弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

昭和天皇のお言葉

2006-07-21 00:22:58 | 歴史・社会
昭和天皇が1988年、当時の富田宮内庁長官に語ったお言葉のメモが突然公表されました。
「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに親の心子知らずと思っている
だから私あれ以来参拝していない、それが私の心だ」

2、3行目及び4行目後半はわかります。
「(松平宮司の前の)筑波宮司は慎重に対処してA級戦犯の合祀をしなかったが、終戦時の松平宮内大臣の息子である今の松平宮司がどう考えたのか、易々と合祀してしまった。松平(親)に比較し、松平(息子)の行動は親の心子知らずだ。」

1行目と5行目については、このような断片的なメモから、発言のご趣旨をどのように解釈したらいいのでしょうか。二つほど考えてみました。


「東京裁判で、平和に対する罪(A級)で有罪判決を受けた人たちが、有罪とされ絞首刑・終身刑に処せられたことが妥当かどうかはわからない。しかし、日本が国として東京裁判の判決を受け入れたのであるから、その人たちが祀られている神社を、天皇たる自分が参拝することなどできないではないか。
靖国神社は戦病死者を祀るところなのだから、軍人で死刑になった人たちはともかく、松岡(外相、判決前に病死)、白取(大使、終身刑、獄死)まで靖国に合祀するのはおかしい。
靖国神社には、命令に依って戦いに赴き死んでいった幾多の英霊が祀られており、私はその英霊に詣でなければならないのに、もうそれもできなくなった。」


「A級戦犯は悪い人たちなのだから、その人たちが祀られている神社を参拝することはできない。
日独伊三国同盟の首謀者である松岡と白取は許せない。彼らまでも合祀された。
靖国神社には、命令に依って戦いに赴き死んでいった幾多の英霊が祀られており、私はその英霊に詣でなければならないのに、もうそれもできなくなった。」

私は甲だと思うしそう思いたい。
そうでないと、昭和天皇はご自身の戦争責任についてまったく自覚されていなかったことになってしまいます。
明治憲法の下、統帥大権を持っているのは天皇お一人ですから、天皇がノーと言えば、日中戦争の拡大も太平洋戦争の開戦も防ぐことができたかもしれません。それを行わなかった不作為をどのようにとらえるのか。「当時の情勢で、そんなことできるわけなかった」というのが実感でしょう。そうであれば、A級戦犯として死んでいった大部分の人たちに同じことがいえます。
「お前らのみを死なせ、私だけ生き残って申し訳ないことをした」というのがA級戦犯に対する天皇のご本心であったと信じたいです。

A級戦犯として刑死した人たちのご遺族の中には、「天皇に累が及ぶのを防ぐために、何も言い訳せずに死んでいった」と考えている方たちが多いと思います。甲という解釈でないと、その人たちの気持ちを踏みにじることとなります。

しかし、メモの4行目の「平和」がどのような意味なのか。A級戦犯の合祀を昭和天皇が「反平和」ととらえておいでだったのか、よくわかりません。

新聞はタイトルで「不快感」という言い方をしていますが、この言葉だけでは上記乙を連想させます。曖昧なタイトルは使わない方が良いでしょう。

発言したご本人もメモした本人も故人となった現時点で、このような曖昧なメモが公表されることは残念です。公表するなら富田氏が存命中にして欲しかった、そうでないなら廃棄すべきだったのではないでしょうか。。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 特定侵害訴訟代理業務の研修... | トップ | 神田川と善福寺川 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (立花)
2006-07-22 07:43:48
 天皇もメモしたした富田氏も故人となっているからこのようなおかしなメモが作られるのではないでしょうか。メモは貼り付けてあったといいます。このメモを誰がいつ張ったか。このメモを誰が書いたかも吟味しなければなりません。
返信する

コメントを投稿

歴史・社会」カテゴリの最新記事