書店外商の無常日記

人生という名のフィールドワーク

夢のあと

2015年01月03日 | old days but good days/雑感
 地元では「地鉄」の略称で呼ばれている富山地方鉄道の中滑川駅がすでに改築されていたのを知ったのは、去年の12月になってからだった。中学の3年間はこの近くに住み、時折この駅を利用していた。最寄り駅は一つ隣の西滑川駅であるが、特急、急行、準急といった電車種別が多かった当時、すべての電車が停車する中滑川駅の方が便利だった。そして、農協会館との併設で駅ビルと言っていいほどの大きな駅舎があり、その中のテナントとして入居していた書店によく行っていた

 中学卒業後は転居のためこの駅を利用することはなかった。ずいぶんさびれてしまっているとは聞いていたが、2、3年前に三十数年ぶりに行ってみた時は想像以上の状況に愕然とした。昼なお暗く、通路両脇のテナントのシャッターがほとんど下りている状態は廃墟のようでもあった。


2013年4月、旧駅舎テナント部分から正面入口方向を見る


 古い建物が取り壊されたと聞くとノスタルジーが先に立つが、今度の場合はようやく建て直されたか、という安堵感の方が大きかった。調べてみると完成したのは3月末、瓦屋根の民家のような造りと壁面に掲げられた縦書きの駅名標が不思議に見えたが、先々代の駅舎をモチーフにデザインされた駅舎なのだという。実際はどうなのか、日を置かずに見に行く。



 旧駅舎のように物販や飲食のテナントもなく、電車の乗り降りのためだけの簡素な建物である。ただし、待合室は明るく、改札口の外がすぐホームでバリアフリー対応の改造もなされていた。









 ホームは地下道からの階段が埋められたほかはあまり変わっていない。





 大きな旧駅舎の跡地はほとんど更地のままだが、いずれ公園などが整備されるのだという。これからは住宅地の中の小さい静かな駅として歴史を重ねてゆくのである。記憶に残る広い駅舎やそこでのにぎわいの光景は、もはや遠い昔に見た幻でしかなかった。
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忠告

2013年08月11日 | old days but good days/雑感
 高校卒業後3浪ののちにすぐに就職した人間が、いきなり書店外商員としてまともに仕事が出来るはずがない。よほど社交性にたけていれば別だろうが、僕はそういう人物ではなかった。のちにお客さんから聞いた話では「あなたがはじめて来た時は半年、いや3か月もつだろうか」と噂し合ったそうである。採用したほうもどう考えていたのかと思うが、入社してしばらくの間は「お荷物社員」であったことは間違いない。

 それでも何年か経つと多少はまともになってきて、少なくとも「お荷物」からは脱しようとしていた。その25年以上前のある日、一番の得意先である某放送局での仕事を終え、社員の休憩コーナーの自販機で飲み物を買い、しばし休憩していた。その頃はペットボトルのお茶などなく、甘い炭酸飲料やジュースしか売っていなかった。そのような所で飲むほどのどが渇いていたのであれば、それはおそらく暑い夏の日だったのであろう。

 飲み終えて席を立とうとした時、親ほどの年齢になる男性社員が僕の横に腰掛けて話しかけてきた。アナウンサーをしているその人の声はそばで聞くと小声でもつやがあり、よく響いた。「腹式呼吸」という言葉が浮かんだ。「君の会社の担当者を代々何人も見てきたけど、本のことはよく知っているし、みんなから声がかかって人気もあるようだし、君は優秀な部類じゃないかなあ」「はあ」「でもねえ、君を見ていると心配でしょうがないんだ。何か別の君に合う仕事に替わった方がいいと思うんだけどなあ」。

 言葉を選んでいるようでもあったが、僕が勤める会社に対してとやかく言うのでもなく、書店外商員という仕事に何か考えをもっている上での発言にも聞こえなかった。これにどう答えたかは覚えていない。たぶん「本が好きでこの会社に入ったのだし、今は転職は考えていない」と答えたのだろう。それ以外の答えはしにくい場面である。その人は何も飲まずにソファーを立ち「そうかなあ、考えた方がいいと思うけどなあ」とつぶやきながら去って行った。

 それからさらに何年か経ち、多少は社内でも「あてにされる」ようになってきた。ただし、如才ない人であれば決して起こし得ない失敗は今に至るまで数多くある。自分を有能な社員、優秀な外商員だと思ったことは一度もない。

 ある日、小学校の校長室で校長先生と二言三言言葉を交わしたそのあとのことである。「Fさん、あんたいくつになる?ああ、おれの息子といっしょだ。だから余計なのかなあ、あんたのこと見とると心配になってくるんだよ」。まさかと思ったが、何年か前と判を押したように同じ言葉をかけられたのである。さらに続けて「勤めて何年?ああそう。それだけのベテランであれば会社にとっては欠くべからざる存在なんだろう。でもね…」。応接のソファーに深く沈んだ腰を持ち上げるのがつらかった。

 奇しくも二人から同じ言葉をかけられ、考え込んでしまった。それほど「あやうさ」をもって見られているのか、もしかすると自分だけ何かに気が付いていないのか。多くの人が「本が好きだがらお似合いの職場」だと言ってくれるが、外商部勤務は似合わないと思われていることは知っていた。アドバイスしてくれることには感謝するが、書店外商員で何がいけないのかという思いもあった。

 今年初めの飲み会の帰り、終電を待ちながら友人Tと話をしていた。Tが「あした日曜日なのに会議あるんだけど、こんなに飲んで大丈夫だったかなあ」とぼやくので「おれだって試験あるからなあ」と返すと、「何の試験だよ?」と問う。単位認定試験の前日であった。放送大学に在籍していることは吹聴はしないが隠すことでもない。「実は」といって学生証を見せると、ひとこと「ああ、いいんじゃない」とTは言った。そして「お前が大学あきらめて就職したって聞いた時、このあとどうするつもりなのかと思ったからなあ」と続けた。「え、何が?」と聞くと、酔っていたせいなのか「いや、本屋で働き始めた時だよ」と少しずれた返事が返ってきた。「何に対して」「どうするつもりなのかと思った」のかが知りたかったのだが、これ以上は聞き直すのは野暮なような気がしてやめておいた。それは、ずっと前に年配の二人から言われた「君を見ていると心配なのだ」という言葉とどこか相通ずるものがあるように思えた。
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辞書と先代社長夫人

2012年03月04日 | old days but good days/雑感
 辞書のことだけで雑誌ができあがるというのは、辞書好きの身にはうれしいことである。国語辞典だけで7、8冊は持っている。《ユリイカ3月号・辞書の世界》のページをぱらぱらめくってみる。よくぞ出していただいた、という感じである。最近、辞書の編集を題材にした三浦しをん《舟を編む》が出版され、何年か前には《新明解国語辞典》の用例のユニークさが話題になり、国語辞典、辞典全般に関心を持つ人が以前より多くなってきたのではないか。その一方で電子辞書の普及やインターネットで簡単に何でも調べられるようになって、本の形の辞書の前途は決して明るくはない。コンピュータの発達によって辞書の編集、印刷の方法が前進してきたのに皮肉なものである。


 入社の際の面接時のことである。外商部長、常務、そして今は亡き先代の社長夫人の3名をが面接官であった。大学はもう行かないのか、免許取りたてのようだが運転は大丈夫か、といった質問のほか、定番の「ふだんどんな本を読むか」というのが出てきた。井上靖の小説、とでも無難な答えを言っておけばよかったものを「辞書を読むのが好きで、同じ語の解釈が辞書によって微妙に違うのを見比べたりして…」と話し始めると、先代の社長夫人が顔をしかめて「そんなことをして何になるのですか?!」と一喝。あまりの剣幕に絶句してしまった。当時の外商部長S氏がさっと話題を変えたものの、重苦しい雰囲気は続いた。これで落ちたな、と思うと同時に、この人は辞書というものを電話帳や郵便番号簿と同列にしか考えていないのか、と残念に思った。ただし、先代社長夫人は決して無学な人ではない。女学校を出ており、号を持つ書道家でもあった。考えてみれば、同じ種類の辞書を複数冊持っているのはその方面の研究者か仕事上必要な人たちなど、そうでなければ僕のような辞書好きぐらいで、普通は1冊で十分なのである。

 ある時、結婚式の引き出物として20冊ほどの広辞苑の注文があった。新郎新婦の名前を見返しの部分に書き入れてほしいとの希望があり、名入れ印刷ができない部分だったため、先代社長夫人に毛筆で書いてほしいと依頼した。本人にとっては難無きことだったかも知れないが、何のためらいもなく高額な辞書に毛筆で文字を書き入れる様子に敬服した。

 先代社長夫人は、のちに病を得てしばらくの間入院し、会社に出て仕事を再開したのは退院後間もなく、あるいは翌日だったかも知れない。後継者に仕事はかなり任せていたが心配だったのだろう。しばらくしたある日、1階のエレベーターの近くの棚で本を探していると、扉が開き、先代社長夫人が降りてきた。帰宅時間だった。それまでは決してエレベーターは使わず、2階から1階への階段をゆっくりと威厳のある姿で降りてきていた。かなり体力が落ちていたらしく、厳しいまなざしは変わらなかったが、出口に向かう後ろ姿は弱々しかった。当時の店の出入り口は自動ドアではなく重いガラス扉で、それを開けるのも大変そうであった。なぜ、そのまま見送らずにガラス扉を開けてあげなかったのか少し悔いが残る。
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《こころ》

2012年02月27日 | old days but good days/雑感
 久しぶりによさそうな雑誌に出会った。
 


 まず、この紙とインクの匂いから気に入った。同じような匂いがするの雑誌があったような気がするのだが、思い出せない。それはともかく、自分が生まれてから今までがどういう時代だったか知りたい、という欲求に応えてくれそうだ。保阪正康《回想 わが昭和史》は興味深く読んだ。そして、自分が生まれるまでにどのようにして時代がつながってきたかという点で、生まれる前の話、まだ読んでいないが、たとえば《大正時代再発見》もおもしろいのかも知れない。早速、創刊号からのバックナンバー4冊を取り寄せ《回想 わが昭和史》だけは全編読んでしまった。あとはこれからである。

 体裁は雑誌そのものだが、この《こころ》は流通上はれっきとした書籍なのである。雑誌コードはなく、ISBNコードが付与されている。気になったので平凡社に電話をかけて聞いてみたら、雑誌コードがなかなか取れないこと、雑誌だと返品の条件が厳しくなることが理由だそうだ。何となく理屈はわかります。
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ある深夜放送の思い出

2012年02月05日 | old days but good days/雑感
 中学、高校の頃は深夜放送をよく聞いた。当時は地元地方局も自前の番組を制作していたほどの「深夜放送ブーム」だった。最近は便利な録音機器がいろいろあり夜更かしをする必要もないだろうが、当時の「ラジカセ」では長時間録音するのは困難で、リアルタイムで聞くしかないのだが、途中で寝てしまうことが多かった。翌日睡眠不足で困るのがわかっていながら、東京からの時々途切れそうになる放送を毎日ではないものの懸命に聞いていた。今なら睡眠時間の確保を優先するだろうが、あの頃はそこまでして聞くだけの魅力があったのだろう。
 
 いろいろな番組を聴いたが、やがてTBSの「パックインミュージック」に落ち着いた。月曜の深夜、実際には日付の変わった火曜は小島一慶さんの担当だった。同じ日に落合恵子さんの「セイ!ヤング」があったのでいつも迷うのだが、30分早く始まる「セイ!ヤング」を1時まで聞いてそのあとは「パック」を聞くことが多かった。いつもは甲高い声でしゃべるにぎやかな放送だったが、年に1度だけ違う日があった。17歳の女性が病気で亡くなるまでの半年間の日記を朗読した時の放送の録音テープを、毎年命日近くに再び放送する日である。当然重い内容なのだが反響も大きく、この放送の前後にはさまざまな思いを書いたリスナーからのメッセージが紹介されていた。僕は祈るような、厳粛な気持ちで聞いていた。僕とさして年齢の違わない人が死を意識しながら生きるとはどういうことなのだろう。日記は病床でのさまざまな思い、死に対する恐れ、家族や知人への感謝が短い文章で綴られていた。そして、最後は「夏を閉じる日」という一編の印象的な詩で終わっていた。小島一慶さんは涙で声を詰まらせながら日記を読み、その録音を流す前後にも泣きながらしゃべっていた。

 ということがあったのを思い出し、検索をかけたところ、その放送についてブログに書いている人が3人ほどいた。ずいぶん前のことだが、印象に残っていた人がほかにもいたのだ。日記の全文や、その前後の一慶さんのしゃべりまで書き起こされていた。僕も聞いていたはずの昭和51年の放送である。さまざまな記憶がよみがえってきた。日記は「夏を閉じる日」で終わっていたのではなく、その詩が書かれた次の日にもう1日だけ記されていた。このノートがあと1ページで終わるので母親に2冊目のノートを買ってきてもらった、がんばろう、という希望にみちた文章だった。しかし、2冊目のノートは書かれることはなく、1冊目のノートも1ページの余白が残されたのである。

 僕は詩心を持ち合わせていないので、この詩が文学的に見てどうなのかはわからない。ただ、あの日記と、「パックインミュージック」という深夜放送とともに心に残っている。

     夏を閉じる日    鈴木由里

   夏を閉じる日
   散っていく花びらに 少しの言葉がほしい
   からまわりしている詩に 確かな鼓動がほしい

   夏を閉じる日
   ブランコのゆれる あの日に戻りたい
   開かれた白いページに 瞳をうずめていたい

   夏を閉じる日
   心を閉じて ひとりでいたい
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ゆっくりと、うたうように 巖本真理さんのこと

2011年12月25日 | old days but good days/雑感
 高校3年の時、通っていた高校の創立80周年記念式典が催され、その記念行事のひとつとして「巖本真理弦楽四重奏団演奏会」が開かれた。1978年10月1日のことである。朝のホームルームで担任が「巖本真理さんという人はきわめて有名なバイオリニストであり、本来このような地方の高校に来るような人ではなく、我々が演奏を生で見ることができるのは奇跡と言っていい」と話した。自分はクラシックに多少の関心はあったが、それまで巖本真理さんの存在を知らなかった。

 演奏会は講堂で行われ、開演前に音楽担当のI先生が演奏会を聴くに当たっての注意事項を簡単に説明した。そして、開演。拍手に導かれるように巖本さんがステージに現れた。はじめはこの演奏会をそれほど楽しみにしていたわけではなく、むしろ、退屈な時間を過ごすことになると思っていた。しかし、その気持ちは演奏が始まると同時に消えた。巖本さんのバイオリンの弦に弓が触れた瞬間、かすかに残るざわめきの余韻がすーっと消え、静寂と音楽のみが存在する世界に変わった。バイオリンがどのような音がするかはもちろん知っているが、「ああ、バイオリンはほんとうはこういう音がするのか」と驚いた。豊かな音量と、時にはっとするほどの美しい音色。巖本さんがバイオリンを弾いている、のではなく、巖本さんとバイオリンがひとつになって「うたっている」ようにさえ思えた。そして、重奏の時はまだしも、独奏の時にはステージを直視することができなかった。渾身の力を込めて演奏する巖本さんが、今にも力尽きて倒れてしまうように見えたのである。



 すべての演奏が終わり、全校生徒で埋まった講堂が拍手に包まれた。開演時のような儀礼的な拍手ではなく、感動の拍手であった。メンバーが一度舞台のそでに下がった後も拍手はやまなかった。アンコールを求める拍手だ。そして、巖本さんが現れ、ほほえんでアンコールの曲名を告げる。その声は小さくて聞き取れないが、男子生徒の「ウォー」と女子生徒の「ワァー」とが入り交じった歓声があがり、ひときわ大きな拍手。そしてアンコール曲の演奏。

 多くの人が2度目のアンコールを期待した。拍手は続くが、なかなか姿を見せてくれない。もうおしまいなのかと拍手が小さくなりかけた瞬間であった。他学年の不心得な男子生徒が「終わったぞ!」と叫んだ。拍手がやみ、失望と非難のざわめきに変わった。何とも後味の悪い終演だった。巖本さんはじめ、メンバーの方々には申し訳なかったと思う。
 

 そして、気になることがあった。気迫に満ちた力強い演奏とは対照的な、凛としているものの、つらさを押し隠しているような立ち姿。笑顔で拍手に応えながらも、どこか遠くを見つめるような眉根のかげり。

 この日は、午後から父兄と一般向けの同一プログラムでの公演があった。もう一度聴くべきか迷ったが、あの美しくも厳しい演奏の中に再び身を置く勇気はなかった。

 巖本真理さんが亡くなったのは、それからわずか半年あまり後の1979年5月11日である。夜のニュースでそれを知った。画面にはシューベルトの「ます」を演奏する巖本真理弦楽四重奏団の映像が流れていた。
 やはり巖本さんは病を押して演奏活動をしていたのだ。自らの生と対峙した結果があの演奏だったのだ。しかし、なぜ、そこまでしてバイオリンを弾き続けたのか。その「なぜ」の答えは5年後に1冊の本と出会うことで知る。



 1984年4月、本店の新刊コーナーで、新潮社・山口玲子著《巖本真理 生きる意味》を見つけた。綿密な取材によって書かれた巖本さんの伝記である。生い立ちから亡くなるまでが克明に記録されている。ただし、現在は残念ながら絶版になっている。

 巖本さんのバイオリンの音が忘れられず、さまざまな人のバイオリンの演奏を聴いてきた。それぞれにすばらしいがどこか物足りない。この本にはこう書かれている。
 「ことに真理は“音”を持っている、といわれた。人の声が一人一人違うように、はっきり“真理の音”とわかる音をもっている。その音に魅せられた者は、真理のバイオリンが忘れられなくなった」
 「真理の音は、線の太い、よく響く音量豊かな音だった。誰にも出せない真理だけの音をもった」
 そう、その通りなのだ。100人のバイオリンの音を聞いても巖本真理さんの音だけはわかるだろう。

 そして、本来なら満足に演奏できる状態ではないのになぜ弾き続けたか。手術の執刀医に訴えたこのひとことにつきる。

 「このままバイオリンが奏(ひ)けなくなってしまうなら、救っていただいても生きる意味がないのです」

 巖本さんにとって「バイオリンを弾き続ける」ことが「生きる」ことだったのだ。


 巖本真理さんのCDは手元に2点にある。1点は20年ほど前に発売された「巖本真理ヴァイオリン小品集」、そしてもう1点が、最近発見された音源を使った「巖本真理の芸術」(2枚組)である。どの曲を聴いてもやはり「巖本真理の音」だ。中でもアンダンテ・カンタービレの切ないメロディーに心が動く。あの日の、まさに命を削るような演奏がよみがえってくる。伴奏がピアノではなく、エレクトーンなのがめずらしい。僕が生まれる3か月前、1960年6月10日の録音である。




 2012年1月20日追記
 巖本真理さんの訃報を知らせるニュース映像に使われていたのが、シューベルトの「ます」である確証はない。おそらくそうだったように思う、というのが正しい。
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《原発死》復刊に寄せて 松本直治さんのこと

2011年12月23日 | old days but good days/雑感
 

 東日本大震災以後、さまざまな地震や原発に関連した書籍が出版された。また、既刊の関連書でも改めて注目されるものがあった。吉村昭氏の「三陸海岸大津波」などがそうである。その中でも僕の目を引いたのが、元・北日本新聞社論説委員長、松本直治さんが32年前に書き、一度絶版になったものの、8月に復刊された「原発死 一人息子を奪われた父親の手記」である。

 松本さんは生前、当社外商部のお客さんであった。新聞社勤務の時からの継続だったのだろう、自宅に月刊誌を1冊、僕とは別の担当者が届けていた。1985年頃のある日、松本さんから「今入院中なので、とっている雑誌を病院まで持ってきてほしい」と依頼があった。病室まで届けることは断ることもあるのだが、その病院がたまたま僕の担当区域にあったので、引き受けることにした。

 松本さんは、大部屋のベッドに横になっていた。奥様が付き添っていたように思う。「おお、持ってきてくれたか。ありがとう、ありがとう」と心待ちにしているようだった。実は松本さんと会うのは2度目である。忘れてしまっているかもしれないとは思ったが、数年前、最初に会った時の状況を簡単に説明して、「覚えていらっしゃいますか?」と尋ねた。松本さんは唐突な問いかけに対して、ただ「さあ、おぼえとらんなぁ」と言ったきりだった。無理もない。僕にとっては印象深い出会いであったが、松本さんにしてみれば、たまたま通りがかりの若者に話しかけたに過ぎない。それも、数年前のことであり、まして病身であれば、記憶をたどる気力もなかったであろう。それ以上の会話はなく、少し残念な思いで病室を後にした。短期間の入院だったのか、病院に雑誌を届けたのはその時の1回だけだった。そして、のちに健康を回復され、時折健筆をふるっておられたようである。

 松本さんと初めて会ったのは、1980年3月下旬のことである。僕は、まもなく廃線になる富山地方鉄道射水線に乗るために富山市側の起点、新富山駅にいた。その年の大学受験も全滅で、2浪が決まって間もない頃にのんきな話だが、この電車に乗るのはそれなりの理由があった。

 射水線は新富山駅から北西方向に富山湾を目指して走り、富山新港の東、「新港東口駅」に至る路線であった。そして富山新港を挟んだ西側から「越の潟駅」を起点に加越能鉄道新湊港線、現在の万葉線が高岡市に向けて走っている。このふたつの路線は以前は1本の路線であったが、富山新港を建設する際、1966年に新港東口-越の潟間が廃止されたため、分断されたのである。
 
 僕は生まれてからおよそ3年足らずの間、越の潟駅の近くに住んでいた。当時の記憶はほとんどないが、射水線を走る電車だけは覚えている。人生最初の記憶だと思いたいが、幼時の記憶というものは、後に伝え聞いたことを記憶と思い込むことがあると聞く。3歳になるかならないかの時の記憶が果たして実際の記憶かどうかは不確かである。しかし、とにかく身近にあった鉄道の半分が無くなるのであるから、その前に乗っておこうと考えたのである。

 電車の時刻を確認し、駅舎の前のバス停のそばであたりを眺めていると、ループタイをした老紳士が近づいてきて僕に話しかけてきた。手に持っている雑誌は何か、と問う。途中、当時の国鉄富山駅の売店で買った「朝日ジャーナル」を丸めて持っていた。「朝日ジャーナルを読んでいるのか。若いのに感心だ」。僕が多少は社会的なことがらに関心があると見たのだろう。「あんた、《原発死》という本を読んだことがあるか?」と聞いてきた。前の年に出たその本の存在は、話題になったので知っていたが、まだ読んでいないと答えると、「その本を書いたのは私で、松本直治という者だ」と自分の身分を明かして語り始めた。本の内容に関連したことが多かったはずだが、具体的な話の内容はほとんど思い出せない。ただ、一人息子を失った父親としての悲しみと、親として、そしてジャーナリストとして納得できる真実を得られなかったくやしさという、松本さんの気持ちを強く感じたことだけは鮮明に覚えている。何よりも驚いたのは、松本さんの気迫である。話すに従って熱が入り、僕に詰め寄るように近づいてくる。一定の間隔を保ちたい僕が後ずさりをする。その繰り返しで、話し終わった時には最初立っていた位置から2,3メートル後退した場所にいた。別れ際、松本さんから「がんばって大学に行って、学問を修めて、自分の息子の分まで生きてください」と激励の言葉をいただいた。

 どれだけ話をしていたのだろう、すでに夕暮れが迫っている。

 結局、射水線には乗らずじまいだった。遅く帰るわけにもいかなかったし、一度乗っておこうという人たちで電車は混んでいて、乗る気が失せてしまったこともある。しかし、「さよなら電車」に乗らなくても、この場所まで来た意味は十分あったのだ。
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人はみな草のごとく

2011年12月11日 | old days but good days/雑感
 寒くなったり暖かくなったりしながら、しかし確実に真冬に近づいている。時折、ささやかな木々の色づきなどに心が動かされることがあるが、子どもの頃はこういうことはなかったように思う。今は風景そのものではなく、それを通して違う何かを見ている、いわゆる「もののあわれ」を感じているのか。これも「大人になるとわかること」のひとつなのだろう。一方で、幼い頃はよく空や流れる雲を眺めて空想の世界にひたっていたが、今は空を見上げて物思いにふけることなどまずない。これは「大人になると忘れてしまうこと」であろう。




 一瞬だけ色づいて、あっという間に葉は枯れ落ち、この2日後には枝打ちをされて幹と枝だけになってしまった。

 時の流れは、季節の移ろいという形で我々に対して無常の光景を呈示する。そして、過ぎゆく時の前にあっては、人の心も無常、かつ無情である。

 「悲しいことも覚えました、世の中の醜いことも見聞きさせられました。人は年齢を重ねるに従って、悲しいことのみを残して、昔のたのしかったこと、美しかったことを次第に忘れて行くのではないでしょうか。」《福永武彦「草の花」》
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オレの店

2011年10月10日 | old days but good days/雑感
 いまから35年以上も前、中学のころ住んでいた市の実質的な中心駅の駅舎には、駅そのもののほかにいくつかのテナント、スーパーや喫茶店、レコード店などが入っていて、僕がよく通った本屋もそこにあった。夫婦が交代で店番をしていた10坪あるかないかの小さい店だった。いま思えばそんな小さな本屋に「井上靖小説全集」の全巻がすべて置いてあったのは不思議だが、それが棚の一番上の段に並んでいた。井上靖のファンだったので、文庫で出ているものはわけもわからぬまますべて読んでしまっていたが、全集で揃えるというのは魅力的だった。しかし、全巻で数万円のものは中学生にとっては手が届くはずもなく、ある日、その店の主人に分割や取置きができるか聞いてみた。ふだんは無愛想だったが、話をしてみるとそうではなく、本に対する思い入れも感じられた。何より中学生の僕に対して子ども扱いすることなく、一人の本好きの人間として相対してくれたのがうれしかった。結局その時に買うことはなく、それから二十数年後に出た「井上靖全集」を勤め先で買うことになるが。

 それからどれだけたったのか、ある日、事件は起きた。
 店内には僕のほか同じ中学の男子生徒や若い女性ら数人の客がいたが、その主人が唐突に、「お前ら、立ち読みするんだったら出て行け。ここはオレの店だ!」とどなり、客が手にしていた本を取り上げて全員を店の外に追い出したのである。「出て行け、出て行ってくれ」と繰り返す声は震えていた。誰も長時間の立ち読みをしていたのでも騒いでいたのでもなかった。追い出してそれで終わりだったか、シャッターを下ろして「閉店」してしまったかは記憶にない。「何だ、あのオヤジ」「もう二度と来るか」と同級生たちは怒っていたが、僕は井上靖の時の対応を覚えていたので、驚きこそすれ、非難する気にはなれなかった。

 何日か後、おそるおそる店内をのぞくと、ふだん通り所在なげに店番をしている主人の姿があった。そして、僕にとって居心地のいい本屋であることにも変わりなかった。2日ある高校入試の1日目が終わり、明日も試験だという日にも、夕方になってからしばらくこの本屋で過ごした。しかし、中学卒業と同時に市内の別の場所に引っ越し、隣の市の高校に進んでからは、この店に行くことはなかった。

 その書店の名を久しぶりに見たのは、いまから何年前だったろうか。ある出版社の企画商品の予約獲得数ランキングにその書店が出ていたのである。取次の担当者にたずねたところ、駅にあった店は閉じられ、奥さんが一人で外商業務だけをやっているということだった。主人はすでに亡くなったと聞いた。

   
 きのう、その本屋があった駅に行ってみた。当時、乗降客と買い物客でにぎわっていた構内は閑散としていた。少子化と自家用車の増加、競合するJRの増便の影響で乗客は減り、主要駅であるはずだが日曜、祝日は駅員の配置もない。テナントも多くが空き家で、殺風景さを紛らわせるためか、下りたままのシャッター一面に地元の中、高校の美術部員の絵が描かれていた。いわゆる「シャッター・アート」である。しかし、もと本屋だった場所のシャッターは手を加えられておらず、「書籍・雑誌・全国共通図書券 ○○書店」の塗装がそのまま残されていた。誰が、どんな気持ちでこのシャッターを最後に下ろしたのだろう。 

 今ならあの時よりも想像はつく。日々の売上を気にし、そこからテナント料や取次への支払い費用を捻出し、望むように入らない商品に歯がゆい思いをする。もとより、本に対するさまざまな思いがあったはずだ。

 「ここはオレの店だ!」--。
 三十数年前のほんの少しだけ滑稽な、しかし、書店の悲哀を感じるあの時の光景を思い出しながら、見覚えのある古びたシャッターをしばらく眺めていた。そして、わずかな懐かしさと、なぜここにわざわざ来たのだろうという淡い後悔の念をいだきながら、踵を返して出口に向かった。


撮影は2013年4月28日
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