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アイヌらしくなくなったアイヌ人のやるせなさ・・瀬川拓郎氏「アイヌ史における新たなパースペクティブ」(3・終)

2017-04-06 | アイヌ



簑島栄紀氏が編さんされた「アイヌ史を問い直す」の中にある瀬川拓郎氏の論文「アイヌ史における新たなパースペクティブ」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

瀬川氏はたくさんの本を出しておられますので、そちらもお読みください。



           *****

         (引用ここから)


●「アイヌ」の環オホーツク海世界進出

比羅夫の遠征を継起とするかのように、遠征後の7世紀後半以降、「オホーツク集団」の南下を排除した北海道には、東北北部から移住が侵攻し、「擦文文化」が成立する。

この北海道への移住は、9世紀ごろには途絶し、移住者は在地の「擦文集団」に同化したようだ。


しかし本州のとの交易はむしろ拡大した。

9世紀末には、それまで石狩低地帯を中心に展開していた「擦文集団」は、「オホーツク集団」が占める北海道東北方面へ、一気に進出した。

この爆発的拡大によって、北海道の「オホーツク文化」は、「擦文文化」と融合した「トビニタイ文化」に変容する。

「トビニタイ文化集団」は、「擦文集団」に同化しながら次第に縮小し、12世紀ごろには完全に「擦文集団」に取り込まれた。


「擦文集団」は、10世紀後半から11世紀には、オホーツク人が占めるサハリン南部にも進出した。

これらの動きは当時の本州で珍重されていた道東の海獣皮、大鷲の尾羽、サハリンのクロテン毛皮などの入手が関わっていたのだろう。


●和人との境界

古代から中世にかけて、交流が活発化するのと並行して、「アイヌ」と「和人」の文化は大きく隔たっていった。

近世末の「内陸アイヌ」は、鮭の産卵場を拠点としていた。

だがそれは、10世紀以降に始まった「干し鮭の移出」と深く関わっていたと見られる。

それ以前には産卵場に立地した集落はほとんどなく、また鮭が遡上しない川筋にも地域社会は成立していた。

つまり鮭は、どの時代においても当たり前のように大量に漁猟されてきたわけではないのだ。


最近発掘調査が行われた15~16世紀の遺跡では、大量のシカの骨が出土し、遺跡の存続期間中、交易のために、万の単位のシカが捕獲されていたと推定される。


日本海沿岸では10世紀以降、貝塚の構成がアワビやアシカなど、交易品となっていた特定種で占められるようになる。

近世の「川上アイヌ」の場合、70戸・300人ほどの人口で、狐800頭、カワウソ200頭、イタチ1000頭、ヒグマ160頭といった、莫大な量の毛皮を毎年出荷していた。

つまり〝自然と共に生きる"「アイヌ・エコシステム」は、10世紀以降に成立した、特定種の過剰な利用を組み込んだいびつな自然利用の体系であり、交易に適応するための生態系適応に他ならないと考えられる。

〝自然と共生する牧歌的な″「アイヌ」のイメージは、近世以降、日本の同化政策の下で、交易民としての性格をはがれ、農業を強制されながら、自給的に細々と狩猟漁労を行ってきた中で形つくられたものだろう。

10世紀以前の状態を「縄文・エコシステム」と呼ぶとすれば、近世以降の「アイヌ」は「アイヌ・エコシステム」から「縄文・エコシステム」に立ち戻ることを余儀なくされた人々だったと言えるかもしれない。



10世紀以降の人々は、商業狩猟・商業漁猟という特定資源に偏った生業が展開する中、鮭の産卵場が発達する草原地帯の低位段丘面に集落を構えていた。

集落群は、丸木舟によって日常的につながり、商品の集出荷という物流を軸として地域社会を成立させていた。

彼らは「川の民」であった。

10世紀を境とする、このような日常空間の劇的な転換は、段丘面と結びついていた「カムイ」や「墓地」の設定、「他界」のありかたにも大きな転換をもたらすことになった。

たとえば「アイヌ」の集落の守護神は「シマフクロウ」だったが、それは「鮭」を食料とする「シマフクロウ」のテリトリーと、低位段丘面の「鮭」の産卵場を占める「アイヌ」の集落が重なっていたことに由来するとみられる。



これに対して、近代に入植した「和人」の大規模開発は、中位段丘面で展開した。

粘土質の広がる中位段丘面は、水田開発の適地という、稲作民としての選択であり、「アイヌ」が暮らしていた低位段丘面は、水田には不適な土壌であったが、彼らはその低位段丘面に集められ、農耕を行うことになった。

サケ漁や仕掛け弓猟など、狩猟・漁猟活動の多くを封じられ、農民として自活することを強いられながら、彼らは〝二流の農耕民″として生きることを余儀なくされたのだ。

このような研究視点は、従来の「文化変遷」といった平板な「アイヌ史」の語りを超えて、地域固有の生態系と結びつきながら、一万年以上の時を生き抜いてきた「アイヌ」の歴史と知を解き明かしてゆくため、また民族的な変容の深さを探るためにも不可欠な視点と言えよう。


  (引用ここまで・写真(中・下)は「かみさまとシマフクロウのはなし」より、シマフクロウの絵)

             *****

子どもの頃に、「コタンの口笛」という、少年向けの小説を読んだことを覚えています。

改めてご紹介したいですが、そこに登場するアイヌの少年は、とても生気がなく、題名である「コタンの口笛」の、口笛の音色はとてもはるかから聞こえてくるように感じられたのでした。

生を受けた人々が、皆その人らしく生きることができればどんなにか自由で幸せであるだろう、と、子供心にも思ったことを思い出します。


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