わが家にあるテレビは、97年頃に購入したソニーの平面ブラウン管テレビ(32型)です。ワイドテレビ(ハイビジョンではない)です。
当時、それまで使っていたテレビの映りが急に悪くなり、やむを得ず近所の量販店(サトームセン)に走りました。候補のイメージは全くありませんでした。
たくさん並んでいるテレビの大部分は湾曲型ブラウン管であり、ところどころに平面ブラウン管のものが置いてあります。湾曲型を見慣れているので、平面ブラウン管は何か変な感じです。
しかし店員に聞くと、「平面ブラウン管をお薦めします」ということで、半信半疑ながらそれを購入します。ソニーのWEGAシリーズでした。
このソニー製のテレビで当初から不思議に思っていたのは、画面に走査線が見えないことです。標準型テレビは縦方向に525本の走査線があります。32型であれば1本の走査線の幅が1mm前後になる計算です。それまでのテレビは、細かく見ると走査線が明確に見えました。
なぜ走査線が見えないのか、ずっと不思議に思っていたのです。
最近、本屋で次の本を目にしました。
近藤氏はデジタル高画質技術DRC(デジタル・リアリティ・クリエーション)の発明者であり、97年6月以降に発売されたソニーのWEGAシリーズ平面ブラウン管テレビに搭載されているという紹介記事が目に入ります。ひょっとしてわが家のテレビにもこのDRCが採用されているのではないか、と気になって購入した次第です。
結論からいうと、97年当時のテレビでDRCが採用されているのは、WEGA32型のハイビジョンテレビのみでした。従って、わが家のテレビは別の技術で走査線を見えなくしているようです。
ところで、ソニーの近藤哲二郎氏は、この本で「ソニー最後の異端」と称せられています。
ソニーという会社は、元気があり、有能な変人が能力を発揮できる会社であろうと勝手に想像していました。しかし近藤氏は、そのようなソニーにあっても異端であり、ずっと能力が認められず、10年程度不遇であったようです。
近藤氏は1949年生まれ、慶応大学工学部へ進み、ある無線機会社の研究所に就職します。しかし「他社がやらないことをやりたい」との希望が叶えられず、ソニーに転職します。
ソニーでは当初、森園正彦氏という上司に恵まれ、デジタル技術の研究を進めます。ところが森園氏が昇進し、さらに退職すると、近藤氏の理解者がいなくなります。近藤氏は、「話してわからない人には話さない」というところがあり、周囲は近藤氏を敵視する人ばかりとなります。あのソニーでもそうなのですね。
近藤氏は後のDRC技術の萌芽となる技術を作り上げていますが、誰も製品化に向けて協力してくれません。
1995年、ソニー社長が大賀典雄氏から出井伸之氏に変わります。出井社長は、社の方針を策定するため、自社が保有する特許の内容と保有者名(発明者名)などのリストの提出を求めます。そのリストで出井社長はおかしなことに気づきます。ある一人の研究者が、400件もの出願・登録特許を持っており、他を圧倒する数であるにもかかわらず、そのうち製品化されたものが1件もなかったのです。その研究者こそ近藤氏その人でした。
出井社長は近藤氏を呼んで話を聞きます。さらに出井社長は、すでに退職し、体調を崩して入院している森園氏を訪ね、近藤氏の評価を聞きます。森園氏は、近藤氏の才能がいかにオリジナリティにあふれかつ斬新であるかを詳細に説明します。一方で近藤氏に対する悪評も出井社長の耳に入ります。
出井社長のことば「要するに、もの作りは秩序がないとできません。だから、その秩序から外れると、辛い思いをする人もいるわけです。それで、近藤君も精神的に傷ついてきたと思います。ソニー(の社風)は自由闊達だと言われてきても、近藤君のような被害者意識を持つ社員が生まれるというのは、あんまり自由闊達でもないということですよ。」
「新しい技術が商品化されるには、経営トップのスポンサー(強い支持)が必要なのだけれども、それだけでは十分ではありません。私と近藤君の間にたってやってくれる精神的なエンジェル(支援者)も、必要不可欠な存在なのです」
出井社長は、当時専務の河野文男氏をあてます。河野氏は1996年、近藤氏を所長とする「アルゴリズム研究所」を設立してしまいます。
ソニーは1996年12月、他社に先駆けて平面ブラウン管テレビを商品化します。さらに97年7月、この平面ブラウン管テレビに近藤氏が開発したDRC技術を組み込んで発売するのです。
わが家にあるソニーのテレビは、同時期に発売された平面ブラウン管テレビではあるものの、DRC技術は組み込まれていないようなので、その実力をこの目で見るとこはできませんでした。
本によると・・・、99年クリスマス商戦、秋葉原家電量販店では「平面テレビの7~8割がソニー製です。特にDRCが搭載された『WEGA』シリーズの平面テレビは、他社のテレビではテロップの白い文字がちらついて見えるのに対し、ほら、ちらつかないでしょう。DVDを再生すると、画質が良くなっているののがよくわかります」と言われるほどの性能だったようです。
その後ソニーのテレビは、平面ブラウン管の成功によって薄型化戦略が遅れ、一時期テレビ部門が大きな赤字を出しました。2003年の「ソニーショック」でしょうか。
ところがその後、ソニーは薄型テレビであっという間に巻き返しを図ります。サムスンとの合弁で自前の液晶製造会社を持ち、「ブラビア」という新しいブランド名を与え、2005年に新製品を発売します。そしてその新製品はあっという間に市場を席巻し、ソニーはテレビで首位の座を再度獲得しました。
サムスンと合弁の液晶製造会社で、品質にこだわった良質の液晶を量産できたことも大きいでしょうが、近藤氏たちが改良を食え綿DRCによる画質の向上も販売促進に寄与したようです。
この本の第5章では、近藤氏がどのようにしてソニーの人材育成を行ってきたかが描かれます。近藤氏は、業務執行役員SVP(他の企業では常務に相当)に就任しますが、研究所での新人教育は徒弟制のように行います。求められる資質として、それまでに本人が成し遂げてきた業績を否定し(自己否定)、そこから新しい発想を生み出すことが要求されます。
ところでこの本のあとがきによると、この2008年4月、当の近藤氏はそれまでのA3研究所長の職を解かれ、「SS-A3プロジェクト室統括部長」に就任したそうです。降格人事に見えますが、ソニーの経営首脳は何を考えているのか、著者の立石氏は注目しています。
p.s. 2012.10.28
近藤哲二郎氏に関してはその後、以下の記事をアップしました。
出井伸之氏と近藤哲二郎氏 2009-10-14
ICC 4Kテレビと近藤哲二郎氏 2011-10-04
近藤哲二郎氏飛躍の時は来るか 2012-10-28
当時、それまで使っていたテレビの映りが急に悪くなり、やむを得ず近所の量販店(サトームセン)に走りました。候補のイメージは全くありませんでした。
たくさん並んでいるテレビの大部分は湾曲型ブラウン管であり、ところどころに平面ブラウン管のものが置いてあります。湾曲型を見慣れているので、平面ブラウン管は何か変な感じです。
しかし店員に聞くと、「平面ブラウン管をお薦めします」ということで、半信半疑ながらそれを購入します。ソニーのWEGAシリーズでした。
このソニー製のテレビで当初から不思議に思っていたのは、画面に走査線が見えないことです。標準型テレビは縦方向に525本の走査線があります。32型であれば1本の走査線の幅が1mm前後になる計算です。それまでのテレビは、細かく見ると走査線が明確に見えました。
なぜ走査線が見えないのか、ずっと不思議に思っていたのです。
最近、本屋で次の本を目にしました。
ソニー最後の異端―近藤哲二郎とA3研究所 (講談社文庫 た 64-4)立石 泰則講談社このアイテムの詳細を見る |
近藤氏はデジタル高画質技術DRC(デジタル・リアリティ・クリエーション)の発明者であり、97年6月以降に発売されたソニーのWEGAシリーズ平面ブラウン管テレビに搭載されているという紹介記事が目に入ります。ひょっとしてわが家のテレビにもこのDRCが採用されているのではないか、と気になって購入した次第です。
結論からいうと、97年当時のテレビでDRCが採用されているのは、WEGA32型のハイビジョンテレビのみでした。従って、わが家のテレビは別の技術で走査線を見えなくしているようです。
ところで、ソニーの近藤哲二郎氏は、この本で「ソニー最後の異端」と称せられています。
ソニーという会社は、元気があり、有能な変人が能力を発揮できる会社であろうと勝手に想像していました。しかし近藤氏は、そのようなソニーにあっても異端であり、ずっと能力が認められず、10年程度不遇であったようです。
近藤氏は1949年生まれ、慶応大学工学部へ進み、ある無線機会社の研究所に就職します。しかし「他社がやらないことをやりたい」との希望が叶えられず、ソニーに転職します。
ソニーでは当初、森園正彦氏という上司に恵まれ、デジタル技術の研究を進めます。ところが森園氏が昇進し、さらに退職すると、近藤氏の理解者がいなくなります。近藤氏は、「話してわからない人には話さない」というところがあり、周囲は近藤氏を敵視する人ばかりとなります。あのソニーでもそうなのですね。
近藤氏は後のDRC技術の萌芽となる技術を作り上げていますが、誰も製品化に向けて協力してくれません。
1995年、ソニー社長が大賀典雄氏から出井伸之氏に変わります。出井社長は、社の方針を策定するため、自社が保有する特許の内容と保有者名(発明者名)などのリストの提出を求めます。そのリストで出井社長はおかしなことに気づきます。ある一人の研究者が、400件もの出願・登録特許を持っており、他を圧倒する数であるにもかかわらず、そのうち製品化されたものが1件もなかったのです。その研究者こそ近藤氏その人でした。
出井社長は近藤氏を呼んで話を聞きます。さらに出井社長は、すでに退職し、体調を崩して入院している森園氏を訪ね、近藤氏の評価を聞きます。森園氏は、近藤氏の才能がいかにオリジナリティにあふれかつ斬新であるかを詳細に説明します。一方で近藤氏に対する悪評も出井社長の耳に入ります。
出井社長のことば「要するに、もの作りは秩序がないとできません。だから、その秩序から外れると、辛い思いをする人もいるわけです。それで、近藤君も精神的に傷ついてきたと思います。ソニー(の社風)は自由闊達だと言われてきても、近藤君のような被害者意識を持つ社員が生まれるというのは、あんまり自由闊達でもないということですよ。」
「新しい技術が商品化されるには、経営トップのスポンサー(強い支持)が必要なのだけれども、それだけでは十分ではありません。私と近藤君の間にたってやってくれる精神的なエンジェル(支援者)も、必要不可欠な存在なのです」
出井社長は、当時専務の河野文男氏をあてます。河野氏は1996年、近藤氏を所長とする「アルゴリズム研究所」を設立してしまいます。
ソニーは1996年12月、他社に先駆けて平面ブラウン管テレビを商品化します。さらに97年7月、この平面ブラウン管テレビに近藤氏が開発したDRC技術を組み込んで発売するのです。
わが家にあるソニーのテレビは、同時期に発売された平面ブラウン管テレビではあるものの、DRC技術は組み込まれていないようなので、その実力をこの目で見るとこはできませんでした。
本によると・・・、99年クリスマス商戦、秋葉原家電量販店では「平面テレビの7~8割がソニー製です。特にDRCが搭載された『WEGA』シリーズの平面テレビは、他社のテレビではテロップの白い文字がちらついて見えるのに対し、ほら、ちらつかないでしょう。DVDを再生すると、画質が良くなっているののがよくわかります」と言われるほどの性能だったようです。
その後ソニーのテレビは、平面ブラウン管の成功によって薄型化戦略が遅れ、一時期テレビ部門が大きな赤字を出しました。2003年の「ソニーショック」でしょうか。
ところがその後、ソニーは薄型テレビであっという間に巻き返しを図ります。サムスンとの合弁で自前の液晶製造会社を持ち、「ブラビア」という新しいブランド名を与え、2005年に新製品を発売します。そしてその新製品はあっという間に市場を席巻し、ソニーはテレビで首位の座を再度獲得しました。
サムスンと合弁の液晶製造会社で、品質にこだわった良質の液晶を量産できたことも大きいでしょうが、近藤氏たちが改良を食え綿DRCによる画質の向上も販売促進に寄与したようです。
この本の第5章では、近藤氏がどのようにしてソニーの人材育成を行ってきたかが描かれます。近藤氏は、業務執行役員SVP(他の企業では常務に相当)に就任しますが、研究所での新人教育は徒弟制のように行います。求められる資質として、それまでに本人が成し遂げてきた業績を否定し(自己否定)、そこから新しい発想を生み出すことが要求されます。
ところでこの本のあとがきによると、この2008年4月、当の近藤氏はそれまでのA3研究所長の職を解かれ、「SS-A3プロジェクト室統括部長」に就任したそうです。降格人事に見えますが、ソニーの経営首脳は何を考えているのか、著者の立石氏は注目しています。
p.s. 2012.10.28
近藤哲二郎氏に関してはその後、以下の記事をアップしました。
出井伸之氏と近藤哲二郎氏 2009-10-14
ICC 4Kテレビと近藤哲二郎氏 2011-10-04
近藤哲二郎氏飛躍の時は来るか 2012-10-28
以前、大学教授間の発明者争いとしてコメントした事件ですが、知財高裁で逆転判決が出ました。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080530105620.pdf
地裁の判決はなんだったでしょうか。
発明者が異端(偏屈)であった場合、その発明に製品化技術を付加して製品完成に至るのはとても難しいでしょうね。その場合、発明者を理解する上司なりトップが存在することが重要です。
青色ダイオードのケースは、地裁で会社側がまともな対応をしていません。私は高裁で事実がクリアーになることを期待していたのですが、和解となって闇に葬られてしまい、誠に残念でした。
地裁の三村裁判長が途方もない賠償額を示したのは、かえって中村修二さんに酷でしたね。
ご紹介いただいた判決、地裁判決と知財高裁判決の両方に目を通してみました。
元教授(原告)と、実際にガラスの発泡現象を発見した元修士院生(M)の供述が真っ向から反している中、地裁は元教授の供述を採用し、高裁はMの供述を採用した、という相違があります。
どちらもちょっと偏りすぎ、という印象がありますが、地裁判決の方が偏り方が激しすぎるように思います。
折角判決を読んだので、いずれ記事にしようかと考えています。
高裁判決の末尾に「裁判官三村量一は,差し支えのため署名押印することができない。裁判長裁判官飯村敏明」とありますが、「差し支えのため」は変わった表現ですね。