海鳴記

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日本は母系社会である(1)

2016-12-28 13:22:14 | 歴史

                   

         

                           (1)

 現代(げんだい)の日本(にほん)社会(しゃかい)の基層(きそう)には、母系(ぼけい)連鎖(れんさ)の流(なが)れが連綿(れんめん)として続(つづ)いている。あるいは逆(ぎゃく)に捉(とら)えれば、父系(ふけい)連鎖(れんさ)の観念(かんねん)が非常(ひじょう)に弱(よわ)い。だから、ほとんどの日本人家族(にほんじんかぞく)の三・四代前(さん・よんだいまえ)の先祖(せんぞ)がよくわからなくなる。また別(べつ)な言い方(かた)をすると、現在(げんざい)でも大多数(だいたすう)の日本人家族(かぞく)は、父方(ちちかた)より母方(ははがた)の親族(しんぞく)との結(むす)びつきがより強(つよ)いと思(おも)われる。

 

 私(わたし)は、幕末期(ばくまつき)から明治末期(めいじまっき)頃(ごろ)まで、政界(せいかい)の中枢(ちゅうすう)とは言(い)えないまでも、それなりに日本社会の支配層(しはいそう)を形成(けいせい)した薩摩藩(さつまはん)出身(しゅっしん)の一人物(いちじんぶつ)の足跡(そくせき)を追(お)ったことがある。名前(なまえ)を奈良原(ならはら)繁(しげる)<喜八郎(きはちろう>といい、幕末期(まつき)には藩父(はんぷ)・島津(しまづ)久光(ひさみつ)の信頼(しんらい)をえて、破格(はかく)といってもいい出世(しゅっせ)をしている。明治になると、一時(いちじ)、藩内(はんない)革新派(かくしんは)から守旧(しゅきゅう)派とみなされ逼塞(ひっそく)したこともあったが、やがて島津・忠義(ただよし)本家(ほんけ)や久光家の家令(かれい)となり、明治十一(じゅういち)(1878)年(ねん)、つまり西南戦争(せいなんせんそう)の翌年(よくねん)、大久保(おおくぼ)利通(としみち)の引き(ひ)で中央(ちゅうおう)政府(せいふ)入(い)りした。そしてすぐに、大久保らが掲(かか)げた殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)政策(せいさく)の目玉(めだま)の一(ひと)つだった安積(あさか)<猪苗代湖(いなわしろこ)>疎水(そすい)事業(じぎょう)<福島県(ふくしまけん)郡山市(こおりやまし)>の政府側(せいふがわ)責任者(せきにんしゃ)となったのである。        

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