LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

四旬節 第二月曜日

2010-02-18 13:06:34 | Weblog
四旬節 第二月曜日 

 ルカ6・36−38

  
人間の歴史は、復讐と憎悪の歴史でもあり、怨念がいつまでも残って、民族の間で戦争が繰り返される。それも事実です。
敵を愛する。それは自分という枠の中に留まっている限りは不可能なことです。私にとって敵である者をも神が愛しておられ、その人のためにキリストは十字架につけられたという事実を思うとき、私たちははじめて敵を愛することができるようになります。どうしても赦せない、押さえ切れない憎しみがあったとしても、それは無理に押さえつけるのでなく、すべて神に委ねてみたらどうでしょう。神はきっと私に代わって、罰を与え、あるいは回心させてくれるに違いない。その神にすべてを委ねたらと思います。神の目で人を見、その人も神のもとにあり、神から愛された人間、神から救われるべき人間に過ぎないと確認する。神は私に代わってすべてご存じである方と確認する。そうするともしかしたら人を見る視点が変わってくるかもしれません。

四旬節 第二火曜日
マタイ23・1−12

福音書では律法学者、ファリサイ派の人々に真の権威について諭される言葉には考えさせられるものがあります。競争社会の中で生活している私たちにとって地位、名誉はとても魅力的にみえます。大分前のことになりますが、HIV(エイズに至るウイルスに感染する)裁判を思い出します。全国第一人者とされていた大学教授が、自分の権威を利用して、非加熱製剤(加熱処理しなければならない
のにしない)を患者に輸血し、エイズに感染させたという事件が大きく新聞やテレビ放映で取り上げられた。そういう決定に至った会議には違う意見も出されたが、出席した他の人は意見は無視され、会議自体は「見せ掛け」にすぎなかったことが判明されました。この事件で私は人間の地位が上になればなるほど名誉と力があればあるほどおごり高ぶる弱さをもっているように思いました。社会の最
前線で活動していない者でも人に認められたい、手柄をたてたい、誉められたい、多くの事を望む思いが心の底にあります。
キリストがいわれるファリサイ派、律法学者に「人に見せるための行い」と批判される時、私自身に対してもその通りですといわざるを得ません。自分の生活の指針としてキリストが「仕えられるためではなく、仕えるためしかもいのちを奉げるまで人に仕えるためである」という生き方をモデルにしているだろうか。キリストが仕える者であるならば神によって創られた私自身がキリストの心を心と
して僕にふさわしい生活を送るべきであろう。
一回でも多く小さな行いの中に真心をこめて人だけに喜んでもらうためではなく、神に喜んでいただくため、仕える心を抱く勇気を祈り求めながら毎日をキリストの道を歩んで行きたいと想います。(堺)
今日の福音で、イエスは、律法学士やファリザイ派の人々を批判しています。彼らは言うだけで実行しないからです。この批判は、そのまま私にもあてはまりそうです。私たちの行いの動機も問われています。どこかに不純な動機が潜んでいないでしょうか。ファリサイ派の人々と律法学者が、イエスの語られることを受け入れることができないのはなぜでしょうか。私は、唯一の師であるイエスの言
葉を聴く耳をもっているでしょうか。唯一の主であるイエス、あなたのみ言葉を聴くことを教えてください。sese07 

四旬節 第二水曜日   
マタイ20・17−28

 「人間、最後まで残るのは“名誉欲”である」と誰かが言っておりました。偉くなりたい、認められたい、人々から賞賛されたい、ほめたたえられたい、人々を自分の思い通りに動かしてみたい‥‥そういう思いは、弟子たちのうちにもあったのです。だから、ヤコブとヨハネの母がそのようにイエスさまに頼んだことを知って、他の弟子たちは腹を立てました。「抜け駆け(ぬけがけ)はゆるさん」といったところでしょうか。  偉くなりたい者は、仕える者になりなさい、と。‥‥これは、「偉くなりたいのなら、しばらく辛抱して、人々に仕えなさい。そうすれば偉くなれる」ということではありません。それでは昔のテレビの「おしん」のようになってしまいます。そうではなく、そもそも「仕える」ということが主イエスに従う者のあり方であるということです。ですから、「偉くなりたい者は、そのような思いを捨てて、仕える者になりなさい」ということになります。 

四旬節 第二木曜日   
ルカ16・10−31

富を自分のものだけにして、貧しい者への施しを怠るなら、必ず天の裁きがある。だから先延ばしせず、今すぐ回心し、富を良い目的のため用いなさい。惜しみなく施しなさいと言う意味です。
 さらに、回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。
 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。キラキラ輝いても過ぎ去る富と本当の富、価値あるものの区別、さらに日常生活は永遠のいのちにつながっていること、そして毎日のように私たちの読んでいる「モーセと預言者」(みことば)から来る光(キラキラ輝くこの世の富に目を取られて)を見分けることができなかったら、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにはつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
生きることは、すなわち旅することです。旅路には山あり谷あり、深い海、暗い森もあり、複雑怪奇(かいき、あやしかく不思議)
、危険に満ちた交差点も通ります。ある人は、リネン多彩で高価な衣服を纏い、他方、贅沢三昧な生
活に明け暮れ、あたかも何の苦労も心配もない生活をしているかのように見える人たちもいます。
一方ラザロのように生活しているホームレスのような人々もいます。
私達は、このような中で旅をしています。その中で主は、私に何を呼びかけておられるのでしょう。
どんな挑戦を受けているのでしょう。主よ、あなたの言葉を聴き、悟り、生きることができますように。sese07

四旬節第2金
マタイ21・33-43,45-46

ヨセフの物語(第一朗読参照)は歴史の中で何回も繰り返される。善と悪! その戦いは世紀に渡り継続しています。イエスは的をついた譬え話を使って真実を語るので、人々は反発し、傷付き、ついには抹殺しようとします。真理を語り、闇を照らす光は、闇に住む者にとっては邪魔だからです。イエスが、今日語られる言葉は、現代社会、そして私のどのような闇にどんな光を与えられるのだろうか。光を受け入れる準備はできているのだろうか。
主よ、あなたが語られる真理の言葉に心を開かせてください。sese07

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人間の強欲、力への渇望がこのような恐ろしい殺害にいたる。

 しかしこれは別に2000年前のユダヤ人のことだけを言っていると言うわけでもありません。人間はなんだかんだと言っても、自分の力・地位と言うものをより上に保とうとするものです。この世、社会の仕組みは、明らかに権力・力関係に支配されています。それは愛の場であるはずの家庭においてもまったく同じでしょう。夫婦の間でも、兄弟の間でも、また親子の間でも、いつもそのようなものが支配しています。たとえば夫が妻を虐待し、そのはけ口に妻が自分の子どもを虐待し、そしてその子どもは弟・妹を虐待する。そのようなことはとてもよくあることです。夫婦や子どもを自分の当たり前の持ち物と思い、感謝することがなくなるからです。
 しかし絶対的な権威者は神しかありません。そして配偶者や子どもは、親は、神様からこの世の生活の助けとなるため、愛の学びの助けになるために、一時的に神様から委ねられた、尊い預かりものです。けっして自分のものではないし、当たり前のものではない。自分の思い通りにならないから、虐待したり、無視したりしていい。そのようなものでは決してない。そのようなことをしたものは、神から預かったものを大切にしないために、神殺しに並ぶほどの大きな罪を犯すことになりかねません。
 神様は不信仰な人間を救いたいほどの愛そのものの方です。だから私たちが神の子イエス殺しをしたとしても、そのような私たちに対して、「この人たちは何をしているのか分からないから赦してください」と必死で祈ってくださるイエス様がいるのも事実です。だからこそ、私たちはそれほどまでの愛の方である神の独り子を殺してはならない。神様から託されたものを、本当に尊重し、大切にすることが必要です。この世はキリスト教にとっては、あまりに「現実的な世」なのですが、神様から借りていると言う意味では「借りの世」だからです。 

四旬節第2土
ルカ15・1-3,11-32

放蕩息子の譬え話は、有名な聖書の箇所で、登場人物は三人。一人は放蕩の末に父のもとに帰った息子、もう一人は、常に父のもとで真面目に忠実に仕えてきた息子。二人は対照的であっても、それぞれかけがえのない父の子です。そして三人目は、この物語の中心であり、大切な役割を演じる父です。
この物語をもって、神の心、神の愛とはどんなものであるかが啓示されました。まさに福音です。
私たちは、おそらく自分のなかに、この三人のそれぞれの部分をいくらか持ち合わせているのではないでしょうか。時によって、場合によって、割合は異なっているでしょう。大切なのは、いつもどんな時にも、神は無条件、無償の愛で愛し続けていてくださることを信じることではないでしょうか。それこそ父を最も喜ばせる子の生き方に他なりません。
主よ、あなたの無条件、無償の愛に感謝します。信頼をこめて委ねることを教えてください。sese07
 
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ファリサイ派 生きること 永遠のいのち
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