独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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  共謀罪のことなど,歩きながら             公園小父さん

2017-04-28 18:48:20 | 日記
 これも、公園内の図書館で最近読んだ本です。そのヘンリー・ミラ—の『回想するヘンリー・ミラー』の中で彼は、尊敬するノルウエーのノーヴエル賞作家クヌート・ハムスンと、友人の詩人エズラ・パウンドのことを語っている。二人とも自国の政府を批判したことで、精神病院に送り込まれたと云うのだ。ハムスンは病院内で『雑草の道』という素晴らしい本を書き病院を出てからも意気軒昂だった。パウンドの方はムッソリーニを擁護したため初めは監禁,その後精神病院に送られた。七年間の収容のあと釈放となったが精神的に参ってしまい別人に変わっていたという。打ちのめされ、くじかれてしまっていたという。何をきかれても、「わたしは何も知らない、何もわからない」と繰り返した。
 文章の終わりでヘンリー・ミラーも「今まで述べて来た悪口のせいで、政府がぼくを投獄するかもしれないと思う。冷たい独居房に横たわって、ただ死を待っているなんて、なんと恐ろしい運命だろう。しかし、それを現実の可能性だと考えるとき、連中がぼくのところに来ないうちに、おそらくぼくは死んでいるだろうと気づくのさ」
 江戸時代の画家や作家も、幕府をチクリチクリ批判したりしてご機嫌を損ねるものだから、手鎖の刑とかムチ打ちの刑をくらっている。
 これからの「思想犯」は軽微であっても病院送りの方が“与えるダメージ”が甚大だしまず復帰はないだろう、と権力陣は普通考える。なぜなら通例どおり欧米が先行していたものをそっくり頂いているから分かるのである。國、地方行政、医療機関は緊密に連絡し合い、人権すれすれの対応をとる。だがその人間の信用の回復は確実に喪われる。それが狙いである。その人間の言論、思想活動、人間関係は失われたまま、もとに戻ることはない。テロの定義も、思想の定義も、言論の定義もすべてあいまいにしたままであるから、本当にソンタクして、社員がワンマン社長の顔色を伺う様なそのようにして日常を暮らさなければならなくなる。小父さんの様に公園を歩いているだけの人間ならよいが、未来に夢を抱き、大きく世界へと自己実現を果たさねばならない若い人達にとっては、にがく苦しい時代がつづくことになる。しっかりと真の力をつける為の勉学にいそしんで欲しいものだ。

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