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新聞記事に見る布袋さま・仙台四郎3・・七福神の由来(6)

2017-03-05 | 日本の不思議(現代)



引き続き、明治時代の布袋様、仙台四郎について書かれた大沢忍氏の本のご紹介を続けさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

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             (引用ここから)

その後明治の終わりか大正の初め頃に、仙台市にあった「千葉写真館」から、ただ一枚残された「四郎」の写真をもとに写真絵葉書が制作され、「仙台四郎」と命名され、複製され、配布された。

一般に普及する「四郎」の写真の原点となったのは、この「千葉写真館」が制作した写真絵葉書で、写真のまわりには、タイトルと教訓が記されている。

「明治福の神(仙台四郎君)

笑う門に福来る

泣いて暮らすも笑って暮らすも自分の心の持ち方なり

朝起き福来る

朝起き三文の特あり 朝寝して財産を造りし人なし

営業の繁栄は勉強と親切

十銭の客より一銭の客の方を大切にするよう努むべし

繁栄は成功の初めなり」


四郎は、不思議のままの福の神であった。

しかしその解釈がわからず、とりあえず商売の常識的な文言を入れてある。

他県からの客にも販売する目的で、「四郎」の紹介として書かれたもので、

名前も地元仙台の地名を冠して「仙台四郎」としたのである。

「四郎」の写真と共に、こうした「努力」の必要性がきちんと説いてあるところが面白い。


その後、写真の部分が引き伸ばされ、人々はその写真を飾ることで「福の神」を祭るようになった。

そこにあるのはどこかの民家の軒先で、生活そのままの日常スタイルで撮られた貴重な一枚である。

この「ご真影」により、生きながらにして「福の神」であった「四郎」の姿は、その死後も引き続き生きた姿のまま「お飾り」された。

そしてそのスタイルゆえ、常に生活感ある神様となったのである。


「仙台四郎」の写真は現在、表情の異なる数種類の写真が出回っている。

しかしいずれも、最初の写真を加筆修正したものである。

彼のご利益は、福の神としての四郎が浸透するにおよんで、たんに商売繁盛に留まらず、子育てなどを含んだ庶民の総合的な、そしてきわめて身近な「福の神」として受け入れられていった。

写真とともに、すなわち「お祀り」に必要な道具の出現とともに、「四郎」は「福の神」としての普遍的な形を獲得するにいたったのである。

仙台四郎の残した不思議な事実が、時代の中でその価値を獲得し、それが大きく成長していく発展の経緯は、当時の時代背景とともに理解する必要がある。

ともすれば、霊験の事実だけが独り歩きしがちであるが、「四郎」の「霊験」は自然発生し、人々から取り立てられる形で騒がれた。

「四郎」の「霊験」そのものを売り物として利する者もなく、ましてや「四郎」が自ら宣伝広告したわけではないことを合わせて考えると、その「霊験」にはきわめて純粋な価値があるのではなかろうか?

               *****

水木しげる著「神秘家列伝4」より

仙台四郎の福財布、大人気



               *****

仙台四郎は江戸末期から明治35年頃にかけて仙台に生きていたが、ちょうどその頃の日本の歴史、そして仙台の歴史は大きく移り変わっていった。

その時代はかなり革新的で、新しい時代であった。

なによりも「文明開化」の時代であった。

にもかかわらず、そうした時代に同時に存在した「霊験」が、一笑に付されて排除されるどころか、逆に人々が望み、受け入れていったのはなぜなのであろうか?

江戸末期、戊辰戦争により、旧江戸幕府軍として戦った仙台藩は、賊軍としてその戦に敗れ、明治に入り官軍の進駐を受けることとなる。

もともと旅館街であった国分町は、明治2年に許可をもらい、その官軍を主たる相手とする遊郭となり、その周辺も繁華街となった。

「四郎」のもてはやされた国分町かいわいは、こうした廓などの新興の繁華勢力を巻き込んで発展していった土地柄となる。

「四郎」を手招きで呼んだ料亭、遊郭、芸妓屋、旅館といった客商売の店店は、この繁華街にあった。

さらに官軍の駐留により大きな文化変動があったと思われる。

たとえば現在とは比較にならないほどに隔たりがあり、かなり通じにくかっただろうと考えられる双方の方言の交流などを通じ、ぶつかり合ったり、溶けあったりしながら、東西の新文化的雰囲気が漂っていたのではないだろうか?

それはあたかも第2次大戦後の米軍の進駐を受けた横しかの町の状況と比較して考えると理解しやすくなるであろう。


当時の新聞記事。

1・昭和10年(仙台新聞)

どこの車夫にや名は聞きもらせしが、車を引き行く途中、四郎に出会い、「やい、しろう、この車ひいていけ」と命じしかば、四郎は喜び勇んで飛び行くと、柳町あたりに至りし頃、

端より「これ四郎云々」と何かを見せければ、もとよりの至愚の大将なゆえん、何の目的もあらばこそ、「オー」と答えて車を突き放して行けば、乗りたるお客はそのまま、まっさかさまににひっくり返り、大怒鳴りに怒り出し、車夫は今さら言い分ける言葉もなし。

四郎推定年齢22才。

後先を考えぬ四郎の姿が、コミカルに描かれている。


2・明治11年10月18日(仙台日日新聞)

やぐら下の四郎(有名な馬鹿者)は、人々より金銭を与えられると直に食い物を買って使いすてるので、着物は破れても買うこともできず、ようやく一重一枚にて、この寒さをしのぎいるを、

娼技おきみは、見て不憫に思い、衣服をこしらえてやろうとすれど、身は苦界に沈んでいるから金銭も不自由ゆえ、余儀なく、四郎を呼び、種々説得して聞かせ、

「今からわたしが世話をして、衣服をこしらえてやるから、人々よりもらった金銭は少しづづなりとも、私のところへ預けておきな」、と言えば、

四郎も承知して毎日もらった金を預けおくと、およそ30銭の金がたまったゆえ、おきみは別に20銭の金を増し、50銭にて着物を買ってくれたとは、実にこの様な社会には感心なことでありまする。

              *****

水木しげる「神秘家列伝4」より

芸妓とのふれあい



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娼技と四郎の人情話。

四郎推定23才。

明治10年の素っ頓狂な面白話とはうって変わって、しみじみとした語り口となっている。


3・明治14年6月23にち(陸羽日日新聞)

やぐら下に名高き彼四郎は、久しく当区内に見えざるゆえ、いかにせしやを思ううち、昨日の「宮城日報」に、彼は塩釜駅にて帰らぬ旅路へ出率し、同市菓子座敷某主人が厚く埋葬なしたりとみえしか、

昨日の夕暮れ公園知にて、四郎に銭をねだられし人の現にありとし聞かば、その四郎は幽霊ならんか、何事もみないつわりの世の中に、死ぬるばかりはまことなりけりという古歌も、今はあてにならぬか。

四郎が死んだ、という誤報についての記事。

四郎推定年齢26才。

この時すでに、かなりの知名度を獲得していたものと思われる。

             
4・明治18年5月27日(仙台日日新聞)

二百五十祭に引き出したる新趣向。

まず、やぐら下四郎を音頭にちゃんちりきんの馬鹿囃子

えんやらやっと、引き出せしは、これぞすなわち二日町若者連の出し物にて。。


伊達政宗公没後250年祭で、四郎が山車の先導をつとめたという、四郎にとって晴れ姿の記事である。

四郎推定年齢30才。

四郎の音頭で馬鹿囃子としゃれている。


5・明治2年10月22日(東北毎日新聞)

四郎馬鹿 当市内に誰一人知らぬことなき四郎ばかは、毎度、停車場に来り、懇意な客人を見るときは同車を求むゆえ、福田辺までの切符を買い求め、同人が与えると、四郎はその切符にて白石または白河あたりまで行き、下車し、鉄道会社の役員が不足賃を求むると、同人は元より馬鹿のことなれば、

役員も正規の手続きをふみかね、迷惑することたびたびなれば、これがために停車場においては、決算上不都合のことも少なからざれば、以来は同人をして乗車せしめざるはずなり、とか。

切符を与えられると、その切符で区間外へ行ってしまうので、もう汽車に乗せないという記事。

四郎推定年齢36才。

鉄道は、明治20年に仙台ー上野間が開通している。

この記事から、四郎は白石、白河あたりまで放浪していたことがうかがえる。

            *****

水木しげる「神秘家列伝4」より

四郎、無賃乗車で旅をするの記事



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6・明治28年8月7日(奥羽日日新聞)

やぐら下四郎 当市有名なる四郎は、もっか福島町を徘徊し、例の「ばあやん」でひいきを受けている由なるが、貸座敷料理店のごときは、同人が舞い込めば商売が繁盛するとて、大切に扱いおるとは果報者というべし。

福島にいて、大切に扱われているという記事。

四郎推定年齢40才。


7・明治33年9月4日(東北新聞)

やぐら下四郎 当市名物やぐら下四郎はもっか、山形市の花柳下にもてはやされいるとか。

山形にいて、もてはやされているという記事。

四郎推定年齢45才。


四郎の所在までが簡単ではあるが、新聞記事となっているところを見ると、その人気ぶりが伺い知れる。


             (引用ここまで)

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その後、前記事にご紹介したように、若くして亡くなった、という記事があり、しかし、行方知れずになった、大陸に渡ったなどという説もあるそうです。


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