ONE'S HEARTS

観た映画のレビュー、アニメなどサブカルについて書きます。

シッコ

2012-05-09 12:05:02 | 映画 ★★★★
ルールやモラル無き医療は崩壊する悪しき前例であり、アメリカの医療業界の現状が余す事無く、被保険者つまりは国民の目線から描かれている。アメリカの医療とは、最先端であり、高度医療も発展した世界屈指の医師達が集まり、エリートとして世界の1%の人口であり、世界の富の80%を握るという富裕層への道が開けており、つまりは、才能と努力によって成功する事ができるアメリカンドリームの体現者となっている。アメリカは、能力主義の超大国であり、才能に恵まれた人材が生きるには、最高のユートピアであるが、同時に、中間層を含む、以下の多くの人間の利害を犠牲にするディストピアでもあり、先進国と後進国の格差、南北問題など、世界情勢を背景とした人口国家でもある。シッコとは、「狂人」の事であり、権力によるテロ、反権力のテロ双方を狂気じみた行動として、批判している。アメリカでは、国民皆保険は崩壊し、高齢者や低所得層向けのメディケア、メディケイドなどの貧弱なセーフティネットや、高額な民間保険に依存せざるを得ない状況である。セーフティネットとは、そもそも社会の競争から零れ落ちた敗者や貧者を守るためにあるもので、排除するためのものではない。必要最低限の医療を守る上で、共通・応益・適切な公的医療が必要なのは当然であり、一元化されたサービスが必要である。アメリカの失敗は、頂上であるべき医療現場に対して、外野の野次馬である保険企業がフリーライドし、アンチ利権というべき、汚く姑息で卑怯なビジネスモデルを打ちたて、成功している事にあり、彼らこそが医療崩壊の最大の敗者であり、戦犯である。ブッシュ前大統領やニクソンの映像も登場するが、医療崩壊の原因は、政府決定によるものだが、元々、アメリカには、保険企業が市場に跋扈して、強い影響力を持ち、政策に関与していた事が挙げられている。医療民営化に対する監査体制の不備と、地域病院の不備、利潤に対する法規制の不備など、が指摘されているが、その動きに拍車を懸けたのが民間保険への国家依存であるという。最大の決定権を持ち、自尊すべきは医療関係者であり、補完的役割であるはずの保険が医師の判断にまで干渉するというのはあってはならない。

医療の規制緩和、つまりは、段階的な混合医療の導入が問題であり、筆者の別ブログでも指摘(BLOG RYU:混合医療)して来たように、混合医療とは、保険の混乱をもたらし、富める者にまで公的保険が行き渡る不公平サービスである。日本においては、先端医療に対しては、東京や大阪などの首副都設立の高度病院など、特区を作り、それ以外の田舎には、公的医療のレベルを保つべく、ユニバーサルサービスによる地域病院を維持すべきである。それによって、都が特別扱いという事になり、地方の地域病院はゲートキーパーとしての役割を継続する事ができる。アメリカでは、これが全土で起こった事に失敗の始まりがある。州法による格差はあったが、政府によるマージン規制の撤廃など、全体の形勢を悪くする思惑と動きが根底にあったのである。

アメリカと対比的に、カナダ、イギリス、フランス、キューバなどが登場するが、いずれも国民皆保険を維持しており、国民の生きる権利が守られている。フランスが特別なのではなく、政策として西側陣営は、現在の日本も含めて、優れた医療サービスを敷いている。(国民皆保険

公的保険は、不慮の疾病・負傷などの緊急時だからこそ、必要とされるものであり、患者の選別こそが、批判されるべき医療過誤ではないか。医療のレベルを上げる目的で、民営化は重要だが、問題は監査体制が無い事であり、監査ビジネスは、利潤目的ではない、政府が公共サービスとして進めるべき事だが、それも指摘して来た事だ。(医療監査)アメリカでは、監査は医療ではなく、患者の側に注力され、利潤を最優先するビジネスモデルが打ち立てられたが、それも、サービスの全てを市場に委ねる、という、丸投げの政治姿勢による市場原理主義によるもので、見直しが進められているのが、現在の政治情勢である。つまり、医療サービスの拡充を社会主義的だというのは、的外れもいいところであり、アンチ利権をむさぼる敗者の理論である。保険業界の権力の歪な肥大化によって、医療サービスは被保険者にとって、交渉ありきの不思議なセーフティネットとなり、儲かるのは、保険企業や弁護士など、システムを支える既得権勢力である事には、構造のからくりを垣間見る想いである。医は仁である、というのは、日本独特の規範意識であるが、日本の歴史を担って来たのはエリートであり、彼らこそが、規範意識を持つべきであり、最高レベルのセーフティネットである社会保障は、緻密な政策デザインも必要であろう。
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グッドモーニング,ベトナム

2012-04-29 22:56:39 | 映画 ★★
ベトナム戦争の大義無き戦いに邁進するアメリカと、世界的紛争の現場に派遣され、軍放送のラジオDJとして、辣腕をふるうエイドリアン・クロンナウアという国家と個人との対立を、大統領すらジョークのネタとする自由な言論と、軍機密による国家の利害とを擁護する組織とのメディア上の戦いとして描く、痛快な作品である。ベトナム戦争においては、ベトナム側は30万人が死亡したとも言われており、その多くがベトコンではなく、そう見なされた民間人であったとされる。ソンミ村(ミライ)虐殺事件にあるように、ベトナム人を人と見なさず、屍肉に群がる残虐なハゲタカの如く、多国籍軍側の手による虐殺が起こり、損害の甚大さから、アメリカにおいても、反戦運動のきっかけとなった道義上、問題のある侵略戦争であった。大戦とは違う、パールハーバー奇襲などを受けた自衛ではなく、純粋な大国としての利害に基づく戦争であり、国家のパワーを示すのと同時に、旧宗主国であるフランスなどとの共闘による、西側陣営の意向だけが重視されたものであり、新らしさ、や、自由と民主主義のため、などの、使い回された大義名分を掲げる大国の愚かしさの発露であり、国際世論が如何に怪しげなものであるかが分かるものである。

単独行動主義ではないが、東側陣営に対するNATOという利権集団が強権と猛威を奮っていた古き戦争の時代が、大戦後も続いたのであり、朝鮮やベトナム、中東・アフリカ戦争など、枚挙するいとまが無い。ベトナムについては、ホー・チ・ミンによる自由選挙に基づく共産主義政権の誕生によるアジアへの共産主義ドミノを恐れ、フランスが軍事的圧力を加えたのに続いて、朝鮮戦争を終えたアメリカが全面介入する事になる。最盛期には50万とされたアメリカの圧倒的兵力や、北爆による絨毯爆撃や焦土戦術をもってして、北ベトナムを屈服させる事はできなかったが、アメリカの方針は非常に強硬であり、無差別殺害したベトナム人の損害は数えずに、アメリカ兵の損害のみをもって、戦況評価を行った。膠着を打ち破り、アメリカと共闘する南ベトナム軍を戦力として事実上破綻させた1968年正月のテト攻勢を分岐点として、前線の戦場となったほぼ全域において、北が優位となる情勢を築く。アメリカにとって、南ベトナムは共闘する同盟勢力であったが、本当の友人であったのか、裏切りを画策する最後の敵は居なかったのか、をDJとして活躍するクロンナウアが、個として、情報を強力に発信し、ベトナムの地で出会う人々とのやり取りから読ませる展開となっている。

軍隊にとって、情報局は最重要であり、特に、大戦後、日帝を打ち破り超大国となってからは、アメリカが関与する戦争の多くは、情報戦によって、もたらされた。影が多い情報局の中でも、表立ったラジオは陽であり、クロンナウアのような、放言癖のあるDJを使うのは、軍隊にとっては諸刃の剣でもある。クロンナウアと、上官であるハゲのホークや、冷酷なディッカーソンなどの軍隊の権威派とのやり取りは、まさに戦いであり、彼らにはそれなりに、軍隊を預かる者として、筋の通った意見を言っている。猿山の大将の如く、権力闘争ではなく、ベトナムの最前線にある軍隊の士気の弛緩や、ジョークの煽動による油断を最も恐れ、少しでも損害を防ごうとするために、軍隊の序列や命令系統の絶対化を志向しているのである。対する、クロンナウアは、沈黙する事は死人に等しい行為であり、今を生きているのである。つまり、自由な言論を守る事が、生命を懸けた行動であり、銃弾が飛び交う前線における兵隊と等しい覚悟があり、それだけの言論に対する防衛作業をするだけに足る、人格者であり、糞左翼ではないのである。

ベトナム戦争の失敗の始まりは、大義無き戦争であった事であり、クロンナウアには安全保障や国益に対する自衛意識は無いが、直接的な軍事力に対する自衛意識はあるだろう。つまり、本質は愛国者であり、麻薬をやりトリップ状態で酔狂の政治的主張をするようなヒッピー連中とも隔絶の差があり、国家が誤った方向性に進んでいる事を見抜いたがゆえの理由ありきの言動である。彼らの利害は真っ向から対立しているが、クロンナウアのような硬骨の士は、正当性があり、国家が危機に瀕するような戦争が起きたならば、最前線に立つ事を恐れない硬骨漢ではないか。つまり、統治・戦略を担う情報局であれ、軍全体の事を考え、リスク回避をするという意味では、官僚的ではあれ、ホークらも立派な軍人であるのである。また、クロンナウアの言動は、軍ラジオを通した情報発信が主たる任務であるものの、自軍のみを考えたものではなく、ベトナム人の非戦闘員や、敵すらも相手にした言動であり、それが、本来のあるべき報道の姿ではないか。つまり、国連安保理などが近年進める事になる、情報戦略における国連情報局を先取って、紛争地域の情報を冷静に分析・評価して、陣営に分かれない報道をしているのが、クロンナウアなのである。

クロンナウアのジョークには、眉をひそめるものもあるが、ホークの情報分析・発信能力のあまりにもセンスの悪さに比べれば、腑に落ちるものであり、善玉と悪役というほどではないが、間抜けな上官役という域を出ない。陸軍のテイラー少将が評するところの、どこか普通ではないが単純に冷酷なだけ、という、ディッカーソンにあるように、卑劣な罠を仕掛けながらも、それだけの行為を誘導するに足るだけの「危険さ」がクロンナウアにはあり、言論を介しているとはいえ、テロの定義とは、利害と立場によって変わるものであり、国家や組織を超えて、個として向き合った上でも、深刻な利害衝突を起こすために殺すしかないのが、彼らの対立の根源にあるものである。クロンナウアのベトナムの友人であるツアンは、秘密を抱えており、二人の衝突は、戦争がもたらした損害であるが、一時期、二人が良き関係にあったのは、寛容な民族のメンタリティの賜物であろう。戦後、ベトナムは、如何に敵が非道な行為をもたらしても大規模テロなどの報復をしなかった。ホー・チ・ミンが起草に関わった建国の法にも、アメリカの自由と民主の精神が掲げられており、敵の理念や思想に対する公正な評価の無さが、ベトナム戦争が起きた原因であり、超大国の倣岸によるパワーゲームでしかなかったのではないか。
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ブラックホーク・ダウン

2012-04-26 22:02:40 | 映画 ★★★★★
PKOによるアメリカ軍の国際貢献のソマリア出兵から起きた実際の事件である「モガディシュの悲劇」をテーマにしたストーリーである。ソマリアは、政府による統治が崩れ、武装勢力として跋扈する部族が群雄割拠する内戦状態にあり、諸外国の支援によって成立した暫定政府ですら、影響力を及ぼす事のできる統治範囲は政庁から1kmにも満たないとされた混沌の危険地帯であり、国家の要諦を成さない武装勢力によって席巻されたテロリズム支配の国家であり、30万人近くの民間人が犠牲となり、国際貢献の必要性は、マスコミ報道による国際世論によって後押しされたものである。報道が成すべき仕事が、世界の紛争の察知であり、放送であり、実際に、世界のメディアが取材に訪れた時には、虐殺行為は鎮められた。正確な報道の力であり、外国メディアの取材能力や影響力を及ぼす事のできる範囲に限界はあれど、後進国として、取り組むべき課題が見えるものである。悲劇は、国連やアメリカ軍が進駐し、安定を取り戻すために、我が身を犠牲にして来援したはずのソマリアの民衆達に、戦死した米兵の亡骸が引きずり回されるなど冒涜され、それが、奇しくも報道によって世界に流布された事にあり、同時に、国際社会の軍隊も損害を蒙っている。報道がきっかけとなって、アメリカのクリントン大統領は撤退を決意したが、ソマリアの混乱は、現在も尚続いている。

ブラックホークとは、アメリカ軍の戦闘ヘリであり、当時のソマリアで最強勢力を率いて跋扈していたアイディード将軍の捕縛を唯一のテロ鎮圧の方法であり、軍全体の目的とした強襲作戦に動員された兵力である。モガディシュの悲劇は、アメリカ軍精鋭のデルタフォース・レンジャー部隊を動員し、ヘリ部隊と地上部隊とを統率して実行されたアイディードの幹部2人を捕らえる事を目的とした強襲作戦が失敗し、オリンピックホテルに踏み込んだが、ブラックホークを撃墜され、逆に、暴徒化したソマリアの民衆に包囲され、自軍の兵18人が戦死した失敗の事である。そもそも、ソマリアは、人道的介入の典型的な失敗例であり、国際世論なる大義が、実際の戦場では何の役にも立たず、圧倒的な兵力と戦力を有する超大国をして、奇襲とかく乱によるゲリラに一夜、敗れる事があるという教訓であり、ソマリアでの失敗は、ベトナムに比されるべきものであり、それらと比べれば、当時の国際情勢におけるイラク戦争によるフセインの影響力の失墜は、アメリカにとっての勝利と呼べるものである。世界戦略からすれば、安全保障や石油利権といった国益と関係の薄い戦場であったのが、ソマリアであり、ベトナムである。アメリカの民主党政権の失策極まれりで、単独行動主義では無いにしても、国際世論への協調を重視するのではなく、リーダーシップを取る事と、中立的なバランサーとしてイニシアチブを担う仕事の困難さが、際立つものであり、最高峰の成功国家であるアメリカをして、既存の価値観や正義に対する理念と情勢を理解した上で、外交戦略を打ち立てるハイレベルな政策構築のプロセスの重要さが見て取れるものである。

国際法によれば、戦争責任と犯罪とは、国家ではなく、個人に帰せられるもので、第二次大戦の戦犯を裁いた東京裁判にしても、ニュルンベルク裁判にしても、戦勝国の意向が最重視されたにしても、国民を含めた国家全体への制裁ではなく、元首や政権幹部、軍司令官などの個人に責任が帰せられており、さらに、裁判と法治の国際化が進んだ現代においても、そのベクトルは基本的なスタンスとなっている。だが、軍隊を預かる立場からすれば、法治への傾倒とは原理主義の罠に陥りがちであり、現実対応に失敗する可能性がある。実際の戦闘では、テロとの戦いに象徴されるように、非対称を相手にするのは、非戦闘員を巻き込むリスクが伴う上で、御し難いものであり、国家の機構全体を相手にした方が、覇権国にしてみれば有利である。つまり、国家体制が強固な敵の方が、圧倒的な覇権国からすれば、戦い易く、戦後の体制転換への呼び水としても、倒すべき体制が存在した方が、内外のコンセンサスも得やすい。つまり、法治との対極にあるものが、戦争を支配する独自のパワーゲームであり、そのような謀略が、長期的な利害をもたらす事もあると理解しておくべきではないか。部族連合国家であるソマリアへの戦争は、ハナから非対称を相手にするリスクを有するものであり、敗れるべくして敗れたと言えよう。侵略に対する怒りが、暴徒化した民衆にはあり、戦争がもたらす狂気とは、正常な感覚や利害とは異なるものとも成り得る。

ソマリア出兵に及んで、アメリカが抱いた正義への幻想が醒めて行く様が、悲劇からの撤退のシーンと同時に、皮肉に描かれる。侵略に対する怒りの根深さと、第三国による人道的介入の困難さ、戦争の大義の得難さが、リアルに再現されたモガディシュ市街地での刺激的な戦闘シーンに隠されたメインテーマである。首都を戦場とした事に対する、ソマリアの武装勢力、国民の危機本能に対する刺激の重要性の認識が、戦場にあって、ディナーにイノシシを気軽に狩るような、侵略側の余裕と、圧倒的優位に立つアメリカ軍とは全く違った事も要因だろう。愛国も、愛郷も無く、国家に対する憎悪が人々を互いに駆り立てている。当時における非対称テロの実力に対する認識の甘さも、実際の時代背景を感じさせるものである。ソマリアでの失敗を教訓として、アメリカを先鞭とする大国の軍改革における、敵政府中枢破壊やピンポイントの基地攻撃を重視する戦術へと移行したという意味においては、パラダイムシフトとなった重要な戦闘と言える。
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グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち

2012-04-13 22:51:27 | 映画 ★★★★★
心に傷を抱える大人達のストーリーであり、名門大学で清掃員をして働くウィルと、心理学を教える有能な教授であり、自らセラピストもこなすショーンとの出会いと、ウィルの天才的才能を見出したランボーというエリートとの対比を作り出す。エリートであるがゆえに、才能主義に立ち、ウィルを有用な人材として重宝するランボーと、あくまで、人格的資質をして自分と同じく精神的な欠陥を発見するショーンとの違いは、エリートと、レースを降りた人間との対比であり、観る世界までもが違ってくる。ランボーからすれば、悪友に恵まれたウィルのささやかな幸せを理解する事はできず、レースの中の添え物に過ぎないと考え、ウィルには必要の無いものだと考えるが、ショーンにとっては、全てはウィルが選び取った選択であり、人生であり、彼が自分の才能と向き合う普通の人生を送らない原因となったトラウマの正体を探ろうとする。ショーンもまた、妻を亡くしており、人生の労苦を経験しているが、二人は年少期に痛烈なダメージを受けた記憶を共有しており、セラピーによる対話の中で、二人が、徐々に自らの思いの丈を明かして行く事によって、精神的な距離を近づけて行く。

ウィルの交友関係は狭く、解体屋の仕事仲間と、毎晩酒を飲んで、バカ話に没頭しては、日銭を使って遊び歩く生活であり、ランボーが持ち込んだエリートならではの価値観は、確かにウィルの人生を変える鍵となったが、そうした家族無きウィルが、得る事のできた家族同然の仲間達との生活を変える事にもなる。リーダー格のチャックは、誰よりもウィルの事を考えており、個として生きる道を捨て去るという選択肢は無く、教授達と出会い、交友関係を広げて、変わり始めたウィルの人生と、自分達の人生は、本来重なる事の無い平行線であるが、それをウィルに感じさせない包容力を持っている。仲間達との毎晩同じように過ごす時間と、ウィルに思いの丈を語った瞬間とは同価値のものではないが、道を分かつ事を教唆した瞬間的な爆発力は、毎日の生活の中で積み重ねたチャックの想いによるもので、二人にとって、確たる分岐点となるものである。宿運というものがあるとすれば、運命を変えるものは、個として如何なる回顧を交わす事ができるか、であり、現在の積み重ねから、未来を見据え、それも、本来他人であるウィルの将来を考える事ができる、というのは、ウィルの非凡な才能を見抜いていた事による。ウィルに父親は居ないが、アドバイザーとなる友人達との関係が、ウィルを変えたかけがえのないきっかけであり、直言をいれる事のできる対等な人間関係を持てない峻厳な人間には懸ける言葉も見当たらない。複雑な人格形成を経た、当初のウィルがまさにそうであり、交わした言葉や思い入れといった精神の素養によって、人格は作られるが、毎日の生活の積み重ねからウィルの将来を南風のように暖めていたチャックには、男性的な強健さと底意地がある。就職活動をするウィルが、NSA(国家安全保障局)から強いプッシュを受けた時に、スラム生まれの兵隊精神を思い浮かべたのは、毎日共に生きて来たチャック達の事を連想しての事で、そのために、権謀を遠ざけ、申し出を断ったのではないか。

ウィルは、スカイラーという恋人とも出会う事となるが、天才同士の恋であり、通りすがりの他者が割って入るところが無い。スカイラーとの会話は、数式の原理であったり、難解な課題であったり、ウィルの才能に応じるものであり、数式のマスターの如く二人の会話は弾み、人材の戦力として観たランボーが掌握しかねた、ウィルの心を徐々に氷解させて行く。そうしたつつましやかな生活の描写と、天才が持つ嘱望による安定感とを、ウィルの人格的な変化を主軸として、多くの若者が共有するキャリアに対する束縛、人生をやり直せない現実とを、対比させて行くが、誰にも役割が与えられており、それぞれができる事とできない事とがあるのが、ウィルの難しさであり、聡かれどしょせん驢馬の如きバカ者には、大局の中でできる事は何もない。ショーンが果たした役割が最大限であり、心にダメージを抱えたウィルを、ただのパンクとしてではなく、変化の見込みがあり、また、注力する値打ちのある天才である事が、ウィルの人生を変える機を与えるに到ったのである。ウィルとショーンとの距離が近づけば、トラウマを打破する事によって、ウィルは廂から飛び立つが如く離れて行く事になるが、ショーンもまた、再びレースに参加する勇気を取り戻す事になる。互いに持たれ合う事が重要だ。天上の意志ではなく、地と人に恵まれている事と、周囲の不断の献身によって、人生の転換が成されるという、太陽の如き、包容のストーリーであると言えよう。
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ドラゴン・タトゥーの女

2012-03-05 20:29:56 | 映画 ★★★
国際社会には巨大な意志と権力があるというオトナの真実を照らし出しながら、権威に逆らうパンク少女のリスベットや、有名誌「ミレニアム」の叛骨のジャーナリスト・ミカエルといった個の力と、組織の力との対決を描く。組織とは、ミカエルに、閉鎖的な村社会で起きた失踪事件のリサーチを依頼する名士ヴァンゲル家であったり、スウェーデン財界のミカエルの敵であり、告発した大物であるわけだが、メインストーリーはヴァンゲル家の失踪事件のリサーチになる。陰謀がつきまとうだけに、危険のともなうミカエルの助手として天才ハッカーのリスベットが呼ばれるわけだが、巨大な謎に対して、危機感を持ち、暖め合うように、二人は距離を近づけ、結実して行く。組織と対峙する時に、人は他者を必要とするのであり、巨大な力に対抗するには、ある程度の大義や正当性が必要だという事であり、助け合い共闘する事を迫られる。それが、触れば弾けそうなパンク少女の意外な脆弱な心という弱さを見せながら、巨大な謎に対して、勇敢に挑む強さとの対比が際立っており、強さとは、知性や技能によって補完されるものである。

強みも弱みもある人間で居る事が、個としての盟約に繋がる弱者の哲学であり、リスベット個人には、強者の理論は見られないが、彼女の華麗なる逆転の大作戦は、最高の演出であり、すでに、命を捨てているのが、リスベットの死をも恐れぬ勇敢さであり、ミカエルが地に足の付いた常識人であるのに対して、リスベットは空を飛ぶが如く非常人である。凡人と天才との間であり、理解し難いものとして、断言する事をしないところに、ミカエルの器量の大きさが感じられる。社会のルールを守って生きて来たミカエルと、リスベットは対照的であり、危機に対する盟約関係から生まれた恋愛劇がサブタイトルである。人の裏をかく権謀と、人の全てを包容する恋愛という、相反するストーリーをまとめ上げており、様々な矛盾を対立させながら、調和した事が痛快な不協和音を一糸乱れぬ交響曲に昇華させる熟達した技量を感じさせる。

40年前のヴァンゲル家の失踪事件と、聖書になぞらえた猟奇事件との接点に、謎を解く糸口を見出し、リサーチに没頭するが、村という小社会の個の思惑と、宗教における大社会の意志とは根本的に異なるものであり、猟奇事件を聖書になぞらえた真犯人は、正義の鉄槌の裁きでも何でもなく、異常な愉快犯に過ぎない。犯罪の汚さを自ら美々しいものとして、ごまかすだけの虚であり、聖書における真実とは全く関係はなく、リスベットも理論の遊びとして、聖書を読みほどくのみであり、神が禁じた大罪を敢えて犯す罪を破る禁忌行為に対する衝動的犯罪であり、邪悪な思惑と緻密な計画とが併存した真の悪業である。犯罪に対する異常心理を理解する危険はなく、捜査する側のミカエルの視点のみで描かれる。そして、リスベットが異常の役回りを引き受けており、法と罪との間にある仲介者であり、主役として悪の要素をも引き受けている。犯罪を理解するものは、偏狭な正義のイデオロギーではなく、現実の邪悪に対するシンパシーである。つまり、捜査する側にも、ネット上の毀損者に対するハッカーの防衛策のように、技術としても心理としても、敵に通じる必要があるという事で、強硬な権力の行使を抑止し、地道な捜査を可能とするものは、犯罪心理に対する理解のある捜査員の確保に他ならない。

リスベットはスーパーウーマンであるが、仲間として協同する内に、友人としてミカエルに心を開くようになる。そして、リスベットにはモラルの低い闇の界隈の人間達との確執や憎悪の応酬があるが、事件は全て自分で解決する。自立した女性像であり、仕事が全てという世界観で、ミカエルとの赤裸々な交渉はありながらも、プライベートには深く立ち入らない。人間としての情愛を描けば、弱点となるからで、リスベットは熾烈な競争に勝ち抜く力はあるが、友人を作る力は無い。ミカエルとは終始対照的である。だが、超然的であり、傑出しているのがリスベットの戦う力の根拠であり、孤独なパンク処女を美化する人工性の伴うストーリーである。犯罪勢力の側にもどっぷりと踏み込んだリスベットの正当性を成り立たせるためには、美々しいものとして脚色し得ない事情があり、ハイレベルな演出能力に裏付けられていると言える。

政財界を揺るがすような大事件を起こすには、高い能力が必要であり、二人は共通の敵を抱えながら、ミカエルが表社会の正攻法で戦ったのに対して、リスベットは裏社会のジョーカーとしてトリックを駆使して巨大なドラゴンを打ち倒す。ミカエルも、傀儡となるような胆力の無い人間であれば、ジャーナリストとして成長する事もなかったであろうが、ジャーナリズムの真実を捉えた正義が根底にある。そして、ダークホースのリスベットとの関係は薄氷を踏むような危ういバランスの上にあるが、それを御しているのが、感情的な恋愛関係にある。常の感情形成ではなく、異常の危機対応によって、成り立っているものである。リスベットの大事件への介入による危険な戦闘への参加は、ジャーナリストにとっては取引せざる相手の振る舞いであり、衝撃的な決着は、ミカエルが望む事ではない。ドラゴン・タトゥーを背負いながら、悪であるか否かは問い難い巨大な秘密を孕むストーリーであり、最もクールでグラマラスな女性像を提唱するものであろう。
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