超大学生の追究日誌

無味乾燥な大学課題を超えた社会課題を発掘し、追究するブログです。

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実は普通の大学生だという真実

2011年10月06日 17時51分01秒 | 政治
一年半前からブログをスタートして、大学からの逃避に埋もれていた時期もあれば(半大学生)、テーマを設定して本当に「追究」して長い文章を書きまくっていた時期もある(超大学生)。そして今、自分自身について思うのが、自分はごく普通の大学生だということ。周りより特に抜きん出ているわけでもなければ、異常なわけでもない。全然、周りと大差ない。そんな簡単なことに、ようやく気づいている自分がいる。

普通。それは、残念な現実ではない。むしろそう思えてよかった。変に「自分は違う」と特別意識を持ったところで、何もプラスにならない。周りと同じになることを拒んだり、度が過ぎれば見下げたりして、自分が苦しくなるだけだった。それに、周りとの意識が合ってきたということは、それだけ周りに同化できて、心が安定してるということ。

普通の俺は、多くの人と同じように得意なことや不得手なことがあって、得意なことを伸ばしつつ、不得手なことを克服しようとする。誰でも備えようとする仕事能力だとか、コミュニケーション能力だとか。
そして、周りの普通の人と、多くの普通のことを共有していく。人の役に立つ喜びだとか、成長するのに大切なこととか、気になった出来事とか。
普通になればなるほど、普通の感覚のみんなと多くのことが共有できる。普通に成長したいみんなと、どうしたら成長できるか話し合える。普通に充足を求めているみんなと、もっと充足を共有できる。

だから、自分が過去に築いたこだわり、観念世界、自分意識、きれいさっぱり捨て去ればいい。変である必要は一切無いけど、普通である必要はある。ああ、こんな単純な真実、よく今まで間逆に考えてきたもんだ。

普通になればなるほど、どんどん可能性は広がっていく。


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なんで、こんなことになってしまったのか?⇒科学者たちの信じられないアホさ加減

2011年10月05日 20時51分37秒 | 政治
●昔から地震の予兆として、ナマズをはじめとする動物や井戸や雲の色・形など、様々な現象が素人の知恵として蓄積されてきた。素直に考えれば、それらの現象がなぜ起こるのか、原因の解明から入るのが当然である。ところが、学者たちはそれらを俗説として無視してきた。それは、学者である以上、素人の俗説より上でなければならないからである。そうして、学者たちは、現象事実を俗説として無視し、真っ赤なウソ(プレート説)を唱え続け、その問題を指摘されるたびに辻褄合わせを重ねてきた。
実際、彼らは数千億円も使いながら、一度も当てたことがない。

なんで、こんな体たらくになってしまったのか?

●1950年代までは地震研究の本流は地質学であり、研究者たちは各地の地盤を細かく調べ上げていた。ところが1960年代にプレート説が登場して以降、地質学から分派した地震学が本流になり、主に団塊の世代の学者たちがプレート説を流布してきた(一方、地質学者たちはそれを認めていなかった)。

同じようなことは生物学にもあって、分子生物学が1960年代から広まり、これを団塊の世代が流布し始めてから生物学もおかしくなってきた。このように、自然科学全体が1960年代からおかしくなってきたように感じる。その意味では同じころから持て囃されるようになった宇宙論=ビッグバン説も怪しい。

今、テレビでは、昔から学者のアホさ加減を最も強く指摘してきた我々でさえ信じられないようなアホさぶりを、御用学者たちが日々披露している。これまで、そうは言っても少しはモノを考えているだろうと思っていたが、本当に何一つ考えていないのではないか。例えば、気象学者も地震学者も原子力学者も、「温暖化はCO2だ」「原子力は安全だ」と指示されれば、それを正当化するデータを捏造することしか考えなくなるということではないか。ひょっとしたら、何も考えてない彼らにとっては、言い逃れではなく本当に「想定外」だったのかも知れない。

●地震の発生メカニズムの追求によって、明らかになったことがもう一つある。

現在、原発の使用済み燃料は地中に埋める計画のようだが、そんなことをしたらどうなるか? 使用済み燃料が発する熱エネルギーによって地中で連続分裂が始まり、周囲の岩盤がどんどん溶け始める可能性がある。これは、使用済み核燃料を埋めたら地震が起きるということであって、つまり、原発の使用済み燃料は処分しようがないものなのである。

地震学者たちは数千億円も使いながら、地球のことは何もわかっていない。だから、地震予知を一度も当てたことがない。言い換えれば、地球は地震学者の手に負えるものではないということ。原発も同様に現在の原子学者のレベルでは扱えないもの(扱ってはならないもの)なのである。現代の科学者に、その自覚が少しでもあれば、こんなことには成らなかっただろう。


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科学の原理は「判らないことは判らないことを認める」こと

2011年10月03日 11時53分04秒 | 政治
「福島の子供たちの甲状腺の異常」を科学者としてどう対処すべきか武田邦彦氏が問題提起しています。

武田邦彦『大きな展開をするべき時・・・10人の子供と科学的な考え方』リンクより転載します。
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福島の子供たちの甲状腺の異常は私にとって衝撃的なことでした。それは「原発の事故でも素早く避難し、被曝に注意すれば被害者を出さずにすむ」と確信していたのですが、力及ばず{もしかしたら}被害者を出したかも知れないからです。

でも、今回の10人の子供が本当に被害者なのか、それとも自然の状態なのかはまだ明確ではありません。その意味では「ある面で考えた科学的な考え方」では「10人の子供は被曝ではなく別の原因で異常が認められる」という場合を慎重に考えなければならないからです。

でも、私は「科学者」として、この時点であえて「子供の甲状腺異常は被曝が原因だ」として行動をおこすべきと判断したのです。それは「科学技術がもつ社会への責任」からです。
・・・・・・
科学はあらゆる可能性を考え、慎重にデータを解析し、人間の頭の限界を知りつつ綿密にやっていくものです。だから、今回の10人の子供の異常を「被曝が原因」と断定することは「科学的」ではありません。それでは、なぜ私が「科学者」として「被曝が原因だ」と断定したのでしょうか?

科学は判らないことがあります。というより判らないことだらけと言っても良いでしょう。「被曝と人体」という問題もわからないことだらけで「1年0.1ミリが限度」というドイツの医者もいれば、「1年100ミリ」という日本の学者もいるぐらいです。この問題について私は次のように考えています。

「「被曝と人体」についてはほとんど判っていないので、学問で決めることはできず学者や医師は発言を控える必要がある。もし目の前で被曝している人がいないときなら自由な議論が必要だが、被曝している間は学問は無力であり、社会のコンセンサス(1年1ミリ)を尊重しなければならない」

ということです。今回の事件において科学者や医師の社会的に求められることは「人体実験をする」ということではなく「被害者を出さない」ということです。そのためには科学の原理「判らないことは判らないことを認める」ということであると考えています。被曝が人体に悪い影響を与える可能性が高いとすれば、また悪い影響を与えると今まで社会に言ってきたとすれば、被曝を社会的コンセンサスの範囲に収めるように発言するべきです。

つまり、科学は「原発を実施する限りは被曝によって被害者を出さない」、「不可抗力で被害者が出るのはやむをえないにしても、意図的に被害者を出すように誘導してはいけない」とするべきです。特に人の健康に責任を持つ医師はさらに慎重でなければならないでしょう。

ところが、事故が起こっても高線量地域からの避難もさせず、むしろ「被曝は健康に影響ない」と言い続けて被曝量を増やしているのは事実なのです。学校での被曝、給食、食材、瓦礫・・・あらゆる面で日本の科学者の大半は「被曝を増やす」ことに熱心です。特にわざわざテレビや新聞に登場したり、書籍を執筆して「被曝しても大丈夫」という学者や医師は科学というものを知らないと感じます。

「何ミリまで大丈夫だ」というのは現在の状態で科学が言うことではありません.科学は「判らないときには判らないという」ということです。また科学技術が原因して被害を出しそうな時には、それを極力、小さくするのに努力しなければなりません。政府は現実を見て科学者や医師に反することをするかも知れませんが、それを予想して科学者や医師事態が被害を増大させるのは科学ではありません。

その意味であえて「10人の子供の異常は被曝が原因だ」とするべき行為を今まで日本の学者や医者はしてきた。だから断定するべきだと私は判断したのです。
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今こそ、科学者、医師は本来の科学に携わる人としての言動に戻るべきです。それには今回の10人の子供の診断結果はとても意義があります。つまり、「一人でも患者さんがでたら、科学や医学は真の意味での社会的な存在価値を保持できるか」ということを問うているからです。「ぜったいに被曝を避けるべきだ」と発言してきて、結果的に患者さんが出た場合と、「被曝は安全」と言って患者さんが出た場合ではまったく違います。

科学者や医師は「抜け殻」でなければ心が動くはずです。自らの行動は職務倫理を充足しているか、すでに原発という大きな科学的作品を社会に出している限り、それに伴う科学としての責任を持たなければなりません。

それは「今回の10人は被曝が原因か」を追及することではなく、「一人でも患者さんがでれば、「大丈夫」という発言は科学や医学が社会にもつ意義を失う」ということです。被曝を低減することは日本の財力なら現実的に可能なのです。そしてそれができなければ原発を運転すること自体が間違っています。

読者の方のメールに刺激されて、私の科学という物に関する考えを書きましたが、もしご異論があればメールをください。科学者や医師にとって巨大な踏み絵です。大きく展開していただきたい。
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以上です。


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