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「沖縄戦をたどる~渡嘉敷島の集団自決2」No.1905

2017-03-29 22:11:54 | 我が心の沖縄

72年前というと自分とは関係ない遥か遠い昔のことだと思う人と、

たとえその時まだ生まれていなくても、

72年前が現在につながっている人がいます。

その分岐点の一つは、

その時代に生きた人たちを身近に感じられるかどうかだと思います

 

私はよく、文を読んでその時代の人たちの姿を心に描いたり、

写真でその時代の人たちの様子を見て、

急に近所の人のように感じたりすることがあります。

そんなことで時代を見る目と言うか、

時間に幅を持つ視点がちょっと得られる気がするんです

 

昨日、ブログに沖縄戦は本島上陸前、南の島々から始まったと書きましたが、

地図を見ると、南と言うより西南ですね。

この2月、那覇市内からタクシーで那覇空港に向かっているとき、

タクシーの運転手さんが

「こんど、慶良間諸島に行ったらいいですよ。私の故郷があります。」

と言って指さした方向を(ああ、南だな)と思い込んでしまいました

 

米軍が慶良間諸島の一つ、渡嘉敷島に上陸したのが3月27日。

これはネットで見つけた写真ですが米軍が撮ったものでしょうね。

日本側は、この時写真を撮ることなどできない状況だったはずですから。

 

 

昨日のレポートの続きです。

ここには、公式記録や書物の中には登場していないけれど、

今を生きる慶良間諸島出身の方々が本当に体験した言葉があります。

日本国家が始めた戦争で、こういう体験をさせられた人の声に

無関心でいることや、まして「嘘だ」などと言うことは、

犯罪だと私は思います。


沖縄・慶良間諸島68年目の「慰霊の日」強いられた死 遺族訪ねて

 ――うずみ火:栗原佳子

 (No.1904の続き)

同じ体験者として

 この日の慰霊祭に、座間味島出身の宮里洋子さん(72)=那覇市=が

初めて参列した。辺野古や高江へ通い、オスプレイの強行配備に抗議して

普天間基地のゲート封鎖行動にも加わった。

いまも週数回、早朝のゲート前に立ち、米兵や市民に思いを訴える。

 

「殺すのも殺されるのも真っ平ごめんです」。

原点には軍命令によって住民同士が手をかけあった島の記憶が原点にある。

座間味島では米軍が上陸した45年3月26日、住民の「集団自決」が起き、

177人が亡くなった。宮里さんは当時4歳だった


慶良間海峡を隔てて向き合う渡嘉敷島と座間味島。

それぞれ別の自治体で、定期航路もない。

島の体験は、なかなか共有されにくい。

しかも肉親や親戚同士が手をかけあう究極の悲劇。

宮里さん自身、体験者であることを公にしたのは、まだ最近のことだ。

 姉、弟、そして亡き母には首に傷跡があった。家では戦争の話はタブーだった。

 

米軍上陸の情報がもたらされ、パニックになった壕の中。

一発の手りゅう弾が炸裂した。

ほとんどの人は無傷で、さらに追い詰められた。

国民学校の校長が妻の首をカミソリで切り、「自決」。

民学校の教諭だった宮里さんの母もカミソリを手にした。

「死ぬのは嫌だ」。

宮里さんはそう叫んで壕を一人飛び出した。

 

トラウマに苦しみ

 父も国民学校の教諭だった。

「師範学校で洗脳され、島の人々を洗脳した」。

宮里さん自身、加害の意識が強く、それがなおさら口を重くさせた。

 

宮里さんは慰霊祭のあと、吉川さんの家を訪ねた。

「だんだんものを申せなくっていくのが怖い」。

思いは吉川さんと同じだ。特に教育の怖さは身に染みている。

 

宮里さんはずっと苛まされてきたトラウマについても打ち明けた。

夜中に叫んで飛び起きる。睡眠剤はずっと手放せない。

吉川さんも応じた。

「僕は子どもの頃、雷が怖かった。

雷が鳴ると、すぐ布団にもぐってしまうんで、

大人たちは『男の子がなんで』ってたんだが」――。

 

配られた手りゅう弾

 宮里さんはこの日、もう一人の体験者を訪ねた。

小嶺正雄さん(83)。持っていた手りゅう弾が不発、生き延びた。

手りゅう弾は「北山へ」という軍命令が出たとき、

防衛隊員が配っていたものだ。

『軍は手りゅう弾を島民に渡してない』などと言う人がいます。

でも当時、民間人が軍の弾薬庫から勝手に持ち出せるわけがないですよね

と宮里さん。自分がいた座間味の壕にも手りゅう弾があった。

民間人だけだというのに。

 

渡嘉敷島では日本軍による住民虐殺も相次いだ。

小嶺さんの妻の父もその一人だった。

「戦争は人間が人間ではなくなってしまう。

子や孫に事実を語り継いでいかないと」。

 

百二歳の祈り

 小嶺さんのお隣は北村登美さんの家だ。

102歳の登美さんは数年前まで一人暮らしをしていたが、

いまは那覇市の長男、盛武さん(71)宅に同居している。

 

後日、那覇の家を訪ねると登美さんは

「慰霊祭、私も参加したかったですよ」と残念そうだった。

毎年「慰霊の日」は必ず、白玉之塔に参拝していた。

8歳と5歳で亡くなった長女と次女に、会えるような気がすると。

「あの日も、母が、『行って来なさい』と送り出してくれたんですよ」

と盛武さんが言い添えた。

 

夫は出征中。義母と盛武さんら4人の幼な子を連れ、北山へ向かった。

登美さんは以前、伝令を聞いたとき、

「北山は避難場所として上等だと思って行きました」と話していた。

ところが待っていたのは「集団自決」だった。

 

盛武さんが仏壇に案内してくれた。

「上の姉は即死でした。下の姉は1週間くらい生きていて……。

上の姉は元気な姉で、空襲警報が鳴ると一番下の妹をおぶって

真っ先に防空壕に入りよったそうです」

 

親戚が輪になり、そこに手りゅう弾が爆発。

偶然にも登美さんは無傷だった。

瀕死の重体の叔父が「逃げなさい」と声を振り絞った。

叔父は、軍と同じ場所に行ったら逃げられないと察し、

行くのを躊躇していたという。

 

祖母に抱かれていた当時3歳の盛武さんも、

手りゅう弾の破片が尻に突き刺さった。

「『艦砲の食ぇーぬくさ(食い残し)』ですよ」。

体内に残る破片のため、いまもMRIの検査は受けることができないという。

 

我が子2人を失う辛い体験を、

登美さんが表立って語ることはなかったが、

2007年の教科書問題を機に口を開いた。

長老として慕われている登美さんが語ったことは、

多くの体験者の背中を押した。

 

「いまも『命令はなかった』という人がいます。

でも僕はいうんですよ。

『なかった』ではなく、『聞かなかった』ということだろう、と」。

 

盛武さんは柔和な顔を引き締めた。

 「二度とあってはいかんから。

未来永劫語りついでいかなくてはならんからね。

歴史を歪曲せず、事実は事実として語り継いでいきましょう。

そのことが平和につながるわけですから」

 

新崎直恒さん追悼の辞

 戦世の哀(あわ)り、忘て忘らりみ。

本村は大義なき先の戦争により、かけがえのない多くの命を亡くしました。

人生の道半ばに無念の犠牲を強いられた御霊の心情を察するとき、

遺族の一人として、いまだに怒り悲しみがこみ上げてまいります。

白玉之塔に祀られる御霊の安らかなご冥福を心から祈念し、

哀悼のまことをささげます。

 

当時6歳で幼稚園でした34人の仲間は、

3月の卒園と4月の国民学校入学を楽しみにしていました。

幼い人生の門出をかき消すように、村に戦火が迫り、

海上挺進第三戦隊の駐屯により、村の生活が激変しました。

民家への軍の駐留、運搬船や鰹船の徴用、軍への強制協力、

高鳴る空襲警報のサイレン、けたたましく迫るグラマンの爆音、

荒れ狂う大人の動揺、防空壕掘り、

食料や避難場所の確保等村民は恐怖の日々を強いられました。

 

父の2度目の出兵で、残された母と妹2人の4人家族の我が家は、

避難生活を親戚の家族と共に細々と送っていましたが、

イチャチチで偶然出会い、避難生活をお世話になった伊良波家の方々と

安全な恩納川に落ち着く間もなく、

軍本部近くの北山に集合するよう伝令があり、大雨の中、暗い山を登り、

激流の谷を下り、悪戦苦闘の末、安全な場所を求め、自分の足で、

自分の身は自分で守る、泣き言も言わず必死に大人の後を追いかけました。

 

少し遅れて北山の集合場所に着いた我が集団は、

大きな椎木(シイノキ)に覆われた広場の斜面の下側に陣取り、

久しぶりに友人とも出会い手を上げて合図し、

生きていることを喜びあいましたが、

先に来た人たちが我を忘れ大声で泣き叫び、地面をも泣き叩き、

異様な疾風怒濤の恐怖が眼前にありました。


突然、陣取った上のほうで手榴弾が爆発し、

空をかき消す悲壮の声と共に騒然となり大混乱となりました。

飛び散る血痕、頭部に破片が当たり半狂乱で倒れた女性。

言葉で言い尽くせぬ、

想像を絶する無惨な集団自決が地獄絵図として行われました。

 

運よく我が家族は、集団自決場では手榴弾が爆発せず無事でしたが、

29日の明け方、疲れきって眠る我が集団の中に、砲弾の直撃を受け、

不幸にも砲弾が炸裂しました。

この非情な砲弾の直撃で、愛する母と末の妹を亡くし、

片腕に傷を負った妹も後に亡くなり、

戦争孤児となった実感さえ知りませんでした。

戦世の大混乱の中、伊良波家の方々が守って下さったからです。

特に武夫兄さんのご恩は終生忘れることができません。

生きる力としての人間力が、この戦争体験で身につきました。

「東リ小嶺家」の登美叔母さんとともに、

無傷でナガンジュ皮の土手で捕虜になり、

まぶしい青い空を見ることができた感動は、

昨日のように思い出されます。

 

鉄の暴風と呼ばれた集団自決がなぜ起こったか。

軍命により北山に集められた。

海上挺進第三戦隊、船舶特幹隊の駐屯がなければ、米軍の上陸はなかった。

軍がいなければ、手榴弾は配られなかった。

手榴弾がなければ、悲惨な集団自決は起こらなかった。

そのことは歴史的事実であり、戦争責任は、すべて国家にある」

 

平和を希求する国際社会の一人として〈戦争を放棄し戦力を保持しない〉、

世界に誇れる国の最高法規である〈日本国憲法を擁護する〉ことが、

これからの平和国家の礎であることを御霊前にお誓いし、

追悼の言葉とします。

安らかにお眠り下さい。

―――うずみ火投稿日: 2013年5月5日 

下の写真は全てインターネット「渡嘉敷島集団自決」検索で出てきたものです。

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