雑記帳

気になった本、
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オウム真理教(2)

2017年03月20日 | 日記
◆重要記事◆


サンマーク出版で出している「それでも生きていく(地下鉄
サリン事件被害者手記集)」という本の中のごく一部を要約
します。

  ◆

(事例1)20代、女性被害者
私は、事件当日、日比谷線に乗っていました。

ところが秋葉原と小伝馬町の駅の間で電車が止まり、
「築地で爆発事故がありました」
という車内アナウンスが流れたのです。

しばらくすると運転再開の見込みはたっていないという放送があったので、
私は会社に遅刻の連絡をするために電話を探しました。

電話は改札を出てすぐ左にあったのですが、
そこには人がたくさん並んでいたので、
別の場所を探してみようと思ったのですが、
電話は見つからず引き返しました。

そのとき、何か臭いを感じました。
その臭いは説明のしようがありません。
何かがおかしいと思っていましたが、
しばらくするとその臭いで息ができなくなりました。

そのうちに「異臭が漂っているので、みなさん地上に上がってください」
という駅のアナウンスが流れました。

まわりの人は口々に「臭い」と言い、押すように階段を上がっていきました。

階段を上がりきると、すぐ右側に旅行会社がありました。

その近辺には、ハンカチで口元を押さえて座り込んでいる人や、
うずくまっている人、道路の脇に吐いている人、倒れている人などがいました。

私も旅行会社の前で気持ち悪くて吐いてしまい、
それから動けなくなってうずくまってしまいました。

すぐ近くには、倒れて暴れている男の人がいました。

人が狂うほどに暴れる姿を、私はこのとき初めて見ました。

男性3人が必死に押さえていました。

でも、その人は、だんだん力が弱くなって、
泡を吹いた状態で動かなくなったのです。

後日、報道でその男性が亡くなったことを知りました。

視界が暗くなっていたのでよく見えなかったのですが、
私と同じ世代くらいの男の方が寄ってきて、
「大丈夫?」と声をかけてくれました。
私はボロボロ涙をこぼして泣いていました。
鼻水もすごく出てきました。
でも、悲しくて泣いていたわけではないのです。
自分でもわけがわからないのですが、
涙と鼻水がどんどん出てきました。
その男の人はハンカチを貸してくれて
「そんなに泣かないで、大丈夫だから」
としばらく慰めてくれていましたが、
私は辛くて返事をすることすらできませんでした。

自分の症状がサリン中毒によるものだという説明を受けたのは、
事件当日の夕方の5時ごろでした。

私はそれまで、築地駅の爆発物の臭いが小伝馬駅まで流れてきて、
それで具合が悪くなったと思っていたので、何でサリンなのか、
どうしてサリンなんか吸ってしまったのかと思うだけで、
何もわかりませんでした。

このとき一番ひどかったのは、頭痛と縮瞳(しゅくどう)です。

とくに縮瞳のせいで、視界が自分の顔の幅くらいしかないのです。

両目の幅くらいしか見えなかった。

また、医師が指を出して「何本に見えますか?」と聞くのですが、
それが何重にも見えるので何本だかわかりませんでした。

以前は健康だけが取り柄の私でした。
それが、事件を境にして、ガタンと体力が落ちてしまった。
多くの病院に通うことになってしまったのです。

数日後、済生会中央病院の眼科に行き、目の検査をひと通りやりました。
涙の量が少ないこと、片目に網膜はく離の兆候があること、
視力が落ちていることがわかりました。

もともと1.5くらいだったのが、0.4まで下がってしまったのです。

でも医師からは「これらの症状がサリンの影響だというのは断定できない。
因果関係がわからないので私には何とも言えません」と言われました。

聖路加国際病院の眼科にも行きましたが、
このときには網膜はく離の兆候が両目に見られる、と言われました。

症状は目だけではありません。
体が疲れやすく、ウイルスが入りやすいので、すぐに熱が出てしまいます。
朝は目が覚めても体が辛くて起き上がることができませんでした。
目も焦点が合わないときがありました。

「前例がないから分からない」の次に医師に言われたのは、
「体全体が老化している」でした。

目の焦点が合わないのは筋肉の収縮運動が老化しているから起こることで、
そのほかの体力の低下などもすべて老化だと言うのです。

事件当時の私は21歳です。

「老化です」と言われたときには、とてもショックでした。

私の勤め先は、地方に本社がある会社の東京支店でした。
当時担当していた仕事は、支店の20人ほどの社員のうち、
私しかできる人がいなかったので、体調が回復していなかったけれど、
会社に出勤しました。

事件後初めて出勤した日、私は自分のデスクを見て悲しくなりました。
休んでいた10日間にたまった書類が段ボール箱に入れられ、
それが2箱置かれていたのです。

手配しなくてはいけない書類が無造作に山積みになって入っていました。

もちろん会社の人たちは、私がサリンの被害にあって入院していたことを
知っていました。

人前で泣いたりしたくなかったので、トイレに行って泣き、
気持ちを落ち着かせてから仕事にとりかかりました。

私は入院していたときから、
しばらくはそれまでと同じ仕事量はこなせないと思っていました。

だから上司がお見舞いに来てくれたときに、
本社から応援を呼んでもらえるようお願いしていたのです。

ところが本社の人たちは
「東京に行ってサリン被害にあうのは嫌だから」と言って、
来てくれませんでした。
私に直接言う人もいました。
とてもショックでした。
私にはもともと負けず嫌いのところがあります。
手伝ってくれないのなら自分でやるしかないと思い、
結局はひとりで書類を処理し続けました。
でも、やはり体が辛く、会社を休んだこともありました。
それでもできるだけ行くようにして夕方の4時ごろから行ったこともありました。

4月、本社の会長から上司を通して「会社を辞めてほしい」と言われました。
理由は、仕事中に何か症状が悪化したりすると会社の責任になるから、
とのことでした。

私は今まで何のために一生懸命働いてきたのだろう、
会社はいらなくなると簡単にポイと捨ててしまうのだなと思いました。
直属の上司には、すぐに辞められたら困る、仕事の引継ぎが終わるまでは
いてほしいといわれました。


最初の頃はやさしく「大丈夫?」などと声をかけてくれていた同僚たちも、
だんだん態度が変わっていきました。
どうしても体が辛くて休んだ翌日、会社に行くと
「平日に買い物ができるからいいね」
と言われました。
そのときたまたま新しい服を着ていたせいもあるかもしれません。
事件当日に着ていた洋服がすべて焼却処分になってしまったために、
上京してきた母が買ってくれたものでした。

また、夕方に出勤した日には、必ずといっていいほど、
「いいねえ、重役出勤で」と言われました。

私は自分の仕事を中途半端なままにするのは嫌でした。
会社は7月が最も忙しくなります。
だからその前の6月いっぱいで自分の仕事を片付け、
きちんと引継ぎも済ませて辞めることにしました。

当時、私にとって一番大事なことは仕事でした。
残業代もつきませんでしたから、
真面目に働いていたら損してしまうような会社でした。
でも私は仕事がすごく好きだったのです。
大変だったけれど、好きだったからよかったのです。
残念ながら、会社には私の辛さをわかってくれる人はいませんでした。

サリン事件から約3ケ月後の6月に、私は2年3ケ月働いた会社を辞めました。


このころから、どうやっていつごろ死のうかと考えはじめました。
最も大事にしていた仕事を失い、会社の友達への信用もなくなりました。
健康状態は相変わらず不調で、外出したくても体が辛く、
行くとすれば病院くらいでした。

集中力がなくなり、すぐイライラしてしまうため、
好きだった読書や英語の勉強ができなくなりました。

両親や兄弟とも仲が悪くなりました。

事件から半年後の9月頃から精神科に通い出し、
精神安定剤を飲むようになりました。

精神科に通い続けて1年後の時点においても、
相変わらず頭痛や吐き気、めまいなどに悩まされ続けていました。

精神科では何か症状を訴えるたびに薬の量を増やされ、
一番多いときで、1度に20錠ほど飲んでいました。

このころから、体重がどんどん増えていきました。

とくに人より多く食べているわけでもないのに、
約20キロぐらい太ってしまいました。
恐くて不安で仕方ありませんでした。

もう通院しても治らないと思い、
精神科に入院して集中して治してもらうことを決め、
ひとりで手続きしました。

太ったのは薬のせいだと思っていたので、薬の量を減らしてほしいと、
入院した病院の先生に頼みました。

しかし、急に減らすことはできないと言われ、
私の体重はさらに25キロくらい増えました。

女性が妊娠してお腹が大きくなると、
皮膚が耐え切れずに肌が赤くなってしまう、
妊娠線が出ることがありますが、
私の肌にもそれが出てきたのです。

赤みを治すには皮膚移植しかないと聞かされたときには、
とても悲しかったです。

精神科での入院生活は苦しいものでした。

病棟の患者さんは皆、私より15歳以上年上の方ばかりで、
私のことをかわいがってくれるのですが、
度を越した異常なかわいがり方でした。

患者さん同士が同じ部屋に入ることは禁じられているのに、
おかまいなしに私の部屋に入ってきます。

「私のことをお母さんと呼びなさい。この人がお父さんよ」
などと言う人もいました。

無理やり一緒に外出させられたこともあります。

結局2ケ月間入院しましたが、
このまま病院にいたらどうにかなってしまうと思い、
退院することにしました。

その後、今の主人と出会いました。
主人は私をサリン被害者としてではなく、ただの私として見てくれました。
主人のおかげで、毎日を楽しく過ごすことができるようになりました。

事件から2年半経つ今も、眠れずに睡眠薬を飲んでいます。

病院、薬と決別できるようになることが今の私の目標です。



(事例2)50代、女性被害者
◆会社の同僚は仮病くらいにしか思っていません。

あの事件から2年半経った今も、私は病院から離れられない日々を送っています。

平成7年3月20日。
私は、いつものように7時30分頃家を出て、営団日比谷線に乗り、会社へ向かいました。

電車が秋葉原を過ぎると「爆発事故があった」との車内放送があり、
電車は動いたり止まったりして小伝馬町の駅に着きました。
そのうちに、私は何だか気分が悪くなってきました。
よくある貧血だと思っていたのですが、ホームに降りると息苦しくなり、
がまんできずにしゃがみこんでしまったのです。

誰かに「早く地上に出て下さい」と言われ、階段を上りました。
外は薄暗く、せきと吐き気で立っていられず、私は地べたに座っていました。
まわりにも気持ちが悪くて座り込んでいる方が大勢いました。
何が何だかわからないうちに、誰かに車に乗せられ病院に運ばれたのです。

病院は大勢の具合の悪い人でごった返していました。

私は解毒注射を打たれ、
眼科で瞳孔の回復薬を渡され、
「帰っていいですよ。通院してください」と言われました。

その日は会社を休むことにして、普通に電車で家へ帰ったのです。

ところが、夜になって突然、喘息のように呼吸が苦しくなり、
頭が痛くて眠れなくなりました。

結局、翌日から勤めを続けながらの通院生活を余儀なくされたのです。

注射、点滴、酸素吸入の毎日でした。

通院するうちに調子はよくなっていきましたが、しばらくすると、
再び激しい頭痛に襲われるのです。

ずっと下を向いて仕事をしている時や、
靴をはくのに頭を下げた時などに、
激痛が走るのです。

現在では、前頭部のあたりがドーンとするような重苦しい痛みになっています。

頭痛は特に季節の変わり目や、天気の悪い日などに多く、
それ以外でも、いつくるともなく突然やってきます。

私はこれまでに大きな病気をしたことがありません。
風邪などもほとんどひきませんでした。

頭痛が起き始めたのは、明らかにあの事件以降なのです。

ところが、病院でレントゲン、CTスキャン、
血液などの検査を受けても「異常なし」と出る。

頭痛の原因は解明されず、後遺症とも認められません。

それでも相変わらず頭痛は続いているのです。

事件後1週間くらいは、怖くてまともに地下鉄に乗れませんでした。
掃除をしたあとの新しい車両が入ってくると、地下鉄独特の臭いがします。
あの臭いがすると、衝動的に電車を降りてしまうのです。
気づくと全く自分とは関係ない駅で降りている、というようなことが度々ありました。

サリンの被害は、見た目にはわからないことが多いと思います。

外傷を負っているわけではないからよけいに、
被害者の苦しみや痛みをまわりの人に理解してもらうのは難しい。

私の会社の同僚を見ていると、本当にそれを実感します。

特にうちの会社は忙しく、いくら頭痛で病院に通っているといっても、
それが何日か続くと仮病のように思われてしまうのです。

勤務中にも度々頭痛に悩まされますが、
病院でもらう薬はほとんどが精神安定剤で、
それを飲んでしまうと眠くて仕事になりません。

できれば、サリンの被害者の健康状態を、
もう一度きちんと検査してくれるようなことがあるといいと思います。

医学的な解明が何もなされないままでは、この先どうなるのだろうと不安になります。

一生この頭痛と付き合っていかなくてはいけないのだろうか、と考えてしまいます。

その後、スポーツクラブに通い始めました。
前向きになって、まわりの人に理解されない自分の苦しい状態を乗り切ろうと思ったのです。
少しでもいい方向に自分をもっていき、苦しみを和らげたいと考えました。

インストラクターの先生は
「ほんのわずかでも頭が痛いことを忘れる時間ができれば
いいんじゃない?」と言ってはげましてくれました。

クラブに行ったあとは心地よい疲労感があります。
夜は疲れてぐっすり眠ることができ、
翌朝はさわやかに起きることができます。

運動を始めるまでは安定剤なしでは眠ることができなかったのに、
体を動かした日には、よく眠れるようになりました。

私はもともと楽天的な性格なのです。
今日嫌なことがあっても、明日にはケロッと忘れているところがある。
何でも切り替えが早いのです。
この性格は、後遺症を軽くするのに役に立っていると思います。

ダメだダメだと思っていると本当にダメになってしまう。
だから少しでも明るく楽しくやっていきたいと思うのです。

私のような辛い思いをしている被害者は、
他にたくさんいらっしゃるのではないかと思います。

私は、あの麻原を許すことはできません。

納得のいく重刑を裁判所にお願いする次第です。



(事例3)被害者の父親の手記
事件当日の朝、息子はいつもと同じ時間に家を出て行き、
いつもと同じ電車の同じ車両に乗りました。

でもその車両にサリンの包みが置かれていたのです。

病院から、家にいた妻に電話があり、
息子が事故にあったので急いで来るように言われました。

息子は集中治療室に入れられていました。
朝出かけたときとは違った姿で、酸素吸入器をつけていました。

意識不明の状態が続き、担当の先生は「ダメかもしれない」と言いましたが、
一命はとりとめました。

ほっとしたのも束の間で、
担当の先生は「植物人間になる可能性が高い」と言いました。

しかし、息子は意識も回復し、
会話も、自分で動くこともできるようになりましたので、
3ケ月後には退院することができました。

ところが、外見的には普通に見えますが、完治したわけではありませんでした。

意識が回復するまでの数ヶ月の記憶がありません。

ですから事件のことも当然覚えていません。

退院してから1年半くらいは、具合が悪くて床に臥せていることもありました。

今も病院で治療を続けており、徐々にではありますが、よくなってきています。

テレビを見たり、気晴らしの散歩に行ったりしていますが、まだ職場には復帰していません。

私も妻も、息子が早く元通りの生活に戻って欲しいと念じる毎日です。



◆本の案内
http://www.sunmark.co.jp/topics/20040201/frame_index.html

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(私のコメント)
この記事は、過去に、別のブログで書いた記事を、
短縮、修正して書きました。
元の記事は、こちらです。

http://blog.goo.ne.jp/candy5656/e/356b8a41b89b21f6f2256be2b198c324
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