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堀栄三「大本営参謀の情報戦記」

2008-07-03 22:20:36 | 歴史・社会
大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)
堀 栄三
文藝春秋

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この本を読んだのはもうずいぶん前です。先日、堀栄三氏が遺してくれたものとしてこの本を紹介した機会に、もう一度読み直してみました。

全編、旧日本陸軍、戦後の自衛隊、そして現代日本社会における情報音痴に対する警鐘です。

旧日本陸軍についていえば、まず全体として「作戦」と「情報」のうちの「作戦」優位であり、情報が軽んじられています。さらに、太平洋戦争を始める直前まで、陸軍にとって仮想敵はソ連と支那(注1)であり、米国についてほとんど無知状態でした。

1943年(昭和18年)11月、真珠湾攻撃から2年が経過しています。その時点で、堀氏は大本営第二部(情報部)の米英課に配属になります。その米英課は参謀が7名、総勢40名しかいません。そこで堀氏は、米国の戦法の研究を命じられます。自分で戦争を始めておきながら、そのあとに相手の戦法を研究しようというのですから、日本陸軍の泥縄ぶりがよく現れています。

課長から「実戦を見てくるように」と南方に出張します。ニューギニアのウェワクで第四航空軍司令官寺本熊市中将を訪ねます。堀氏の養父(義父でもある?)の堀元陸軍中将の知己であり、米国をよく知り、開戦後ウェワクへ赴任する前、堀氏宅によって「よくもよくも米国を相手にしたものだ。国力を侮ったらいかん」と述べた人です。
その寺本中将から、「第一次大戦時の米軍を調査した報告書があるから、必ず読むように」といわれ、帰国後に調査したところ、有益な報告書です。このような情報ですら、開戦直後の日本陸軍は生かし切れていなかったのです。

堀氏は、今までの報告書に加え、太平洋戦争における米軍の挙動を徹底的に調査し、整理します。そしてその研究の成果を「敵軍戦法早わかり」としてまとめます。
そのような評価が、真珠湾攻撃から2年以上経ってやっとまとめられたということであり、それ以前には実際に戦っている南方の軍隊には何ら情報が与えられていなかったことになります。


「敵軍戦法早わかり」の印刷ができないうちに、1944年3月に大連で実戦部隊に説明を行います。ペリリュー島へ派遣される第14師団でした。

私はベリリュー島について、5年ほど前までは全く知りませんでした。フィリピンに近い太平洋上の島で、日本軍が守備していました。フィリピン攻略時に米軍が制空権を確保する上で、飛行場として重要な島だったようです。ペリリュー島の米軍上陸戦は、米軍にとって硫黄島と並び称されるような苦戦を強いられます。死傷者の数で日本と米国の数がほぼ同じになります。日本軍守備隊が、万歳攻撃を行わず、洞窟を拠点に立てこもり、後の硫黄島と同じような準備をして待ち構えていたからです。
なぜ、ペリリュー島ではこのような準備が可能だったのか。堀氏の研究成果が役立ったように思います。


「台湾沖航空戦」というのがあります。1944年10月に、米軍の空母艦隊と日本の航空機との間で戦われた戦闘であり、戦闘終了後大本営は「敵空母撃沈10隻、撃破3隻」という大戦果を発表します。実はこの戦果が全くのデタラメだったのですが、日本陸軍ですら騙され、「もはや米軍の空母艦隊は全滅した」として、フィリピンでの決戦場を、既定のルソンからレイテに変更してしまうのです。結果として、日本はレイテでもルソンでも惨敗することとなります。
戦後40年経って、「台湾沖航空戦の戦果がデタラメであることを陸軍の堀参謀が気付き、大本営に電報したのに、大本営がこれを握りつぶした」という話が表面化します。堀氏が今回の本を執筆することになる直接の契機です。

堀氏は、完成した「敵軍戦法早わかり」を第一線部隊に普及させるため、比島(フィリピン)へ出張します。その途中、宮崎の新田原飛行場で足止めされます。ちょうど台湾沖航空戦が戦われていたのです。堀氏は鹿屋飛行場に飛びます。そこで演じられていたのは、帰還した搭乗員の戦果報告をそのまま鵜呑みにして、「敵空母撃沈10隻、撃破3隻」という大本営海軍部発表を行うのです。
堀氏は、「この成果は信用できない。いかに多くても、2、3隻、それも航空母艦かどうかも疑問」という電報を大本営宛てに打電します。しかし堀氏のこの電報は、大本営で握り潰されてしまいます。大本営作戦課の瀬島龍三参謀が握りつぶした張本人ではないか、という噂があるようです。

マニラの山下奉文司令官は、ルソン島で米軍と決戦する体制を固めていました。そこに「台湾沖航空戦の大勝利」が伝わり、大本営及び山下司令官の上官である寺内司令官は「ルソン決戦からレイテ決戦への変更」を決めます。一方山下司令官は、到着した堀氏から「台湾沖航空戦の戦果は怪しい」と聞いているので、「決戦の場をレイテに変更すべきでない」と主張しますが、とうとう上からの命令で作戦は変更されます。

ルソンからレイテへ兵団を輸送します。最初の第1師団こそ無傷で上陸できましたが、後続の部隊はことごとく米軍に沈められました。
レイテ戦の後、ルソン戦です。山下兵団は、レイテへ戦力を送った結果として手足をもぎ取られてます。
堀氏は、大本営参謀から山下兵団の情報参謀に転属になりました。そこで堀参謀はあらゆる情報を整理し、米軍の行動予測を行います。そして、1944年11月6日、米軍のルソン上陸を「1月上旬末、リンガエン湾上陸、兵力5、6師団」と予測します。
そしてまさに、米軍は1月9日にリンガエン湾への上陸を開始するのです。
米軍の行動をぴたりと当てる堀参謀は、「マッカーサー参謀」と呼ばれます。


ルソン戦の途中、堀氏は再度大本営に転属になります。
大本営では、米軍の九州上陸作戦(米国名オリンピック作戦)を「米軍の九州への使用可能兵力は15個師団、上陸の最重点指向地点は志布志湾、時期は10月末から11月初旬の頃」と予測し、これが実にピタリだったようです。関東への第二次上陸作戦についてもピタリと当てます。

終戦後、堀氏は連合軍総司令部(GHQ)から呼び出しを受けます。行ってみると、「日本はなぜ米軍のオリンピック作戦をこれだけ正確に予測できたか。米国の暗号が解読されていたのではないか」という疑問に対する尋問だったのです。


戦後、堀氏は新設された陸上自衛隊に勤務します。
陸上自衛隊では、文官出身の自衛官が師団長や統幕議長になったりするのですね。そのような上官に対し、旧軍人出の錚々たる統幕の幹部たちは、節を曲げてまで平伏してしまう。堀氏は、昭和39年(1964)に退職を願い出ます。

(注1)支那:ATOKで変換しようとしたところ、「しな」で「支那」が出てきません。ATOKでこんなことは初めてです。外交上の配慮でわざと外しているのでしょうか。
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