海鳴記

歴史一般

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

日本は母系社会である(50)

2017-04-17 12:55:02 | 歴史

                           (50

 だが、(おもて)舞台から消えてしまったとしても、消滅(しょうめつ)したわけではない。

 ここで、私なりの視点(してん)から、この「変質」を考えてみたい。

 歴史家たちは、結跏趺(けっかふ)(ざ)して(未明に)政務を(と)る兄(大王)や、太子(たいし)の和歌弥多弗利(ワカミタヒラ?)を様々な人物に比定(ひてい)しているが、このことにさほど意味があるようには思えない。また吉本が言うように、たとえ、卑弥呼的な位置が皇后(こうごう)に代わったとしても、これもとりたてて問題になるようには思えない。なぜなら、当時、推古(すいこ)という女性君主であり、それを補佐(ほさ)し、実際に政務を執りしきっていたのは、聖徳太子((うまや)(どの)皇子(みこ))という男性だったからである。推古以前体制った天皇系統(けいとう)(ふ)33代推古は、30(びたつ)皇后(きさき)った

 つまり、母権的、父権的という大まかな捉え方をすれば、氏族的(あるいは前氏族的)なヒメーヒコ体制をこの時代でも、まだまだ引きずっていたと言えないだろうか。

 統治形態における母権制が、父権制に最終(さいしゅう)的に移るように見えるのは、奈良朝の末期の(こうけん)天皇(重祚<ちょうそ>して最後は徳<しょうとく>天皇)になってからである。から、母権制と父権制という視点からだけから言えば実際(じっさい)父権制への「移行」あるいは「変質」にはかなりの時間を(つい)やしたように思われるのである。

 それでは、邪馬台国における母権体制が、天皇制における父権体制にどのように(つな)がり、どのように「移行」あるいは「変質」していったのだろうか?

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 日本は母系社会である(49) | トップ | 日本は母系社会である(51) »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL