるらしく(そもそも言語が違って、互いに興味がないというか、見ても言葉が分からないらしい)、規模が小さくなるらしい。でもそれでいてあの規模になっている。

ナイジェリア
現在、ハリウッド、ボリウッドに次ぐ第三の映像産業国として勃興しそうなのがこの国と言われている(人口規模の動態推移から)。
まだそんなに出てきてはいない模様。



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アメリカというダイナミズム

2017-03-07 22:38:34 | 雑感
別に私はアメリカの大学に通ったわけではないが、私の推論、当て推量をそのまま書く。


ダイナミズムとは - 「ダイナミズム」の意味ならWeblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0

①内に秘めたエネルギー。力強さ。活力。 「民衆運動の-」
②機械や人間の力強い動きを作品に表現しようとする、芸術上の一主義。
③〘哲〙 「 力動説りきどうせつ 」に同じ。


タイトルで使った「ダイナミズム」は、ここでは①と②の混淆で使う。
私なりに定義しなおせば、「雑多な集合がそれぞれ大きく躍動する。反発や衝突、あるいは健全な競合や罪や正義など、おおよそ社会で考えられる人間の行為や概念が全てにおいて、力強く動き、大きなうねりと潮流を生んで、生物史上に見られないような、人間社会の文明の発展と繁栄が、我々のインスピレーションを感銘させ、圧倒する。個の人間の集合自体が生み出したにも関わらず、個の人間がそれに触れえる時の、圧倒の感銘を受ける。人間社会におけるダイナミズムとは、その「圧倒される感銘」の、雑多な集合群の力強い様を様態的に表現する概念」だ。

この意味において、アメリカとは本当に興味深い存在だ。

自身をローマと同じく正義と考えており、その使命を全うする役割を担っていると思っており、他国を侵略してもそれが正義と見なされ、他民族国家であり、政変のダイナミズムが他の国と比較して容易にかつ大きく変化する。
時に犯罪とされるものが遵法とみなされ、あるいは、それを置き去りにするくらいの科学的飛躍をよく成し遂げる。

方法論、組織論、体系論、論理に優れ、高層ビル、飛行機、原子力、原子爆弾などを生み出した。
前向きで、チャレンジによるリスクを恐れず、それでいてかつ継続する。
探究心に前向きで、しかもそれを楽しんでいる。理解し、決してあきらめず、想像し、リスクを取り、探求する。

今でも世界の中心はアメリカだ。どこの国どの大学でも留学できる、となったら、まず間違いなくアメリカの大学に行った方がいい(大半は挫折するらしいが・・・)。これはコンピュータ工学でも金融でも経営でも同じことだ。
これは学べる内容だけではなく、その後に学んだ同期学生が、国際ネットワークの蛇の道として復活するからだ(ハーバードなど)。
何も顔パスをするためや自分の権威としての箔をつけるというような、薄っぺらいコネをつけるためにアメリカにいけ、ということではなく、自身のビジネスや事業か何かをする時に、知体系や運用系を行う際の強力な金鉱脈、地下水脈となりうるからである。


こうしたアメリカでは、時に何が合法で何が違法なのかという境目は、とかく曖昧になるように思われる。

自由主義、資本主義に立脚すると、ハゲタカファンドが、国際金融資本によって、市場を通してどれだけ搾取的な徴収を繰り返そうとも、それは罪に問われない。それは「合法だから」というのがお決まりだろうが、そこに倫理性はない戦場と化しているのである。そして世界はそれを現実、及び真実であるとして手をつけないでいる。

例えば、プログラムの一つであるJavaは、sun microsysytemsが技術公開ベース、無料で展開したために急速に発展を遂げ、業界スタンダードとなったが、後に買収劇を繰り返した後、現在ではoracleの持ち物となっている。
この良心的発展を買収し、コントロールすることを許容するという、一見野卑で、非倫理性だと問われる行為を許容しているのがアメリカという国だ。

現在、暗号研究においては、その研究対象者を絞り込み、合衆国政府と米軍は、その流出リスクを押さえ込もうとしている。ところが、これに反対する団体も、公然としてアメリカ国内にいる。当の研究者たちがそれである。暗号研究の制限は純粋な知的目標への探求を阻害するとして、それに公然と反対しているのである。
そうした言論の綱引きが、公の場でされているというのがアメリカであり、尚且つ、それがアメリカの強さの正体でもあろう。

これが例えば中国であれば、中央政府が「はい、党が決めた非合法活動をしているからしょっぴきます」と言って終わりである。これでは力も何も生まれようはない。ただ、中国は一党独裁であるため、中央政府の言い分の肯定こそが、中央政府のレゾンデートルとアイデンティティ、正当性を確保するために、それを否定する論が誕生せず、よって、発展や繁栄のためのダイナミズムは必然的に生まれない、ということになる。

知が人の力であるならば、そして知力の向上こそが、その地域社会(あるいは国家)における発展を促すならば、民衆国家の国力繁栄、知的活性というのは、現行体制への疑義や批判を公然として、そしてそこに軌道修正をすることや、自発的な知的探訪をする動きこそが、その燃料になる。
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デパートの中の占い模様

2017-03-07 13:04:06 | 雑感
デパートの催し物か、あるいは常設の店舗かで、占いコーナーがやっているらしい。

アナウンスの言うところによると、手相、人相、ゼロ学、スピリチュアルカウンセリングをやっているそうで、今現在の私の感覚では、これだけ高度に発達している社会において、そうした志向が社会に、いやもっと具体的に言えば、この時間帯を出歩いている女性を対象にした、そう言うイベントや商売があって、そう言う需要があると言うのはとことん面白いとは思った。

何ももう、占いで天気を予測したり、今年は豊作か凶作かを占う時代でもないと言うのに。

例えば、数千年後の人がこの文章を見たとして、数千年前はそれほど科学が今ほど発達していなかったから、占いを信じてしまうのは当然でしょ、と思うのは完全な誤解で、今はもう、そう言う時代を脱している。にも関わらず、人は占いに魅了され、自分自身が何者なのかを占いたがってもらっている。占うも何もその対象となる自分は半径ゼロメートルにいると言うのに、自分が何者なのか、これからどうなるのかと言うのが分からないから、常に啓示を待っている。しかしそれが人間だと言うものだろう。

まだ見ぬ未来に期待をし、目を輝かせるのが人間であり、そして、そうした論理整合性が取れないおかしな人間っぽさこそが、我々が人間を愛する理由になっているのだと思う。

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もうそろそろ限界

2017-03-07 00:43:24 | 会社での出来事
もうそろそろ限界である。
何がかというと、職場でのことだ。

一月より着任した私の上長は、どうにもかなりのヘビースモーカーのようで、隣に来ただけでタバコの煙が煙ってくる(隣で吸っているわけではなく、座っているだけでタバコの煙が漂ってくるように感じるくらいの煙っぽさである)。

一月はさほどでもなかったが、二月からはどうも量が増えたらしい。
まあ悪い人では無いので強くも言えないのだが、こちとら肺が悪いので、どうしようかと思っている最中なのであるが、今日に至っては、私の方では頭痛までし始めた。
私が個人的な主観判断で思うに、その臭いのせいではないかと疑っている。


この人は、今年の一月の頭、私が「○○を教えて頂けないですか」と聞いたら「○○? ○○? 」と二回繰り返して若干責めるような言い方で接してきたので、何となく性格面は分かった。私個人が思うに、一般的に見てこういう言い方は良くないように思われる。
私はおおよそこの上長の以前までいた職場が分かるので、それを通して類推するのだが、どうも前の職場の悪い文化に影響されてしまっているようだった。
何かとあっては揶揄を連想するような言い方をするし(「え~っ、○○すんの~?」という言い方)、お客さんの聞こえるところで否定をするし、あるいは既存に用意されている資料を否定するしと、作法があまり宜しくない。
頻繁なげっぷと貧乏ゆすりに加え、最近はタバコの臭いでこちらは頭痛までしてきた。

先日は、この上長が他の人の打ち合わせに無断で相乗りしたのだったが、これも良くない(事前に一声かければよかったのだが、これをしてない)。

あるいは、「自分は口が悪いですか? 」と私から聞いたところ、「いや悪くないよ。でも何か秘密にしていることを、隠していて、それを後で出すってことをするよね」と言ったので、「それは結論から言えってことですか? 」と聞いたところ、そうだという回答が返って来た。
何がどう悪いのか、という具体的な指摘は無かった。
そもそも「結論から言え」と言うのであれば「結論から言った方がいいよ」でいいのに、どうしてそうも回りくどい言い方をするのか。それこそ「結論から言えや」という話ではないのかとも思うのだが・・・
私は結論から言うようにしているし、私自身の自己反省的な面として過去の仕事を振り返っても、反省すべきところはなかったので、「自分では気をつけているつもりでしたが、分かりませんでした。気をつけます。指摘ありがとうございました。」と素直に礼を言った。

私は一本もタバコを吸わないが、帰宅途中、自分自身がものすごくタバコ臭いので辟易した。
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