海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・補遺(17)

2010-06-21 11:00:29 | 歴史
 以前、どこかで、島津久光の次男・久治が宮之城という地域の領主をしていたと書いたことがあるが、この川内川中流沿いの内陸の地は、久光がいた重富(姶良町)ほどではないにしろ、独特な雰囲気が感じられる。もっとも、これは現在の宮之城を見てそう感じているので、西南戦争の頃は、さほど他地域と変わっていたわけではなさそうだ。それは、重冨領の一部士族のように私学校徒に反抗し、その後かれらに殺されるような事件も起こさなかったし、宮之城士族の一部が官軍に寝返ったなどという話も聞かないからである。ただ、最新の郷土史は、『姶良町郷土誌』のようにできるだけ公平に書こうとしていることはわかる。姶良町のように、その地の出身者で官軍側に属した人物も書き加えているからだ。そして私は、この最新版の『宮之城町史』の中に、伊藤らだけがなぜのちのちまで問題にされたのか、という理由のヒントを見出したのである。 
 それはどういうことかというと、5月1日以降、宮之城、川内、出水方面は、城下士族の中山盛高が防衛を担当させられた。つまり、どうもかれが伊藤らの降伏に腹を立て、それを根に持ち、のちのちまで非難したのではないか、ということなのである。
 中山は、熊本、鹿児島の県境を守備する勇義隊の指揮長として、5月28日、鹿児島にいる貴島清(振武隊長)の救援要請のため、砲隊、銃隊9個小隊を率いて、鹿児島に向っている。おそらく、鹿児島で貴島の要請に応じたあと帰っても、県境は、精鋭の勇義隊や出水隊で充分守りきれると判断したのだろう。 
 だが、この判断は甘かった。6月11日、出水が陥落したことを知った中山は驚きあわて、すぐさま鹿児島から宮之城方面、川内方面へ斥候や兵を送り、自分もその夜、7個小隊を率いて川内に向った。
 ところが、6月11日以降、官軍の帰順勧告などもあり、この方面の薩軍部隊はボロボロになっている。そこに、17日の大規模な伊藤の寝返りがあったのである。 おそらく、中山には予想もできなかったことだった。しかし、もはやどうすることもできない。そして、これが中山にとって終生忘れられない恨みになった。
 そう考えれば、戦後もこれが尾を引く結果となったことは容易に想像できるであろう。このあとの中山の行動はよくわからないが、城山に戻って最後迎えたとしても、かれは自刃しなかったようである。また、戦没者名簿にないことを見れば、戦死もしなかった。隊長だったから、重い刑には服しただろう。しかしながら、最後には鹿児島に帰り、余生を送ったに違いない。伊藤の寝返りを非難しながら。


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