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毘沙門天と牛頭天王・ゾロアスター教のミトラ・宮崎市定氏(3)・・七福神の由来(9)

2017-03-13 | 日本の不思議(現代)


東洋史学者・宮崎定市氏の、毘沙門天についての文章のご紹介を続けさせていただきます。

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                *****

             (引用ここから)

●福伸としての毘沙門天

ミトラはペルシャのゾロアスター教における「日神」であり、同時に「勝利の神」である。

ペルシャのササン朝の滅亡、アラビア人のペルシャ征服によって、ゾロアスター教は大弾圧を受けたが、ミトラ教はなおイスラム世界において存在を続け、

ミトラの祭日ミヒガンには、各地において盛大な祭礼が行われ、いたるところで市場が開かれて、群衆が雲集した。

ここにおいて、「戦勝の神」は、「商業の神」と変化したらしい。


中央アジアおよび中国における毘沙門天も、最初は「勝利の神」であった。

しかし、その裏面には、「財宝神」としての性質を多分にそなえていた。

勝利と財宝は、実際のところはつながりがある。

遊牧民の社会においても、勝利ののちに来るものは、人畜財宝の掠奪であり、統一された国家組織のもとにおいても、戦の労に報いられるのは賞賜であった。

唐代以後、中国にはようやく資本主義の興隆を見るが、これには西域との交通、中でも、アラビア人に追われたペルシャ人の移住が、重大な役割をつとめている。

ペルシャ人が蓄財に長けていることは、当時たいへん有名なことであった。


「福」という字をもって、すべての好ましいことを代表させ、その「福」を追求するという風習は、大体において唐代頃から始まったことではないかと思われる。

それは地名に「福」の字をあてることが、唐代になって最も多く行われたことからもわかる。

年号に「福」の字を用いることは古代にはけっしてなく、唐に至ってはじめてあらわれるのである。


「金光明経」において、毘沙門はすでに護国の神である以外に、財宝神としての性質を濃厚にしていた。

「偽経・毘沙門天王経」はいつ制作されたものか、定かでないが、利益安楽、豊穣財宝の福神となっている。

宋代の解説書には、「毘沙門」の別名「多聞天」の意義を解して、

「毘沙門、その王、もっとも 財宝の物に富み、自然に衆多の人が聞くがゆえなり」、と説明している。

かかる「軍神」から「福神」への転化については、同時に中国にとって、毘沙門の本地ともいうべきホータンよりたえず影響が働いていたらしく、

それは五代以後のホータン王が、自らの財宝の主たる称号をつけていたことによって、その守護神たる毘沙門の「福伸」性が想像されるのである。




●日本における毘沙門信仰

毘沙門天の信仰は、中国から我が国へ輸入されたが、最初ははやり四天王の一体としてである。

聖徳太子の守屋征伐に、四天王が霊験を現したため、聖徳太子が四天王寺を建て、奈良朝に入って諸国に国分寺が建てられたことはあまりにも有名である。

このようにして、四天王より独立した毘沙門天だけの信仰が伝えらるようになった。


ついで、坂上田村麻呂が延歴年間に、鞍馬の毘沙門天を創ったこと。

「扶桑略紀」には、円仁が唐から帰朝の際、海上にて不動毘沙門が現れ、守護したと伝えられる。

「神皇正統録」によれば、延喜10年、河内国・信貴山に毘沙門が出現したといい、この時代は、中国では五代後染の初期にあたる。

中国の宋代は、日本の平安末より源平時代をへて、鎌倉の初期にわたるが、平清盛が源氏調伏のために五尺の毘沙門天を造営したという。

一方、平清盛が源氏調伏のために毘沙門に供養すると、他方、源氏でも牛若丸が鞍馬の毘沙門に祈願して、父の恥をそそがんと志し、天狗の力を借りて武芸を習ったりしている。

毘沙門は源平を問わず、当時の武将に信仰されていたものとみえる。

「太平記」の時代は中国では元末にあたるが、楠木正成はその母が信貴山の毘沙門に百日詣で授かった子なので、幼名を「多聞」と称したとある。

ついで室町時代に入って、毘沙門信仰は広く民衆化されて、「七福神」というようなものもでき、毘沙門もその中に取り入れられて、その信仰は現代にまで続いている。


今日、京都付近でもっとも有名な毘沙門の霊地は、鞍馬と信貴山であるが、両者の系統は少しく異なる。

鞍馬の毘沙門天は延歴15年、坂上田村麻呂が創建したものと伝えるが、また他の者が、毘沙門天像を発見し、大蛇に飲まれそうになった行者が一心に祈ったところ、たちまち大蛇が死んだので、朝廷から50人の人夫を出してもらって征伐し、その地に埋めたいう縁起を持つ。

この「蛇」と毘沙門天の話は、中国の仏寺もしくは土俗神たる天王堂の系統を引いているものと思われる。


「鞍馬の天狗」とはいかなるものかについては、諸説紛々として定まるところをしらないが、わたしの考えでは、やはりこれは毘沙門天と離すべからざる関係があるものである。

元来、「天狗」は星の名であって、別に怪異なる霊獣ではない。

「宇津保物語」に

はるかなるやまに たれか物の音しらべて 遊び至らん てんぐのするにこそあらめ

などとある。

「てんぐ」は、かなで書かれていて、むしろ「天人」のごときものを指している。


また、「天人」と近い意味で「てんぐ」の音を有する漢字に「天供」という字がある。

「偽経・毘沙門天王経」に、

また法もってこの温和護摩 領天供四万人を領してかならず来る とあって、

この「天供」は、毘沙門天の部下の軍隊、天兵の意味である。


敦煌発見の渡海天王像を見ると、毘沙門天の前後に数人の羅刹形の隋者がいる。

いわゆる空中を飛行する、こうもりのごとき羽をつけた鳥で、鼻がとがっていて、最も後世の天狗に近い。

これらがすなわち「天供」であって、「鞍馬の天狗」とは、実は毘沙門天の神兵なる「天供」の当て字にすぎない。

「宇津保物語」の「てんぐ」は、かかる者を指したのであろう。


次に信貴山については、楠木正成が大和に城を営む時に、以前に毘沙門堂があったので、これを城郭守護のために安置したものである、という。


この他にも、毘沙門信仰が日本に残した足跡と思われるものに、祇園の「牛頭天王」がある。

京都祇園寺の本尊は、かつて毘沙門天だと思われていた時代があるらしい。

毘沙門天信仰の盛んな時代には、「天王」といえば毘沙門天王を意味した。

しかして「牛頭」とは牛頭山の省略と思われる。

毘沙門の本地ともいうべきホータン国には牛頭山があって、そこの伽藍を毘沙門天が守護していることがホータン国史に見えている。

また、毘沙門天が白色の牛になった、などの話もあって、毘沙門と牛とは非常に密接な関係がある。

これはおそらく毘沙門がミトラ神である本姓を暴露する一つの証拠となるものである。

欧州に伝わる「ミトラ」は、ほとんどすべての場合と言いるるほど、若者の形のミトラが牛にまたがって、これを殺している形に彫られている。


牛頭山天王は朝鮮にもあって、太白山を牛頭山と称するという。

奇妙なる牛祭りの風習もまた、西方におけるミトラと牛の犠牲の風習を想起させる。

祇園寺においては、「本朝神社考」に、祇園縁起をひいて、

天竺国に国あり、九相となずける。

その国に園あり、吉祥となずける。

その園中に城あり、城中に王あり

牛頭天王と名づけ、また武塔天神と名付ける。

女を娶りて妃となす。

とあり、吉祥とはホータン国史に毘沙門の妃とされ、宋史ホータン伝には、吉祥来朝の記事がある。

はなはだ混乱しているが、毘沙門天の気配が感じられるのである。


さらに京都祇園寺に隷属している「犬神人」なる卑民があり、「毘沙門経を読誦しつつ米銭の喜捨を得て歩いた」ということが書かれている。

かつては、祇園寺の本尊は牛頭山天王、すなわち毘沙門天王であると信じられた時代があったに違いない。


●イラン文明と日本、中国

仏教がインドを発して、中国、日本に到達するには、真空の中を来たのではない。

北方より来るには、中央アジアを通り、南方より来るには馬来南陽を経て来たのである。

そして、中央アジアは古来ペルシャのイラン文明の影響が深く浸透している土地である。

たびたび北方から土耳古(トルコ)系統の遊牧民族が侵入しても、唐代に回きつ(モンゴル)が南下するまでは、彼らは土着のイラン人を土耳古化(トルコ化)するよりも、むしろ彼ら自身がイラン化されていたのである。

インドの仏教は、実にかくのごときイラン文明の地を通過し、イラン文明の洗礼を受けた後に、極東に到達したのである。


単身、中インドのマガタ国を出発した釈迦は、中国に到達した時には、曼荼羅を作って整理しなければならないほどの、多数の眷属を引き連れて来たのであった。

わたしはその眷属の中に、多数のイラン的なものを感じざるをえない。

のみならず、本尊の釈迦仏そのものまでがイラン化して、「大日如来」のごときものに変化したことを認めるのである。

そこで、わたしは随従のイラン的護法神の一例として、ここに毘沙門天を取り上げてみた。

中国社会の変遷は、それ自体の発達と共にまた、絶えず外方より刺激・影響を受けて発展してきたと考える。

           (引用ここまで)

写真(下)は、「古寺巡礼・西国」より、毘沙門天像

             *****

大黒様も、弁天様も、福禄寿も、布袋様も、毘沙門天も、みんな渡来の神々である、と深く思うことは、日本の文化を考える上で、とても大切なことだと思います。

「お正月には七福神めぐり」、、古き良き文化を、こうして受け継いでいることを幸いに思います。

歴史の深層が、すぐ目の前にあるのですから。。

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