国鉄があった時代blog版

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

新快速VS快速電車

2017-06-24 00:10:32 | 寝台列車論
新快速VS快速電車
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日本テレコム&JR通信

2017-06-13 15:06:24 | 国鉄思いで夜話
久々に更新しました。

今日は鉄道電話について思いつくままにお話などしてみたいと思います。
技術的なお話ではなく、昔話としてお聞きくださいね。

鉄道電話と言うのは、旧国鉄が自前で敷設した電話網で、駅を含む構内施設及び国鉄と関連のあった事業者などが申込できたようです。

国鉄は軍隊と同じで葬儀屋以外は全てあると言われるほど自己完結型の組織で病院から日用品の販売所までそろっており、自宅に鉄道電話を引く人はいなかったものの宿舎などには鉄道電話がひかれていましたし、昭和36年には電電公社よりも早く全国自動通話を達成するなど、その技術力は旧電電公社にも匹敵するほどの技術があったと言われています。


小さな駅では比較的最近まで、磁石式と呼ばれる電話もありました。
ハンドルを回すと中の発電機が回って電気が発生しするというもので、これで電話交換手を呼び出して話をするという方式でした。
現在は流石に交換手を呼んでは無いですが、拠点間の通信では重宝されているようです。

思い出話としましては、昭和50年頃でしょうか、父親が新宮の支区長をしていた頃宿舎に行ったことがあるのですが、鉄道電話が普通の電話器と一緒に並んでいたものです。

ただ、鉄道電話は絶対的な設置台数が少ないですから、番号も短い反面電電公社の番号連動しておらず面食らったものでした。

国鉄分割民営化時にJR通信(電話部門)JRシステム(鉄道情報処理部門)が分離され、JR通信にあっては、国鉄が出資していた日本テレコムを吸収合併(これは当初から決められていた事項)を経て、この際JR通信が存続会社としてして日本テレコムに社名変更した形が取られたと記憶しています。
当時は、駅で0088の加入電話ということで申込書が駅に置かれていたものでした。

その後日本テレコムについては、ソフトバンクに売却、日本テレコムが出資していたデジタルフォン(デジタルツーカー含む)がイギリスの通信会社ボーダフォンに買収された(この辺の内容はかなりドラスチックなので更にもう少し私も調べてみたいと思います)ことで、JRから通信部門が分離され現在はソフトバンクとなっていることはご存じのことかと思います。
個人的には、ソフトバンクテレコムまでが国鉄時代からの流れをくむ日本テレコムに延長と認識しており、ワイモバイルその他を合併した現在のソフトバンクは、もはやJR系の日本テレコムからの流れは断ち切られたと思っています。(あくまでも個人的な見解であることを申し添えておきます。)

こうしたことも改めて色々と調べてみると何とも壮大なドラマがあると改めて思い知らされます。

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明治村へ明治の人を乗せて、陸蒸気が走った日

2017-05-25 00:19:03 | 国鉄思いで夜話
昭和43年は明治100年の年で郵政省でも当時記念切手が発売されたものでした。

そんな昭和43年9月9日、奈良県の五条から愛知県犬山の明治村に向けて記念列車が出発したそうです。

昭和43年12月号の鉄道ファンを参照しますと、9月9日に第1便が五条から出発、9月12日には京都から奈良線経由関西線で、第2便が走り、その後は和歌山、新宮、湊町から走り第6便まで運転されたとのこと。

イベント列車の類なのですが、当時の記事を見ますと、当時の力の入れようが伺えます。

この企画は、天王寺鉄道管理局と名鉄観光サービスがタイアップした特別企画列車で、蒸気機関車を使って明治村に行こうという企画列車で、明治におターゲットを絞ったこともあって連日好評だったと記されています。
特に、演出として、カイゼル髭にダブルボタンの明治の駅長スタイル、鹿鳴館スタイルの女性や、矢絣に袴の「ハイカラさんが通る」のような女学生等(いわゆるコスプレ?)が駅構内を歩き、車内ではサーベルを下げた大日本帝国巡査が徘徊し、高下駄スタイルの書生が乗り込むなど、明治の雰囲気を出すには十分な仕掛けがなされており、中々の力の入れようです。
鉄道ファン 12月号から引用

車内も同様に、車内の地図等も明治時代風の復刻画が飾られていたそうですし、弁当は最も最初の駅弁に倣って「お握り弁当」だったと記録されています。

さて、この臨時列車は、全区間を蒸気機関車で牽引するのも特徴で、五条を7時46分に出発、午後1時16分に名古屋駅に到着するダイヤで運転されたそうですが、名古屋から明治村まではどのような経路で行ったの書かれていないのですが、おそらく観光バスを連ねて行ったのではないかと思われます。
詳細ご存じの方がおられましたら是非ともご教示願います。

当時の編成は、下記の通りだったそうで。鉄道ファン 12月号から引用


本務機として D511013が王寺~亀山までとなっており、五条から王寺間は機関車は何がけん引したのかは不明ですが、客車は
名古屋方から スハフ4311+スハ444+スハ446+スハ445+スハ447+スハフ4320 更に奈良から亀山間に加太越の補機としてD51906が後方に付いたと記されています。
なお、亀山から先は名古屋鉄道管理局の管轄となるため機関車は、亀山でC5762に交代して運転されたと記録されています。

五条~王寺間の機関車が記録として上がっていないのですが、C11辺りが使用されたのではないでしょうか。
なお、この列車に使われた車両は実はスハ44系の青色塗装なので、明治の列車としてはいささか不都合だったのか、10月以降の明治号は、スハ32かオハ35の茶色の客車に赤帯を入れた正調2等車(普通車)なる予定だと書かれています。

昭和43年にこのようなユニークな列車が走っていたということで記憶にとどめていただければと思います。
画像 Wikipedia

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国鉄職員と制服(作業服)のお話

2017-04-29 23:33:09 | 寝台列車論
久々に更新させていただきます、今回は通称菜っ葉服と呼ばれた、作業服のお話です。
菜っ葉服…どうも語源は様々で、カーキー色の作業服を菜っ葉服と言う場合もあったり、青色の作業服が菜っ葉(青)に見えるからとか諸説あるようですが、蒸気機関士の乗務員が着用していたものが一般的でしょうか。

ある機関助士のシーンから

蒸気機関車時代の菜っ葉服は5つボタン(金ボタンと銀ボタンがあるようですが、多分メッキの関係かと思う)の詰襟タイプで実際の乗務では首筋にタイルなどを巻いていたのでちょうどいい具合になったようです。
ズボンは両側から出た紐で直接締めるタイプでありかなり自由度がありました。
時期的なものはよくわかりませんが、菜っ葉服のボタンが金属ボタンから一般的なボタンとなっているものもあり、こちらは少し安っぽい感じがするのはわたしだけでしょうか。

なお、乗務員は機関士は昭和30年代の古いタイプの制服では紺の生地に金モールで囲んだ徽章を、新制服になってからは制服と同じ生地銀モールで桐のデザイン。機関士だけは何故か動輪マークが無いんです。


ただ、ある機関助士等を見ていますと、学園訓練で彼らが着用している略帽には桐マークと動輪が描かれていますので、その辺も機関士と機関助士では分けていたのかもしれません。

その理由を考えてみますと、国鉄の機関士と言うのは戦前は本当にエリートで駅長と実は同格だったんです。
官制でいえば、下級官吏ではありますが「判任官」としての身分を与えられていました。

鉄道では、駅長と同格、警察では警部補以上が「判任官」帝国陸海軍では下士官が「判任官」でしたので、機関士は戦前では超エリートと言えましょう。

戦後、国労から機関車労組(後の動労)が分離する背景には、こうした戦前の流れもあったと言われています。
いわゆる、動力車乗務員(機関士)は駅員とは違うと言うことでしょうか。
実際、駅長と機関士は待遇的には同格ですので、かなり機関士も偉そうにしたとも言われていますので、その辺からも国鉄の制帽も機関士の制帽は独特だったのかもしれません。

ちなみに、判任官は官吏の最下級になりますが、その下に雇人・庸人と呼ばれる身分があり、雇人は、現在で言えば公務員Ⅲ種試験で採用された人、庸人は言わば非常勤職員もしくは期間雇用社員と言えば何となく理解していただけるかと思います。
ちなみに、判任官の上は奏任官、勅任官となっており、奏任官が国家公務員Ⅱ種、勅任官が国家公務員Ⅰ種に相当すると考えると判りやすいでしょうね。

作業服の話をする予定が全く違う方向に行ってしまいました。苦笑

余談ですが、私が郵政に入った頃は初級公務員試験だったのですが、郵政の場合はA職とB職に分かれていて、これは他の公務員試験同様人事院が管轄する試験で、それ以外に郵政局採用の郵政外務員試験と言うのがありました。
郵政外務員試験は基本的には外務作業鹿従事しないことを前提として採用するものでした、それ以外にも私が郵政に入る前は縁故採用と言うのもあって、集配の職員や特定郵便局の局員などでは局長などが採用する。(郵政局に上申して許可される)昔の、雇人・庸人の流れを汲む採用用方法もあったそうで、そうした場合職員の身分は郵政事務官ではなく、郵政職員だったそうです。
それでも、採用後何年間か真面目に勤務すると郵政事務官に成れたそうです。

ちなみに、郵政の場合は我々のようなノンキャリアでも転用試験を受けることで郵政局なり郵政省で勤務するチャンスは与えられていました。



お約束の悪ふざけと言うことで・・・(^^♪




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国鉄職員と制服(給仕)のお話

2017-04-17 22:30:47 | 国鉄思いで夜話
皆さまこんばんは、本日も国鉄があった時代から少しだけお話をさせていただこうと思います。
本日取り上げるのは、車掌補(乗客案内)と呼ばれた職種の人たちについてです。
車掌補と呼ばれる人たち、腕章には「乗客案内」と書かれた腕章を巻き車掌と同じ制服を着ていましたが、運転取り扱いなどの権限はなかったかと思います。

実際に国鉄に出車掌の仕事をされていた方のblogなどを見ますと、乗務掛⇒車掌補⇒車掌⇒専務車掌B⇒専務車掌A(後の車掌長と改称)となっていたそうで、乗務掛で経験年数を積むと車掌補となるらしく、腕章等は同じだったそうです。

車掌補(乗務掛)は昭和51年の改正で廃止されるのですが、車掌補(乗務掛)の主な仕事は、寝台車の設廃作業であり、概ね1両を1人で担当することになっていました。
一人で54台の寝台車を作って行くのでかなり重労働で有ったろうと思われます。
他にも。車掌補の仕事は寝台車の乗客を起こしに行くのも仕事だったそうです。

その後は14系・24系客車のように省力化が図られてからは2両を一人で対応することになったようですが、合理化することで少しでも寝台車の要員を減らしたかった国鉄の苦肉の策であろうと思います。
そんな車掌補(乗客掛)も昭和51年の改正で廃止になったそうです。

さて、今回のお話は、そんな昭和50年代から20年ほどさらに時間を遡った昭和30年代のお話をさせていただこうと思います。



この白い制服は、昔の車掌補(乗客掛)が着用していたもので、当時の名称では「給仕(boy)と呼ばれており青地に給仕と書かれていて、下にboyと書かれてたのを写真で見たことがあります。

現物は。京都の交通博物館で展示さえていたものを撮影したのですが、白の木綿による詰襟で学生服のようにカラーが入っていたのかまでは判りませんでした。
ご存知の方おられましたら、ご教示いただければ幸いです。


ネットで見かけた腕章を参考に書いてみました。

さて、いよいよ本題に入っていくのですが、給仕という制度はいつごろからあったのかというと古くは明治時代まで遡れそうです。
明治33年、山陽鉄道が最初にこの制度を導入したそうで、その後国鉄では昭和37年乗客掛と名称を変えたそうです。

主な仕事は、給仕と読んで字のごとくで、乗客の身の回りの手伝いをするのが仕事で、買い物はもとより靴磨きまでこなしていたそうで、それ以外には駅到着前に出入り口や手すりの清掃なども行っていました。
なお当時は現在も外国ではチップの習慣がありますが当時はやはり給仕に対してはチップが支払われており、このチップがかなりの収入となったそうです。
また、チップ欲しさに過剰サービスになって逆に閉口すると言った記述も見られます。

戦前は給料の倍近くチップで稼いだとも言われており、大学生の初任給が35円程度の時に、チップを併せて平均月60円、150円も稼ぐ猛者もいたそうです。
当然、古参の車掌よりも給料とチップを併せると多かったということで、成功して起業するものもいた反面、身を持ち崩したものも多かったそうです。
引用 言葉マガジン

そんなチップ制を廃止しようという意見が出てきたのが昭和37年で
http://jnrera.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_37.html

幣blog「国鉄があった時代、昭和37年前半編」を参照しますと。

「ノー・チップ決議 列車給仕 6/9
「国鉄全国車掌区列車給仕自治連絡会」は9日朝、京都府乙訓郡向日町の国鉄職員宿泊所で初の全国大会を開き、『今後は乗客から一切チップをもらわない」ことを決議。『全員が国鉄の第一線営業マンとの自覚を高め、オリンピックを機会にノー・チップの国との好印象を外人に与えるよう心がける。 」

という記事が目につきます。
国鉄当局でも、チップ廃止に代えて給与に手当分をう上乗せすることで一定の整理が出来たそうです。

ただ、この決議が列車給仕側から自発的に出て来たのか否かはもう少し調べてみる必要がありそうです。

そこで、この記事を書こうとして調べていると、1917(大正6)年9月30日付東京朝日朝刊5面で。中部鉄道管理局(主たる管理は東海道本線)を所管する鉄道管理局(国鉄時代の管理局とは異なります。)の長尾半平局長が、給仕のチップを廃止するように申し伝えたと書かれています。

言葉マガジン

列車ボーイの心附は十月一日から廃止=心附から来る色々の弊害

しかし、実際には西部鉄道管理局(山陽線・四国)等の管理局長は反対と言うことで足並みはそろわなかったそうで、実際に廃止になったのは先に書いたように、昭和37年になってからだそうです。

なお、国鉄の合理化で車掌補自体が廃止になったのは昭和51年のダイヤ改正からで、当時の新聞を記事を参照しますと下記のように書かれています。


引用 http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2014062400001.html

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国鉄職員と制服(技術職)のお話

2017-04-10 11:47:21 | 国鉄思いで夜話
国鉄には数多くの制服がありました、もちろん今も鉄道会社でも同様に、作業の内容に応じて制服が定められているわけですが、国鉄の場合大きく分けると3つの制服に分類されていました。
それは、営業職などの一般的な制服・技術職の制服・機関士などの動力車技術員の制服(蒸気機関車のナッパ服を除きます。)
ということで、今回はその中から、技術職の制服を取りおあげてみたいと思います。

私も国鉄当局の被服担当していたわけではないので概略的なお話しか出来ませんが・・・。(^^♪

さて、国鉄技術者向けの制服はいわゆるブルゾンタイプが採用され、制帽も接客用の官帽ではなく、略帽に、桐と動輪を巻いたものがつけてありました。

技術職を中心に貸与された略帽

父親が建築課の職員でしたので子供のころから慣れ親しんでいたのは、この略帽でした。
ブルゾンタイプの制服は主に技術職が中心でしたが、構内掛(連結手)等も同様の制服だったと記憶しています。
裾が短く肩の部分が動きやすいことが特徴で、今でも現場の技術員の人たちはこのタイプの制服を着ています。
実は、私も久々に父親の形見でもある制服に袖を通してみました。
私よりも小さいので多少窮屈なのは仕方がないのですが、40代とさほど体系が変わっていないのでかろうじて袖を通すことが出来ました。(^^♪
如何でしょうか?


それらしく見えるでしょ。

少しこの辺を調べてみますと、最後の国鉄制服は、元々東海道新幹線の技術関係職員に着用したのが最初で、昭和41年から順次切り替えていったと言われています。
その時に技術職を中心に貸与されたブルゾンタイプは、下記の職員などに貸与されたと書かれています。

建築区・機械区・電修場(電機修繕職場)、印刷、保線区、公示苦闘技術関係区所、並びに駅構内関係職員(連結手等)となり、昭和41年までに6万人に試行貸与と書かれています。

当時の技術等の職員数が把握できていないのですが約半数にはいきわたっていたのではないかと推測しています。


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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第25話

2017-04-09 23:39:46 | 国鉄関連_国会審議
1かgつ近く放置してしまいまして申し訳ございません、改めて更新させていただきますのでどうかご覧くださいませ。
なお、鉄道の質問ではなかったので、途中の何ページかの質問は省略させていただきました。
最後の質問として、青函トンネルの関係について質問されています。
この質問が昭和55年ですので先進導坑は開通し順次本坑を掘っていた頃だと思いますが、そこで「国鉄総裁と運輸大臣と鉄建公団、この三人が相寄りまして、十月四日に、在来線を通すということについて合意に達したと、そういう新聞記事があったんですが、これの真偽についてまず確認します。」
と言う質問をされています。
それに対して、塩川運輸大臣が、言下にそのような事実はないと否定しているのですが、青函トンネルはご存じのとおり新幹線規格で建設されており、新幹線建設が遅れるので在来線で建設と言う一致を見たということで北海道新聞がスクープしたと思われますし、これは事実で有ったろうと思われます。
ただ、当時としてはそうしないと収まりがつかないからと言う事情があったと思われます。
その理由は、国鉄の赤字と絡んで来るのですが、完成時に発生するであろう借料でした。
建設だけで5000億円近く投入していますので、それを回収するための負担金を国鉄が賄えるのかと言った問題があったため、安易に国鉄に引き継がせることになりましたと言えなかった事情もあったかと思われます。

それが、上記の回答になったと思われるのです。

実際、青函トンネルをどのように活用するのかという問題は大きくクローズアップされ、核シェルターに使うという意見もありましたし、備蓄基地、果ては過激な意見としては、破壊してしまえという意見もありました。
そうして経緯を含め、合意に達したと認めることは混乱を招くと判断したのではないかと推測しています。

さらに質問は続き、非常に興味深い話があります。
それは、青函トンネル開通後も青函連絡船を残すという話があったという検討なり、約束がなされていたのではないかと言う質問です。

「青函トンネルと青函連絡船の対応の関係で、本社に課長クラスのプロジェクトをつくって対応しているということと、青函トンネルが開通しても連絡船は残す、連絡船の業務は残すということについて、国鉄労使間で話し合われたことについてこの場で確認して結構ですか。」

この質問に対して、加賀山常務理事としての回答は無いといしながらも、検討していると回答しています。
こうした質問がなされた背景には、関門トンネルを繋ぐ連絡船がトンネル開通後も残り、昭和39年頃まで運行されていたことを受けての発言だと思いますが、実際に国鉄の赤字が大きくなり、今回の合意に関しても言下に否定したのは、トンネルの借料について国鉄の負担をどうするのかと言う問題から発生したことが伏線にあるわけです。

実際には。国鉄改革の経緯の中で、現在の青函トンネルは所有、鉄道建設・運輸施設整備支援機構(当時は鉄建公団に帰属)で、北海道旅客鉄道(JR北海道)はその施設を借用する立場をとる。(線路自体はJR北海道に帰属)となっていて維持費と借料として毎年4億円を機構に支払っています。

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********************以下は、国会審議の本文になります。************************


○説明員(加賀山朝雄君) 労使間で正式な確認をしたということは私は聞いておりませんが、いろいろな検討をしていることは事実でございます。

○目黒今朝次郎君 じゃあ要請しておきます。
 それから、この青函トンネルの関係、先ほどいろいろありましたから、もう時間の節約上、前段を省略いたしまして、十月六日の共同通信、北海道新聞、これによりますと、十月四日、国鉄総裁と運輸大臣と鉄建公団、この三人が相寄りまして、十月四日に、在来線を通すということについて合意に達したと、そういう新聞記事があったんですが、これの真偽についてまず確認します。

○国務大臣(塩川正十郎君) 仰せのような事実は全然ございません。

○目黒今朝次郎君 え。

○国務大臣(塩川正十郎君) そういう事実は全然ございません。

○目黒今朝次郎君 そうすると、共同通信とか北海道新聞に出た記事は、まあどこからか新聞屋さんが持ってきたネタであって、そういう事実はないと、在来線を通すということを意思統一をしたあれはないということですか。再度すいません。

○国務大臣(塩川正十郎君) そういう三者が集まりまして意思決定したことの事実はございません。

○目黒今朝次郎君 青函トンネルの活用方についてというテーマで、三人が別々に検討した結果、偶然に在来線を通そうと、こういう意見の一致した事実もありませんか。

○国務大臣(塩川正十郎君) 現在、運輸省におきましては青函トンネルの利用につきまして検討委員会は持っております。そこでいろいろ検討はいたしておりますが、まだそれは審議の途中でございまして、何ら運輸省といたしましてその利用方法について決定するという段階には至っておりません。

○目黒今朝次郎君 じゃあ確認いたします。
 青函トンネルに在来線を通すことも含めて三者間でまだ決定をしてないと、検討の段階であるということでいいですな。――これは北海道新聞の方おりましたらきちっとしてくださいよ、共同通信もね、こういうことですから。
 それからもう一つお伺いします。
 前の地崎運輸大臣が一月五日、北海道に渡って、青函トンネルの問題と青函連絡船の問題で発言して物議を醸しました。その内容は、時間がいたましいから言いません。物議を醸して、一月十一日、札幌陸運局長を通じて現地の方に回答した四つの項目、もう時間がありませんから言いません。一、二、三、四、この四つの項目については現大臣としても変わりはありませんか。

○政府委員(山地進君) その当時申し上げたことは変わっておりません。

○目黒今朝次郎君 では、それら四つの項目については変わりがない、これは確認いたします。
 そうしますと、国鉄側にお伺いしますが、この青函トンネルと青函連絡船の対応の関係で、本社に課長クラスのプロジェクトをつくって対応しているということと、青函トンネルが開通しても連絡船は残す、連絡船の業務は残すということについて、国鉄労使間で話し合われたことについてこの場で確認して結構ですか。

○説明員(加賀山朝雄君) 労使間で正式な確認をしたということは私は聞いておりませんが、いろいろな検討をしていることは事実でございます。

○目黒今朝次郎君 その点が、後の方あいまいですが、後でまた聞きます。
 とにかく、私はこの青函トンネルの問題については、率直に言って国鉄総裁がどれほどの行政責任があるのか、私もいろいろ調べたがわかりません。私、わかりません、率直に言って。この直函連絡は、結論的に私は運輸省の責任とこの運輸省の決定に従って鉄建公団が工事を始めたと、その辺まではわかるんでありますが、運行開始後の国鉄の責任という点は非常にあいまいなまま今日になっておると思うんであります。ですから、国鉄再建法の論争の際にまたやりたいと思っておりますが、青函トンネルの現時点における国鉄の責任と運輸省の責任と鉄建公団の責任と、一体どういうことなのか、総括的に運輸大臣に私は教えてもらいたい。そうしないとわれわれの対応の仕方が非常に混沌としてしまうと、こうなりますので、最終的な青函トンネルの現時点における行政責任は一体だれが負うのかという点を、だれなんですか、教えてください。

○国務大臣(塩川正十郎君) 先ほども言っていますように、運輸省の中に利用検討委員会を設置いたしまして、まさにおっしゃる問題も含めて実は検討いたしておるわけでございまして、この経過から申しまして青函トンネルを主として国鉄が利用するという形態でトンネル工事をしてまいったところでございますし、ところが、あの建設費用として約五千億円近く投入いたしてこなければなりませんが、それの借料等につきましても、これはいまの国鉄にまるまる払えと言ってみたってなかなか実際はむずかしい問題だと私は思うておりますし、そうすると、その費用の負担並びに利用料の問題、こういうふうなものもあわせて検討しなきゃならぬと思いまして、先ほど申しました委員会を設置いたしまして検討しておる最中でございます。
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桐と動輪 主に国鉄の制服のお話について第1話

2017-04-03 23:55:58 | 国鉄思いで夜話
桐と動輪と言えば、檀上 完爾氏が鉄道ジャーナルで書いていた鉄道員の活躍を描いたエッセーであることはご存じのことと思います。
私も、中学生で初めて鉄道ジャーナルを買ったときに、巻末に掲載されているのを何度も何度も読み直したものでした。

時々私が、blackcat(kato.y)のブログとして小説風の書き物をしているのは一つに、桐と動輪に影響を受けていることを最初にお断りしておきます。

ただ、氏のような名文をかける訳もなく、まして鉄道に奉職したことも無いものが鉄道の物語を書くこと自体がかなり無茶なのですが・・・。

想像力を最大限生かして、妄想しております。苦笑

さて、そんな与太話はともかくとして早速本題に入りたいと思います。

桐と動輪、言うまでもなく国鉄時代の制帽などに使われていたもので、官帽以外にも技術系の略帽も小型でしたが桐と動輪の制帽が使われていました、機関士の制帽は桐のみで動輪は描かれていません。
また、船舶は抱き茗荷に動輪のマークとなっていて、海軍に非常に似た制帽でありました。

私もさらに詳しく調べてみないと判らない部分があるのですが、鐵道院や工部省の頃は鉄道の制服では工部省の「工」が使われていました。
確か京都の博物館で明治期の判任官待遇(駅長)の制帽はあたりから桐と動輪が使われたデザインになっていたような気がします。


桐はご存じのとおり菊のご紋と同様は皇室専用の家紋であったが、後に皇室以外でも広く使われるようになり、国有鉄道法により全国の鉄道が国有化された頃から国鉄でも制帽に桐と動輪をデザインした官帽を制定したようです。
下記のサイトを参照しますと、昭和9年に詰襟の制服が採用されたとされています。
最近は少なくなりましたが、昔は普通に務ることが出来た学生服で見られる詰襟で、襟の両側には、桐紋のバッチを付けるようになっていました。

その後、戦後の昭和23年には海軍や陸軍の制服に似たスタイルの開襟式の制服が制定されました。
技術職も、駅員も同じ制服で紺色で詰襟時代は詰襟の両側に付けていたバッジは襟に着けるようになっていました。

なお、当時の給仕の制服は白の詰襟が使用されていました。ただし、木綿のため見た目は貧相に見えたものです。


その後、昭和41年には新しい制服が制定され、青灰色とでもいうのでしょうか、独特の色合いの制服が誕生しました。
国鉄末期、その後JR発足1年後までこの制服が使われましたので覚えている方も多いかと思います。


この制服は、駅員と機関士で同じような制服jでありながらデザインが違いましたし、指定駅の駅長、専務車掌以上はダブルになるなど、趣味的に見ても楽しいものでした。

なお、余談ですが、この制服のデザインの元になったのは、おそらく昭和34年だったかに東京駅の駅長制服として制定された白の夏制服(麻製)がその原型になったものと思われます。
3つボタンの制服型で、今までの桐のバッチの代わりに、動輪のバッチを襟の両端に着けるようになっていました。
個の動輪のバッチも2種類あったようで、技術職などは動輪の周りの飾りモールが金属製、接客向けの制服にはフェルトと銀モールになっていたように記憶しています。


もう少し書きたかったのですが、次回は技術職の制服について改めて書かせていただきます。

制服の写真等を探して居ましたら、こんなサイト見つけました。
http://blue-units.sakura.ne.jp/seifukukaisetu/seihukukaisetu.htm

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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第24話

2017-03-26 21:30:28 | 国鉄関連_国会審議
大変申し訳ございません、かなり長い間更新していませんでした、3月5日以来の更新になります。
ここでは、北陸トンネルの事故の際日本海を運転していた機関士に対しての処遇を質問されており、その答弁となるのですが。

>○説明員(高木文雄君) お説のとおりでございまして、私どもも辻運転手のことについては、あくまでりっぱな行動であったということを考えておりますので、そういうことを前提として今後対処してまいりたいと思っております。

この発言を受けて、仮に有罪判決であっても身分保障をしていくことを改めて望むと言う発言をしています。
結果的には、機関士に関しては無罪ということになったのですが、歴史にIFは無いとはいえ、その責任の一端は組合側に,さらに国鉄当局にも帰属する問題となりました。
といいますのは、組合としてはトンネル内での照明点灯は幻惑されたりするので消して欲しいという申し出があり、国鉄当局としても消防側から設備の改修等を求められていたにも関わらず、その必要はないとして積極的に防災設備を行わなかったという不作為が有ったと言われています。

国鉄はその後、昭和48年8月に狩勝実験線で車両の燃焼実験【難燃化対策を穂底した場合とそうでない場合の燃焼状況など】を実験、翌年には世界初であろう走行中の列車の燃焼実験を行っています。

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*****************以下は、当時の国会審議の議事録になります************************

○目黒今朝次郎君 ありがとうございます。
 結審で判決でありますから予断を許しませんが、これは私は全国の動力車乗務員は言うに及ばず、車掌さんあるいは運転保安にかかわる関係職員が非常に注目をして見ておる判決であります。したがって、もし有罪判決があったという場合でも、いま総裁の決意表明に従ってさらにこれを守るための措置をしてもらう。同時に辻機関士の身分保障については、いままでどおり身分を保障して対応していくと、そういうお考えであるかどうか基本的にお伺いいたします。

○説明員(高木文雄君) 仰せのとおりに考えております。

○目黒今朝次郎君 ありがとうございます。
 それで、青函トンネルにも関係するわけでありますが、長大トンネルにおける火災事故、この問題については、北陸トンネル事故が起きたのをきっかけに国鉄側がいろんな試験をやったり、あるいはいろんな改良をやったり、そういうことで北陸トンネル事故が長大トンネルの火災防止及び火災時における運転取扱心得のまあいい意味で出発点になったと、このように私は理解をしていろいろな試験にも立ち会ったわけでありますが、こういう理解については間違いないかどうか、再度今後の問題がありますので確認したいと思います。

○説明員(高木文雄君) ただいまもお触れになりましたように、北海道の試験線であのような大規模な試験をいたしましたし、またマニュアルの変更等も行うということもいたしました。またその他いろいろな面において火災事故に対しての勉強は、まあ災いを転じて福となすと申しますか、あの事故を契機として相当研究が進んだわけでございまして、その意味で非常に犠牲は大きゅうございましたが、それなりの対処も相当進んだというふうに考えております。
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急行瀬戸のお話 第4部

2017-03-06 12:16:07 | 国鉄思いで夜話
さて、いよいよ今回は急行瀬戸のお話の最終回となります。
急行列車に連結されていた食堂車は、昭和47年の北鹿トンネル火災事故でその火元となったオシ17が他の列車からも外されてしまうこととなり、明らかにサービスダウンとなってしまったのです。
当初は火災の原因が特定されておらず旧式の石炭レンジを使っていたことから石炭レンジ=危険ということで運用から外されたのでした。
実際には、喫煙室下の床下電気暖房器の結線不良が原因でしたが新聞などは旧式の石炭レンジがその火元ではないかということで散々書いていたようです。

北陸トンネル火災事故が起こる前、国鉄では20系寝台車に代わる寝台列車として新たに12系客車をベースにした14系寝台客車を開発していました。
画像 Wikipediaから引用
車掌補(乗客案内)の不足を補うため省力化を図るとともに、583系電車で採用された70cm幅の寝台が好評であることから新型寝台車もその幅を確保することした14系寝台車が開発され発電電源装置を置くことで電源車が不要となり結果的に1両余分に連結できるので1車あたりの定員減を補えると考えたようです。
現車は昭和46年10月には先行試作車が製造され試運転を兼ねて急行「瀬戸(下り)2号 (上り)1号」に組み込まれていました。
12系と同様SG管を持つ編成であったことは言うまでもありません。
14系採用の急行瀬戸は寝台幅が広がったことで利用者には好評だったようですが、翌年の3月15日のダイヤ改正では特急化されるのですが20系客車に戻ってしまいせっかく14系で広くなったと喜んだ利用者はさぞがっかりしたでしょうね。

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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第23話

2017-03-05 15:15:01 | 国鉄関連_国会審議
久々に更新させていただきます、今回は目黒今朝次郎(めぐろけさじろう)議員、日本社会党所属元動労所属の機関士で動労委員長を経て昭和49年(1974)の参議院選挙に出馬し当選しています。

今回の質問は、北陸トンネル火災事故の機関士に対する質問といことで、元動労の委員長らしい視点からの発言であります。
既に皆様もご存じだと思いますが、北陸トンネル火災事故は、食堂車オシ17の喫煙室付近から出火した車両がトンネル内の5km地点で停車したもので、煙にまかれて29名の乗客と指導機関士が死亡し、714名が負傷した事故でした。
このあたりのことは今後さらに私も調べてお話をさせていただきますが、ここでなされている質問は、福井地裁で審理されていた、北陸トンネル事故の裁判について検察側は機関士に対して「禁固二カ月」求刑したことに対して、当時の国鉄は当該機関士に対して2号俸の特別昇給(抜擢昇給)を行ったことに対して、国鉄としては仮に禁固刑がでても機関士を守る意思があるのかという質問をされています。
この機関士は、当時の運転取扱規程に従い、運転していたので何ら問題はなく、最終的には、福井地裁での判決は、無罪となっています。



> 北陸トンネル事故の乗務員に無罪判決 11/25
> 47年11月に北陸トンネル内で急行の〈きたぐに〉が炎上、死者30人、負傷714人(裁判所の認定は569入)を出した事故で業務上過失致死傷罪に間われていた機関士と専務車掌に対する判決公判が福井地裁で開かれ、無罪となった。

実際には1969年12月6日も青森発大阪行きの日本海で最前部電源車から出火して電源車を焼損で食い止めたという事故がありましたが、この際は機関士の機転で規則を無視したことで事なきを得たのですが、結局この乗務員は重大な規程違反を犯したとして乗務から外されることとなりました。
その後、長大トンネルの場合は速やかに脱出することの有効性が確認され、処分は撤回されています。

前置きが解説になってしまいましたが、お読みいただければ幸いです。

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************************以下は本文になります。****************************

   午後一時一分開会
   〔理事桑名義治君委員長席に着く〕

○理事(桑名義治君) ただいまから運輸委員会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、運輸事情等に関する調査を議題とし、質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。

○目黒今朝次郎君 大臣にちょっとお伺いしますが、私も三年ぶりぐらいで運輸委員会に帰ってまいりましたので、国鉄再建論争あるいは羽田論争、いろいろあるわけですが、少し形式的になるかもしれませんが、前の石田運輸大臣、あるいは田村運輸大臣とか、福永運輸大臣、こういう各大臣と、国鉄論争とか総合交通政策で、この委員会で十分私も議論した数々の記録があるわけでありますが、そういうことについては、大臣としてはいままでの国会における委員会の答弁というものについてはこれを尊重し、確認して行う、こういうことについて、冒頭でありますから大臣の見解を聞いておきたいと、こう思うんです。

○国務大臣(塩川正十郎君) これはもう政府の施策というものは継続性を持っております。当然私といたしましても、前、元大臣がとられました政策並びに発言に対しましては、あくまでも責任があるものと思うております。

○目黒今朝次郎君 ありがとうございます。
 国鉄に関する問題等についてはいま衆議院でやられておりますから、その際に十分また論議するとして、きょうは当面の懸案事項について数多く見解を聞きたいと思いますから、私も簡単に質問しますから、答弁の方も簡単に結論だけお願いしたいと思います。
 まず第一点、安全にかかわる問題二、三お伺いいたします。
 一つは、北陸トンネル事故の問題については、発生当時私もこの問題を取り上げて当時の運輸大臣、国鉄総裁と大分やったわけでありますが、抜てき二号昇給というのは国鉄職員としては大変なおほめの措置だと思っておったわけであります。ところが、一九七四年の十二月の二十七日、これが裁判にかけられまして、以来六年間、大分法廷で争われてまいりました。で、一応結審になりまして、十一月の二十四、五日と言われておりますが、判決が出ると報道されております。
 それで、国鉄総裁にお伺いしますが、北陸トンネル事故の辻機関士の問題については、職員として尽くすべき点は全力を尽くしてやったんだ。したがって、自分の生命をかけてやったその措置について、二号俸の抜てき措置をしたんだと。そういう立場で、起訴されても国鉄側としては辻機関士を守ると、こういう精神で戦っていくと、取り組んでいくと、こういうことを表明されておるわけであります。今日結審になって禁固二カ月という求刑がされておるわけでありますが、今日の時点でもそういう気持ちが変わりがないかどうか見解を聞きたいと、こう思います。

○説明員(高木文雄君) お説のとおりでございまして、私どもも辻運転手のことについては、あくまでりっぱな行動であったということを考えておりますので、そういうことを前提として今後対処してまいりたいと思っております。
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急行瀬戸のお話 第3部

2017-02-23 23:36:06 | 国鉄思いで夜話
急行瀬戸のお話 第3部

しばらく開いてしまったのですが、今回も急行瀬戸のお話をさせていただこうと思います。
四国連絡の夜行急行列車として、「瀬戸」と「さぬき」という二つの列車ですが急行「さぬき」は寝台車主体の編成、それでいて「瀬戸」は座席車主体の編成でしたが、今では考えられませんが、いずれにも食堂車が連結されていました。
寝台車主体の「さぬき」にはオシ16が、座席車主体の瀬戸にはオシ17が連結されていました。
ただし、この2列車は昭和43年の白紙ダイヤ改正で瀬戸に統合されてしまいます。
あいにく昭和43年の時刻表が無くて昭和45年しかないのですがこれを参照しますと、下り列車基準で瀬戸1号(旧さぬき)瀬戸2号(旧瀬戸)であり、引続き「旧瀬戸」にはオシ17が連結され、「旧さぬき」にはオシ16が連結されています。

ここでオシ16について簡単に書いておきたいと思います。
ご存知の方も多いかと思いますが、オシ17もオシ16も旧形客車の台枠並びに台車を活かして軽量車体を組み立てたもので新製車が末尾0から始まるのに対して改造車でしたので7~始まる番号付けられていました。(オハネ17も同じ理由です)であり、オシ17がナシ20の基礎となった軽快な本格的な食堂車で「特急つばめ・はと」などに連結されていましたが、ナシ20がオール電化を達成したのに対して、オシ17は石炭レンジと呼ばれる昔ながらの石炭を使うレンジでした。
北陸トンネルでの「急行きたぐに」の車両火災事故で食堂車が火の元であったことから、石炭レンジがその原因ではないかと言うことで一斉に運用から外されることとなりました。
実際には、電気暖房の暖房装置の整備不良で過熱したことが原因であり、石炭レンジには非が無かったのですが、老朽化した時代遅れの危ない食堂車と言うことで復活することなくすべて廃車されてしまいました。

なお、オシ16は特急つばめなどに使われていたビュフェを全室に広げたような車両で、どちらかと言うと軽食並びにお酒を飲むためのバーと言う雰囲気だったようですが、こちらもオシ17同様急行列車の特急化が進んだこともあり昭和47年3月のダイヤ改正までに廃車されています。





昭和45年の時刻表でしばし時間旅行をお楽しみくださいませ。
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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第22話

2017-02-15 12:25:23 | 国鉄関連_国会審議
画像 Wikipediaから引用

皆様こんにちは、本日も地味に更新させていただこうと思います。
本日も、鉄建公団が昭和58年頃に組織として廃止統合されることについてどのように考えているのかと質問がなされています。
鉄建公団は、実質的にほんの2003年まで旧国鉄(清算事業団を吸収する形で存続し、現在は「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」として「鉄道の建設等に関する業務及び鉄道事業者、海上運送事業者等による運輸施設の整備を促進するための助成その他の支援に関する業務を総合的かつ効率的に行う」ことを目的にして現在に至っています。
しかし、当時はそうした方針がまだ決まっていなかった、(建設途上のローカル線はその建設が凍結され、一部が第3セクター鉄道などで建設されることが決まったためその建設のために存続していった経緯はありますが、当時は本当に先行き真っ暗…そんな状況であったことが、下記の日本社会党広田幸一議員の質問等で伺えます。

>まず最初に、鉄建公団が整理されることについて、山地進鉄道監督局長に質問しています。
「運輸省にお尋ねしますが、これは昨年の十二月二十八日の閣議決定で、「昭和五十五年度以降の行政改革計画(その一)の実施」ということで出ておりまして、特殊法人の整理合理化、その中に「日本鉄道建設公団については、上越新幹線及び青函トンネルの本体工事が完了した時点(昭和五十八年度)において、他との統合等を図る。」

このことに対して大臣に念押しをしているのですが、統合することは考えているがその具体案は出てきていないということで、「いろいろと今後検討の余地がある、選択の余地もあるというふうに考え、各方面とも御相談をして最善の道を選びたいと、かように考えております。」と言う言い方で明言を避けていますが、その方針はまだ具体的に決まっていなかったのではないかと言うことが伺われます。

さらに、ここで、広田幸一議員の質問が続き、日本社会党では当時鉄建公団を設立するのは反対したと言っています。

> 「当時三十九年、私はいろいろ聞いてみますと、あのときはこういうものをつくるべきではなかったというようにわが党等は反対したようであります」

この辺は、今後当時の議事録などを探してみたいと思います。
鉄建公団は、元々は新線建設を輸送力増強に対して後回しにしていたことに対して当時の大蔵大臣であった田中角栄がしびれを切らせて作ったような経緯があります。
実際には、新幹線建設の資金調達で窮地に立った時に救ったのが田中角栄でありその辺をむげに断れなかったという事情も国鉄に有ったかもしれませんが、その後田中角栄は新潟に上越新幹線を敷設させるわけですから、田中角栄の政治力は良くも悪くも強大なものであったことも伺えます。
ちなみに、東北新幹線は国鉄の直営、上越新幹線は鉄建公団が建設しているのもその辺の事情を反映しているかもしれません。

さらに、質問は続き、東北新幹線の建設は、国鉄がしているけれども同じような問題が起こるのではないのかと質問をしており、高木総裁に回答を求めています。

> 「それから、東北新幹線はこれは国鉄がおやりになっておるわけでありますけれども、東北新幹線の場合も、やっぱり大なり小なりこの鉄建公団とは若干違います、内部的に違うと思うんですが、東北新幹線も五十八年ごろにそういう事態が起きてくる可能性があるかと思うんですが、この点についてもやっぱり同じようなことを心配するわけでありますが、この点について国鉄側の御見解をお聞かせいただきたい。」

それに対して、高木総裁は、現在の職員の多くは他の管理局などからの出向も多いので、東北新幹線建設後は地元に戻って在来線の改良工事などに携われたいという発言をされています。
「説明員(高木文雄君) 現在東北新幹線にはかなり多数の職員を振り向けております。そこの職員は非常に気の毒なんですけれども、ほかの地域から一定期間派遣をされておるという職員がかなり大ぜいいるわけでございまして、これが終わりましても私どもとしてはいささか現在、在来線の方のもろもろの改良等の工事が資金的に不足のためにおくれておりますので、東北新幹線が完了いたしました場合には、ぜひいまの資金量を在来線の方の整備拡充に振り向けさしていただきたいと思っておりますから、事業量としては東北新幹線完成後におきましても極度に減るということは予定をいたしておりませんので、私ども職員のいろんな意味での不安定ということは、この工事が終わりましても起こらないものというふうに考えておるわけでございます。」

ということで、鉄建公団についてはその処遇がまだ決まらないが今後検討するという形で質問は終了しています。


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************************以下は本文になります。********************

○広田幸一君 運輸省にお尋ねしますが、これは昨年の十二月二十八日の閣議決定で、「昭和五十五年度以降の行政改革計画(その一)の実施」ということで出ておりまして、特殊法人の整理合理化、その中に「日本鉄道建設公団については、上越新幹線及び青函トンネルの本体工事が完了した時点(昭和五十八年度)において、他との統合等を図る。」と、「統合等を図る」というふうになっておるんでありますがね、これは閣議決定でありますから大臣も御承知になっておるわけでありますね、運輸省としても御承知になっておるわけですが、大体廃止するとかどこかと統合するとかあるいは縮小するとかいうのが一般の場合だと思うんですが、ここに「統合等」と書いてありますのは、やっぱりいま私が言い、総裁の方からもお話があったようないろんないきさつがあって、ここではっきり言えないという事情があって私は「統合等」というこういう表現になっておると思うんであります。
 しかしこれは行政管理庁がそれぞれ調査をして、その資料に基づいて関係各省でいろいろと結論を出されたと思うんですが、運輸省としては、この問題について総裁の方から一つの考え方と要望が出たわけでありますが、運輸省としてどのようにお考えになっておられますか。

○政府委員(山地進君) いま仁杉総裁が言われたとおり、私どもも鉄建公団は優秀な技術集団であるということはよく認識しておる次第でございまして、いまのお話にありましたように「統合等を図る」ということにつきましては、いろいろと今後検討の余地がある、選択の余地もあるというふうに考え、各方面とも御相談をして最善の道を選びたいと、かように考えております。

○広田幸一君 総裁も、昨年不幸にしてあのような事態があってあなたも御苦労で総裁になっておられるわけですけれども、この問題は大きな問題ですからね、総裁のような偉い人はどこかに行くところがあるかもしれませんけれども、当時三十九年、私はいろいろ聞いてみますと、あのときはこういうものをつくるべきではなかったというようにわが党等は反対したようでありますが、それはそれとして現実にこういう事態が出ておるわけでありますから、ひとつ今後の問題として、もう二年、三年と言えばすぐたつわけですから、そういう皆さんのその技術が将来生かされるような方向で連絡をとって、ひとつ十分な努力をしていただくように特に希望しておきたいと思います。
 それから、東北新幹線はこれは国鉄がおやりになっておるわけでありますけれども、東北新幹線の場合も、やっぱり大なり小なりこの鉄建公団とは若干違います、内部的に違うと思うんですが、東北新幹線も五十八年ごろにそういう事態が起きてくる可能性があるかと思うんですが、この点についてもやっぱり同じようなことを心配するわけでありますが、この点について国鉄側の御見解をお聞かせいただきたい。

○説明員(高木文雄君) 現在東北新幹線にはかなり多数の職員を振り向けております。そこの職員は非常に気の毒なんですけれども、ほかの地域から一定期間派遣をされておるという職員がかなり大ぜいいるわけでございまして、これが終わりましても私どもとしてはいささか現在、在来線の方のもろもろの改良等の工事が資金的に不足のためにおくれておりますので、東北新幹線が完了いたしました場合には、ぜひいまの資金量を在来線の方の整備拡充に振り向けさしていただきたいと思っておりますから、事業量としては東北新幹線完成後におきましても極度に減るということは予定をいたしておりませんので、私ども職員のいろんな意味での不安定ということは、この工事が終わりましても起こらないものというふうに考えておるわけでございます。

○広田幸一君 終わります。

○委員長(黒柳明君) 午前の質疑はこの程度にとどめ、午後一時まで休憩いたします。
   午前十一時五十分休憩
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山陽新幹線と寝台夜行列車

2017-02-12 20:45:11 | 国鉄思いで夜話
東海道新幹線が開業したのは昭和39年10月、世界の四大馬鹿(ピラミッド・戦艦大和・万里の長城・新幹線)と言われたものの、恐る恐る蓋を開けてみれば大盛況、世界銀行から借りた借款8000万ドル(当時は三六〇円固定レートですので、)も約2880億円現在の物価で考えればさらに10倍程度と考えると2兆8000億円の融資を受けたことになっており、1981年には完済しているとのことですが、新幹線は、鉄道が斜陽化した産業であると言われていた常識を覆したと言えます。
さて、今回は東海道新幹線のお話ではなく、その後計画された山陽新幹線のお話です。
東海道線の別線として計画された東海道新幹線ですがその有用性から山陽区間に延伸して博多までを結び計画が出てくるわけで、昭和41年の当時の部内記事などを参照してみますと、将来は新大阪ら博多まで延長する計画が既になされています。
更に当時の最高速度200kmで運転すると東京~博多間は7時間程度となり昼行よりも夜行志向がたかくなるであろうということで、新幹線版夜行列車のダイヤも検討されました。
当時の計画では、新幹線版寝台列車は21:00~23:00頃までに東京を出発して博多に翌朝の7時から9時までに到着できるように、約10時間運転で計画が練られたそうです。



当時の計画では12両編成、かつ10分間隔で12本が運転できるとされていました。
なお、当時の計画を見ていますと、山陽新幹線の4区間程で下り列車は2時間以上停車する形となります。

この計画段階では、一部区間を3線とする計画で、交互に日によって閉塞区間を変えるなどの計画も検討されたようですがそうなると、日毎にダイヤを変更しなくてはならず大変手間もかかるといことで採用はされなかったようです。

そしてその駅間は単線区間となることから線路保守の横を200kmで通過するわけにはいかないので110km/hで通過するようにダイヤが検討されたようです。


当時は作る気が満々だったようで、実際に昭和48年には961形試験電車

6両編成の中に、食堂車や寝台車(大きな車両限界を利用して2段式寝台で通路を隔てて設ける方式で1区画6人を確保するB寝台や、
後年のロイヤルに近い形の寝台車であり他にも、ナロネ20のルーメットタイプ個室寝台や食堂車が試作されました。


食堂車は、新幹線博多開業時に36形食堂車として日の目を見ることとなりましたが、画像Wikipedia
新幹線騒音訴訟などに見られるように、住民からの反対運動などもあり計画はされていたものの新幹線の夜行運転は日の目見ることはありませんでした。

歴史にIFはありませんが、仮に新幹線による夜行運転が実現していたら、現在の夜行列車地図も大きく変わっていたのではないでしょうか。
九州ブルトレは、JR東海とJR西日本の共作で21:30頃から23:30頃まで5分おきに出発するなんて構図が出来ていたかもしれません。
また、新大阪からも同様に最終東海道新幹線を受けて,23:40~24:10頃までの間に鹿児島中央行きの夜行新幹線が運転していたかもしれません。

仮に、当時の住民運動で新幹線の反対をしていなければと言う仮定ですが・・・。

一部の画像は、交通技術昭和41年10月号から引用しました。

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参議員-運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日 第21話

2017-02-06 23:34:41 | 国鉄関連_国会審議
こんばんは、約2週間ぶりになりますが、参議院運輸委員会-2号 昭和五十五年十月十六日のお話を始めたいと思います。
前回は、国鉄改革と関連して、新しい交通体系構築について質問された際、「国土庁、それから大蔵省、自治省などと集まっていろいろ議論をしていると」
と言った非常に歯切れの悪い答弁をしていたのですが、理想論でいくら言っても実際には、きちんとした答えを出せていないのが現状であり、この辺は広田幸一議員も判っているようで、現状では無理であろう、しかし、無理と言うってしまっては意味がなく、国鉄を何とかしなくてはいけないということは一般国民も理解しているであろう、しかし現状の国鉄再建はかなり難しいのではないかと言う
「国鉄の再建を図らなきゃならないという重大な時期に来ておると思うんですね。私たちそのことはわかるわけです。しかし、一方においてはこういうことが、政治的な絡みでもたもたしておるような状態を国民は一体どう見るだろうか。」
ということで、実際に国鉄改革法が議論を始めた昭和55年頃は本当に国鉄改革が出来るとは誰も思っていなかったというのが正直な感想かと思います。
そこで、下記のような発言になると思うのですが。
「とにかくいずれにしてもこの問題はいろんな国鉄再建と絡んだ問題でございますから、早急に結論を出していただくと。私たちは意見として言えば、いまの時点でこのようなものは泣いて馬謖を切るといいますか、やめるべきである。切る、凍結というかな、当分の間やるべきではないと、こういうふうに思います。」
ということで、思い切って止めてしまうことも必要であると言っておりますが至極正論だと個人的には思っております。
さらに、ここで注目すべき質問をしているのですが、鉄建公団のその後の在り方についてです。
鉄建公団は、当初は昭和58年頃に廃止されてしまう可能性があったことがここで示唆されています。
さて、質問の解説を加える前に少しだけ鉄道建設公団(現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構の前身)について簡単にお話をさせていただこうと思います。
鉄建公団は昭和39(1964)年)3月23日に日本鉄道建設公団法に基づき発足した特殊法人で、本来鉄道建設は鉄道敷設法に基づき国鉄が建設するものとされていましたが、独立採算制の手前地方ローカル線の場合は建設しても赤字になることが判っていたこと、更に輸送力増強などの投資に回す必要からローカル線の建設は遅々として進みませんでした。
それに対して、国鉄に代えて鉄道を建設する方式としたもので、田中角栄がかなり積極的に動いたと言われています。一説によればかなりの鉄道好き(鉄道ファンとと言う意味ではない)であったと言われています。
そこで、地方交通線を建設する、A・B線と幹線系のC・D線と分類し、A・B線は建設の後国鉄に無償譲渡、C・D線は有償譲渡し、年賦で公団に建設費を償還するという仕組みでした。
逆に言えば、A・B線は引き受けても赤字になる線路が殆どであり国鉄としても引き受けたくないのにと言うのが本音でしたが、政府に押し付けられてしまうということが多々あったようです。
それが、国鉄再建法の審議がが始まったとで原則的に工事は中止となり、昭和58年頃までには解散する方向に向かっていたようです。
実際に、路盤が90%近くまで完成して放置されてしまった未成線も多く、陰陽連絡として開通した智頭急行のように、その後高速化を含めた改修を図って、A・B線でしたが現在は重要な運用連絡線になった智頭急行の例などは例外中の例外と言えそうです。

上郡駅にて、JR西日本の運転手と交代する智頭急行の運転士

実際には、前述の智頭急行のように、地域による第3セクター鉄道として建設される事例があったため、鉄建公団自体は2003年(平成15年)に運輸施設整備事業団と統合されて、
「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」として現在も引き継がれています。
なお、この当時の鉄建公団の総裁は、9代目国鉄総裁に就任する仁杉巖氏です。

広田幸一議員はここで、下記のような質問をしています。
「これは鉄建公団の総裁にお尋ねをすべきかと思うんですが、いままで論議をしてきましたように、AB線それからCD線についても、国鉄、運輸省の方針としては、第三セクターが受けてくれるものはやるということなんですが、なかなかそういうところはこれから余り、出てくるかどうかわかりませんし、決着はどういうふうにつくかわかりませんが、いずれにしても、大勢としては工事を中止する、凍結をするということになると思いますし、それから鉄建公団が工事を進めておりますところの上越新幹線は、大宮の辺で少しもたもたしておるようでありますが、それでもあと一、二年もすれば完成するであろう、それから青函トンネルも五十八年ごろには終わるだろうと、こういうふうに聞いておるわけであります。」
といいうことで、昭和58年(1983年)には鉄建公団の仕事が無くなってしまうのではないかと、「総裁としてどういうふうにお取り組みになっておりますか、少し詳しく、希望とか意見もあろうと思うんですが、お答え願いたいと思います。」
と言う質問をされています。
それに対して、「昭和五十八年度に「他との統合等を図る」という決定がされております。」ということで、解散統合は示唆されているのですが、実際にはその後、第3セクター鉄道の建設や、その後の国鉄清算事業団(3年の時限立法で設立された清算法人)の業務を引き継ぐなどして2003年まで結局は存在していたのは承知の通りだと思います。
ただ、この時は方針だけはあるけれど実際にはどうなるか鉄建公団自体が見えていなかったということに驚かされます。

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国鉄があった時代 JNR-era

*********************以下は、国会審議の本文になります。******************
○広田幸一君 局長としても非常に答弁のしにくい問題のようですが、いずれにしても国鉄再建法案というものがいま出て、きのうから衆議院で論議されておるわけでして、参議院に来るかどうかわかりませんが、とにかくいま国鉄の再建を図らなきゃならないという重大な時期に来ておると思うんですね。私たちそのことはわかるわけです。しかし、一方においてはこういうことが、政治的な絡みでもたもたしておるような状態を国民は一体どう見るだろうか。やるならやる、やらないならやらない、やる場合にはこうするとか、私はこういう報告書を見ますと、とてもやれるような状態ではない。局長にイエスかノーかと言ったら、私はノーと言われると思うんですよ。そういう質問しませんが、常識的に見ても、それは私が聞いたところでもノーという数字が出ておるんですから。しかし、それは政治的な絡みがあるわけですから。国鉄再建問題もやっぱり政治的な絡みもあるわけですからね。われわれも協力するところは協力しなきゃならぬと思っておるわけです。
 これ以上言ってもいい答弁はできぬと思いますが、とにかくいずれにしてもこの問題はいろんな国鉄再建と絡んだ問題でございますから、早急に結論を出していただくと。私たちは意見として言えば、いまの時点でこのようなものは泣いて馬謖を切るといいますか、やめるべきである。切る、凍結というかな、当分の間やるべきではないと、こういうふうに思います。
 それから、今度は話をちょっと百八十度転換をしまして、これは鉄建公団の総裁にお尋ねをすべきかと思うんですが、いままで論議をしてきましたように、AB線それからCD線についても、国鉄、運輸省の方針としては、第三セクターが受けてくれるものはやるということなんですが、なかなかそういうところはこれから余り、出てくるかどうかわかりませんし、決着はどういうふうにつくかわかりませんが、いずれにしても、大勢としては工事を中止する、凍結をするということになると思いますし、それから鉄建公団が工事を進めておりますところの上越新幹線は、大宮の辺で少しもたもたしておるようでありますが、それでもあと一、二年もすれば完成するであろう、それから青函トンネルも五十八年ごろには終わるだろうと、こういうふうに聞いておるわけであります。
 そうなってきますと、そういう仕事に従事しておる鉄建公団の職員というのは約三千数百おるように聞いておるわけであります。これは全体、役員の方も含めてかもしれませんが、そういう人たちがこれから五十七年、八年先になった場合にどこに行くのかという問題があるわけですね。私たちが聞いておりますのは鉄建公団の技術職員というのは世界的にも非常に技術の発達したといいますか、優秀な技術者のいわゆる技術集団であると、こういうふうに聞いておるわけでありまして、この人たちの技術を将来のこれからのいろいろな面における日本の経済の発展のために役立たせるべきであると、こういうふうに思っておるわけですが、こういう人たちが、もうあと二年したならばどこに行くかという問題が私は出てきておると思うのですが、この点について、最高の責任者でありますところの総裁としてどういうふうにお取り組みになっておりますか、少し詳しく、希望とか意見もあろうと思うんですが、お答え願いたいと思います。

○参考人(仁杉巖君) 先生御承知のとおり鉄道公団は、昨年の暮れに、昭和五十八年度に「他との統合等を図る」という決定がされております。いまお尋ねの総裁としての立場から申し上げますと、一つの公団あるいは企業体と申しますか、そういうものが、三年先と申しますか、そういう時期にどういうふうになるかよくわからないというようなことに立ち至りますと、現在三千三百程度の役職員がおりますが、その職員はもちろん、あるいはその家族にとりましても非常に不安になるということがございます。そしてまた職員そのもの、いま先生の御指摘にございましたように、大変総裁として申し上げるのは口幅ったいかもしれませんが、一生懸命でいい仕事をしている集団でございますが、その職員たちの士気をどういうふうに維持していくかということにつきましては非常に私ども困却をしているというようなことが実情でございます。
 事実私ども幹部が現地へ参りまして、あるいは本社の職員等といろいろ対話をいたしますと、やはり一番先に職員から出ますのは、五十八年度以降どういうふうになるでしょうか、総裁はどう考えているかというような話が出てまいるわけでございます。
 もう一つ私が非常に心配しておりますのは、こういう状況のままで時間が経過をいたしてまいりますと、公団には相当優秀な技術者、事務者、事務関係者がたくさんおるわけでございますが、そういう人たちの将来の展望の中から民間に転出していこうという、あるいは他に転出しようかというような傾向が出ないとも限らないということでございまして、現在公団が持っております優秀な技術集団としての能力がだんだん低下をするのではないかというような心配をしております。
 それで、こういう考え方がございますので、私は運輸省初め各方面にもいろいろ、五十八年度に政府決定のとおり他との統合、変貌をするということは間違いないと思いますけれども、それまでの間にだんだん仕事が少なくなってくるということによって職員の不安ないしは転出というようなことの事態の起こらないように何とか新しいプロジェクトにも参加をさしていただきたいということをお願いをしております。幸い皆様方のある程度御理解を得られまして、いろいろと御配慮をいただいておりますので、現時点におきましては職員一同も非常に張り切り、また他に転出するというような傾向も全然現在のところまだ見られていないということで、現時点におきましては皆一生懸命で業務に精励をし、上越新幹線あるいは青函トンネルあるいはAB線、CD線その他いろいろな仕事について一生懸命に精励をしているということでございます。
 今後の問題につきましては私の立場からなかなか申し上げにくいのでございますが、運輸省初め各方面からいろいろと御意見を承っておりますし、また御指導も得ておりますが、総裁といたしましては何とかこの鉄道公団の優秀な技術集団が、その力を保持したかっこうで、昭和五十八年度におきまして国益に役立つようなそういうような方向がとれるということをいたしたいということでいろいろ努力を重ねているというのが現状でございます。
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