トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、テレビ番組、家庭菜園のブログです。

旧イギリス七番館

2017-03-07 21:26:58 | 日記


かつて春に訪れた場所。見た夢の内容を思い起こしては考えている。夢の内容によっては自在に歴史を行き来しているわけだから、そういう意味ではタイムスリップだと自分なりに合点。仏教信者の自分が無神論者の立場で夢の内容を反芻している。
時代は昭和でいえば9年10年11年、自分の生まれてもいない頃のこと。まるで演劇、戯曲の主人公を演ずるように日本にたどり着いた異国人の役を演じていた。ジョンソンという変名をもつ実のところは赤軍第4部から派遣されたコミュニスト、ゾルゲに成り代わっているのだ。ドイツ人ジャーナリストという触れ込みで周囲からの信用も勝ち得てしまっている存在なのだ。そして、夢のなかで反芻するもう一人の自分は、冷静にそのジョンソンの胸中の内奥を想像しながら哲学しているのだ。場面は尋問と黙秘の日々にみずからピリオドを打った瞬間。その後の尋問官からの言葉「何か、言い残しておく事はあるかい?」しばしの沈黙。「在りません。」問い詰める相手のその眼は決して勝ち誇っているのではない。例えて云えばフルマラソンの最後の伴走者でもあったかのように。言い残す事はないとそう言ってはみたものの、心の中では思い起こすことはあったのだ。その一つはエリセーエフ君のことだ。年齢もそうだがジャポロニストという視点に立てば先輩格の彼。わたしが、日本に魅せられたという以前より日本を愛してもいただろう。バイクで三宅坂、神保町、事故ったとき、ベットで臥せっていたときに君の書かれていた新聞投稿にも目をとおしていた。帝政ロシアの貴族の子弟とコミュニストが異国日本で遇いまみえるなんて、なんとも不可思議なことかと。夢想している。評論を読み思考するうちにブルジョワの君のおぼろげだった人物造詣も修正され、鮮明になっていった。日露戦争がエリセーエフの日本、極東への関心の第一歩だったろうが、左翼思想に傾倒しはじめる時期のあった君のこともわかってきたのだ。その後君は主張する審美眼と宗教的観点から左翼思想とは一線を画していくのだが。自分は諜報の職務上、日本の指導者層からの君の噂も副産物のように耳にした。東北のズーズー弁まで理解してしまう変わった愛される外国人の君。留学生として優秀な成績で、明治天皇出席のもと銀時計組とともに最前列に。陛下にしても印象を強烈に残していたのだろう、陛下が君のことを詳しく周囲に尋ねられていたらしいことも聞いてしまった。帝政ロシアの庇護のもとに、それまでの自由な勉学の日々だった君。その君の教養に嫉妬する自分を確認していた。帝政崩壊後、彼はいまはどこに流浪しているだろうかと。できうれば忌憚なく語り合いたいとも思っていたのだ。しかし今は叶わぬこと。君の日本語で書かれた日記をひもといていた記憶にある6月2日の記述部分。ペトログラードの獄舎内のこと。「解放されるか銃殺されるか、両者のうち一つ。それですから私はできるだけ気が鬱(ふさ)がないようにして、いらざる心配をしない。午後の二時頃番人が来て件の男とが私を下の廊下に連れ出した、そこにはすでに十八人の囚人が立っていた。裏の小さい戸から出て下庭を通った、そこには一本の桜の木が咲いていた。それを見ると私は日本を思い出して、どうかもう一度日本の桜を見たいものだと考えた。」いままさにわたしの心境と同じだ。彼のように解き放たれるであろうかと。

わたしはいつか処刑されるかもしれないし、また外交取引で解き放たれるかもしれない。また、それにしたってその後の苦難もあるのだ。


それ以前だって不安定な心持のうちに過してきた。革命政権のその後の内部でのかけひきやら、対立、粛清騒動が将来に影を宿していた。敵の敵は味方だとか、半端な史観が大手をふるってもきた。そんな人間を道具としか見ないような風潮にあきあきもしてきていたのだ。その反動でか日本女性に溺れたし、酒にも溺れた。最後の心残りは日本人の彼女のことだ。私の罪が彼女に及ばないことを願っている、彼女は自分の活動とは無関係なのだと。今は祈るのみだ。(無神論の君が祈るだと?そうさ、笑っておくれよ。)
(これは風刺のつもりで描いたわけでなく、反面では畏敬の念を込めたつもりなのだが。)


夢の内容は続いてさらに思い出す。思い残す二つ目のことだ。それは拘置所から、また別の拘置所に移送されるさなかに出逢った車中の日本人思想犯のことだ。治安維持法違反、不敬罪のかどで取り調べの長身の壮年で、同じ護送車内での少しばかりの短い会話のうちにも親しく感じた壮年。その罪状があまりにも不具合ではないかという印象をもった壮年のことだ。わたしのそれまでの習性からして相手の考えを読み解く作業に掛かる事は本能的なものだった。事業家でもあり、信仰人でもあるというその壮年の考えている事はそれは想像を超えてそれまでの範疇にあてはめようのないもののように思え残念する他なかったのだ。「あなたは、どういう罪で」その壮年からの問いかけもあった。あのときも今も日本的ファシズムの兆候は予想されていたし、日本の軍部と政界の動きは刻一刻と波瀾を含んできていた。だからわたしはおさらいでもするように越し方を振り返っていた。自ら志願して革命軍に、それから、戦士として、それから諜報の世界に引き立てられるようにして祖国の外の世界に至ったことを振り返っていた。ヨーロッパからアジア、太平洋問題にまで、私の収集した情報分析、それらが信頼され、とうとう風雲告げるこの極東の島国日本にまで来たのだ。わたしは送り込まれるべくして送り込まれたのだった。結局のところ、とうとう、日本官憲にみやぶられ捕らわれの身となってしまった。日本は社会主義には向かうことはないのは私の見方だけでなく、他のルートの諜報筋からだってそうだったろう。それでもそれに近い擬似社会主義、いわゆる歪な上からの国家社会主義への兆候は十分見て取れていたのだ。だから2・26事件はその興味を更に倍加するような衝撃だったのだ。自分はというとそのときはたやすくドイツの大使館にも居て刻々と入ってくる日独首脳層の収拾方の打ち合わせに耳を傾けていたのだ。そしてそれに対する情報分析を逐一ソビエトの赤軍第4本部に送っていた。今後の平和はどうやって守られていくというのだろうか。それも今となってはせんないこと。護送車の壮年の呟きを思い出している「思想統制は宗教統制からはじまる。かつて聖徳太子も法華信者だったというのに、現下の日本は国家に強制されるようにして国家神道の道に統制されていく」その言からみても他の国粋主義的な法華主義者とはわたしは注意して見分けることの肝心さだけは気付いていたのだった。わたしのマークしていた新渡戸の近いところにあの壮年がいたなんて、見落としていた。

私自身の聖徳太子びいきはそもそもそれ以前の奈良公園の散歩にはじまる。日本にきてこよなく日本の文化に魅せられてしまったのは正倉院の宝飾品の数々を観てからだ。そこにはペルシャ湾岸以西の影響と思われる文物も。ペルシャからむこうはわたしの祖父のバクーの地方。その後石油で潤う地。正倉院でのひとときはまさに遠い故郷の香りに出逢ったようでもあったのだ。そこに異文化を繋いでいく思想の萌芽を感じ始めていた。それからのわたしの思索は従来の思想は思想としてジャポロニストの側面を加えていったのだ。シルクロードを経由したこれらの文物、文化はすべて大乗仏教を敬う国王に庇護されるかたちで渡ってきただろうことが想像できてもいたのだ。
だから、あのときの壮年の(聖徳太子も・・)という言葉には天啓にも似たような衝撃を得たのだった。
国を束ねる意思。逞しく異文化を繋ぐ深い心。学ばなければならないことの多いことよと。


拘置所から、また別の拘置所に移送されるさなかに出逢ったあの日本人思想犯。
あの壮年に、もう一度逢う事が叶うならそこらへんのことを深く聞いてみたいのにというのが心残りといえば心残りなのだ。





ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 極秘文書が語る日比外交 | トップ | 卒業月 »
最近の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。