海鳴記

歴史一般

日本は母系社会である(45)

2017-04-05 11:54:51 | 歴史

                                 (45

 この結果どういうことが(おこ)るかというと、子を生む女性の重要さが相対的に(うす)れていったということになる。このことを吉本は、「共同幻想と<対>幻想を同一視(どういつし)する観念は(むじゅん)にさらされた」と表現しているが、子を生む女性の重要さがなくなったわけではない。では、共同体はこの矛盾を解消(かいしょう)するため、どうしたのだろうか?

 それは女性を農耕(のうこう)祭儀(さいぎ)として疎外(そがい)し、宗教的に祭りあげることにした、というのである。その一つの根拠として、縄文中・後期の遺跡(いせき)に女性を祭ったと考えられる土偶(どぐう)が多く発見されることあげているが、詳細(しょうさい)は別な機会に(ゆず)

 とにかく、その祭儀を媒介(ばいかい)として、子を生み、育てる個々の男と女の心の意識が集団の心の意識共有したときを<対幻想>と<共同幻想>同致(どうち)と言っているのだ。それだけでなく、子を育てる時間制の違いを意識しだしたことにより、男と女の<性>行為に、つまり「<対幻想>に固有(こゆう)な時間制を自覚するようになり、はじめて<世代(せだい)>という観念(かんねん)を手に入れ、<親>と<子>の相姦(そうかん)がタブー化された」のである。

 モルガンやエンゲルスらになぞらえれば、彼らが想定した、血縁家族は、こうして生まれたとイメージできる。最初に集団婚など措定しなくとも。

 さらに次の段階としては、(じつ)の兄弟・姉妹の相姦タブーから氏族制社会への過程(かてい)にはいる。吉本は、以下のように述べている。

 

 いまエンゲルスのいう通りに同母の<姉妹>と<兄弟>を、原始的な母系制の社会で純粋(じゅんすい)にとりだしてみたと仮定する。この両者(りょうしゃ)の間には普遍(ふへん)的な意味では自然な<性>行為、いいかえれば性交はないだろう。たとえあっても、性交があったとしても、なかったとしても<母系>制社会の本質(ほんしつ)には、どちらでもいいといった意味においてである。だがたとえ性交はなくとも<姉妹>と<兄弟>の間には<性>的な関係の意識は、いいかえれば<対なる幻想>は存在している。そしてこの<兄弟>と<姉妹>の間の<対なる幻想>は、自然的な<性>行為に基づかないから(ゆる)くはあるが、また逆にいえばかえって永続(えいぞく)する<対幻想>だともいえる。そしてこの永続するという意味を空間(くうかん)的に疎外すれば<共同幻想>との同致を想定できる。これはとりもなおさず<母系>制社会の存在を意味している。けれどこの場合でも同母の<兄弟>同志は<母>または遠縁(とおえん)の<母>たちが死んだとき<対幻想>としては全く解体(かいたい)するほかない。


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