matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

松山の旅その3-一草庵と山頭火

2016-10-22 11:11:15 | 旅行




 松山その3

 「一草庵」は種田山頭火(1882-
1940年)の終焉の場所です。

道後温泉にほど近く御幸寺山の懐に抱か
れるように、今も閑静なたたずまいを見
せています。



山頭火は明治15年、山口県現在の防府
市に生まれます。

10歳の時、母が自殺。

明治35年上京して早稲田大学に入学し
ます(この年、正岡子規が子規庵で亡く
なります)。
しかし神経衰弱のため2年で中退。

大正5年萩原井泉水の俳句誌「層雲」の
選者となるも、家業の酒造場が破産、
一家離散と弟の自殺と苦難が重なり
ます。



大正15年、行乞(ぎょうこつ、食べ物
の施しを受ける行)行脚の旅を始め
ます。

以来、西日本を中心に九州から東北まで
巡りながら、数々の作品を残しました。



「鐵鉢(てっぱつ)の中へも霰
(あられ)」

昭和7年1月福岡県遠賀郡芦屋町で
詠んだ句。

「今日はだいぶ寒かった。一昨六日
が小寒の入、寒くなければ嘘だが、
雪と波しぶきとをまともにうけて
歩くのは行脚らしすぎる」
(行乞記)



「一洵君に

 おちついて死ねそうな草枯るる」

昭和14年12月5日、高橋一洵が
奔走して見つけてこの草庵に入り
ます。

「すべての点に於て、私の分には
過ぎたる棲家である、私は感泣して、
すなほにつつましく私の寝床をここに
こしらへた」



一草庵は松山市の城北、閑静な寺町の
一隅で、御幸寺が納屋として使ってい
た建物を改造したものです。



山頭火は一草庵で、絶食と飲酒をくり
返しつつ、自らを見つめ続け、最も
落ち着き、最も充実した生活を送り、
珠玉の句を吐き続けます。

昭和15年10月11日、脳溢血の
ため永眠。
望みどおりの「コロリ往生」でした。


山頭火は生涯で8万句以上の句を詠ん
だといわれています。

1970年代前半には17ヶ所だった
句碑は、2006年時点で500ヶ所
を超えているそうです。

俳句愛好家だけでなく、広く多くの
日本人に愛されています。
「昭和の芭蕉」ともいわれます。



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