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謎の豪族蘇我氏、水谷千秋

2017年04月28日 | BOOK(売却した本)

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謎の豪族蘇我氏、水谷千秋

文春新書(文藝春秋)、495

2006年(平成18年)3月20日、第1刷発行

定価(本体74 0円+税)    
    
  

第1章 蘇我氏四代
第2章 出自と出身地
第3章 蘇我氏と渡来人
第4章 仏教受容
第5章 蘇我氏の二つの貌
第6章 なぜ滅亡したか
第7章 「逆賊・蘇我氏」の誕生

〇蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀-7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。(wikipedia)

〇『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね。たけのうちのすくね)を祖としているが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよく分かっていない。○孝元天皇は、孝霊天皇の第2子。孝元天皇の孫が、武内宿禰。曾孫かも。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族であった、または(系譜に現れる名前などから)その地に定住した渡来人であった、などの説があるがいずれも定かではない。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類しているが、現在ではほとんど支持されていない。

蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。

6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われる。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもそれがうかがえる。(wikipedia)

〇稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大連の大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となっていく。馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は葛城氏の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある。(wikipedia)

〇稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子(そが・の・うまこ)まで引き継がれるが、用明天皇没後に後継者をめぐる争いがあり、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。ここから馬子による崇峻天皇の暗殺や推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷(えみし)による天皇をないがしろにするふるまい、蘇我入鹿(そが・の・いるか)による上宮王家(山背大兄王)の討滅、境部摩理勢の失脚などの専横ぶりが伝えられ、三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。だが、馬子の死後に蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺して、それを克服しようとして入鹿による強権政治に繋がったという見方等『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論もある。結局645年の中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、入鹿が暗殺され、蝦夷が自殺するとその勢力は大幅にそがれた。(wikipedia)

〇しかしながら、この政変はあくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡を意味し、クーデターには、傍流とされた蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子、蘇我倉山田石川麻呂も中大兄皇子の協力者として関わっており、石川麻呂はこの後右大臣に任じられ娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂は649年に冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向は大宰府に左遷(口封じとの説がある。)させられたが、他の弟、蘇我赤兄と蘇我連子は 天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣。連子ははっきりは分からないが、右大臣と推定されている。)に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。

しかし、彼らの栄光も長続きはせず、連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去、赤兄ともう一人の弟、、蘇我果安は壬申の乱で大友皇子につき、敗れてそれぞれ流罪・自害となった。その甥で、連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。このように、乙巳の変後も倉麻呂の息子達が政治の中心的立場になおとどまったが、相次ぐ政争でさらに衰退しながらも連子の系統のみがしばらく続く事になる。(wikipedia)

 

比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)の子は、武内宿禰。あるいは、屋主忍男武雄心命の子が、武内宿禰。

〇武内宿禰(たけうちのすくね)は、『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。建内宿禰とも。孝元天皇の曾孫(『古事記』には孫)、父は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、『古事記』は比古布都押之信命とする。第8代孝元天皇の曾孫、武内宿禰の末裔が蘇我氏とされていますが不明。仏教奨励や木満致なる人物などの経緯から、大陸からの渡来人と言う説も。大伴・物部氏と競合する古代豪族3強時代の一角、それが蘇我氏で、その後三代で天皇を上回る権勢を欲しいままにしたものの、中大兄皇子や中臣鎌足の画策により、蘇我宗家は滅亡します。

〇蘇我石川宿禰(そがのいしかわの すくね)は、蘇我氏の祖とされる。河内国石川郡で生まれた。武内宿禰の子であり、蘇我満智の父である。名前から見て、蘇我倉山田石川麻呂もしくはその子孫が創作した架空の人物であるとする説もある。

〇蘇我満智(そがのまち、蘇我麻智、蘇我満知とも書く)は、飛鳥時代の人物で、雄略天皇の時代に大蔵などの仕事をしていた。武内宿禰の孫にあたる。応神天皇の代に渡来した、百済の貴族木満致と満智が同一人物とする説がある。また、その存在自体も疑問視。

〇蘇我韓子(そがの からこ)は、古墳時代の豪族。蘇我満智の子で、子に蘇我高麗がいる。「韓子」であるが男性である(当時は「子」の字が男女問わずに用いられた)。465年3月、雄略天皇の命で紀小弓、大伴談、小鹿火宿禰らと新羅を征伐するために朝鮮へいったが、小弓が同月に死去してしまう。代わりにやってきたのが、小弓の息子紀大磐だが、大磐は小鹿火宿禰と対立。その小鹿火宿禰の讒言により、彼も大磐と仲違いしてしまう。それを知った百済の王が、仲を保つために国境を見にいかせたが、そのときに大磐を襲撃。返り討ちにあって死んだ。

〇蘇我高麗(そがのこま・駒とも書く)は、蘇我韓子の子で、蘇我高麗の子に蘇我稲目がいる。

〇蘇我稲目(そがのいなめ)は飛鳥時代の大臣。蘇我高麗の子、蘇我馬子の父。娘3人を天皇に嫁がせた。宣化天皇元年(536年)大臣となる。同年、天皇の命により凶作に備えるため尾張国の屯倉の籾を都に運んだ。欽明天皇元年(540年)欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とした。堅塩媛は七男六女を産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。小姉君は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。

〇蘇我馬子(そが の うまこ)は飛鳥時代の政治家。「馬子」であるが男性である(当時は「子」の字が男女問わずに用いられた)。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く。子に蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂は孫。 また、娘に河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)、刀自古郎女(とじこのいらつめ)(聖徳太子妃)など、外戚となって権力をふるった。

〇蘇我蝦夷(そがのえみし)は、(倭国)飛鳥時代に大臣(おおおみ)となり中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂らのいわゆる乙巳の変で自殺した政治家。父は、蘇我馬子、母は『紀氏家牒』によると物部守屋の妹、太媛である。兄弟姉妹は、蘇我善徳(長男)、蘇我倉麻呂、河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)、刀自古郎女(とじこのいらつめ)(聖徳太子妃)など。息子は蘇我入鹿。

〇蘇我入鹿(そがのいるか)は、大和朝廷の有力者。大臣(おおおみ)。異称は林大臣、鞍作太郎など。父は蘇我蝦夷。父の大臣・蘇我蝦夷の晩年、父に代わって国政を掌理する。蘇我氏に否定的な『日本書紀』などの記述によれば、聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされる。入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだとされる。しかし、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、宮中において皇極天皇の御前で暗殺された。父、蘇我蝦夷も自殺し蘇我氏本家は滅亡した。

〇蘇我倉麻呂は、蘇我馬子の子。傍系。子は、蘇我日向、蘇我倉山田石川麻呂蘇我赤兄、蘇我連子

〇蘇我安麻呂は、蘇我連子の子。蘇我姓の最後。

〇石川石足は、蘇我安麻呂の子。

石川年足は、石川石足の子。

〇石川名足は、石川年足の子

〇石川真守、石川豊茂は、石川名足の子。以下不詳。